新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

波乗り雑記帳36ー新たな鵠沼海岸ライフー

2019-09-29 06:58:59 | 日記
20歳の頃の僕は、渋谷のディスコCの看板のような存在だったスーパーショートボードをMから譲り受けた。
これが、マジックボードとも言えそうなほど調子の良いサーフボードだった。

ところで、新宿から湘南・鵠沼海岸に戻った僕は、再びMやHの住む海辺のアパートK荘に転がり込む事はせず、直ぐに1人暮らしが出来るアパートを見つけて、そこに住み始めた。

僕が1人暮らしをスタートさせたアパートは、鵠沼海岸駅の裏手から線路に沿って徒歩5分(約350メートル)ほど南東方向へ向かった踏み切り近くにあった。
(Googleマップで見ると、現在はそのアパートは無くなり、コインパーキングになっているようだ)
2階建ての古くて小さなアパートで、1階はご家族が1家族住んでいて、共用スペースには井戸があった。
2階は4.5畳の部屋が3部屋有った。即ち201号室、202号室、203号室である。
各部屋には小さな洗面台はあるものの、トイレは共同。風呂は無かった。
そのため、サーフィン後には、共用スペースにある井戸の水を浴びたり、自室の洗面台でお湯を沸かしてシャンプーしたりして過ごした。
ただこのアパートは、家賃は安かったし、海までは、踏み切りを渡って真っ直ぐの一本道で徒歩6分程度だった。

さて、僕はこのアパートの203号室に住んだ。
この部屋は、僕が住む前には、サーフィン仲間の1人であるN大学の○浦(19歳)が住んでいたそうだ。
(○浦については、2019/3/24UP「波乗り雑記帳25ー新キャラ続々登場ー」に書いた。)

そして、202号室は空室。

201号室には、僕と同じ年で当時20歳のAが住んでいた。
Aは、C大学の2年生。
彼もまた、やはりサーフィンがしたくてこのアパートに住んでいた。
Aの事は、以前から、鵠沼海岸周辺でサーフィン中によく見かけていたので、お互いに顔は見知っていた。
ただ彼は、僕やMのようにチャラチャラしてなくて、どちらかと言うと物静かな印象の人なので、それまで話した事は無かった。
だがサーフィンの腕前は、僕やMと同レベルか、もしくは僕やMより少し上手い位だった。
また、Aには、サーフィン以外にも趣味があった。
アメリカンタイプのバイクが好きで、パーツを買い集めて自らバイクを組み立てて、北海道でバイクの旅をするような面もあったのだ。

一方、Mが渋谷のディスコCの企画リーダーになった事で、僕とMは、以前にも増して渋谷に遊びに行く事が多くなった。

特に、当時、渋谷109で働いていたオシャレな女の子2人組、YちゃんとKちゃんと一緒に遊ぶ事が多かった。
彼女らも、当然サーファーであり、渋谷で遊ぶだけではなく、湘南にもサーフィンをしに来ていた。

ほかに、当時、渋谷にあった某サーフショップの店員をしていた女の子とも よく遊んだ。
ある晩、そのサーフショップの彼女が僕のアパートに泊まりに来た。
それから間もない頃、僕は、また別の女の子を連れて彼女が働く渋谷のサーフショップに遊びに行った。
するとサーフショップの彼女は、凄くムッとして怒った顔をしていたのを覚えている。
いや、今思えば、あの時の僕は無神経すぎたかも知れない。ごめんなさい。

それから、これもまた別の女の子の話しだが、その彼女の父親がマクドナルドの関係者か何かで、当時、彼女から、マクドナルドのハンバーガーの無料券を数枚もらったのを覚えている。

いや、マクドナルドのタダ券というのは、後にも先にも、その時に手にした数枚以外には、僕は見た事も聞いた事もない。僕の知る限りに於いて、とても珍しいものだった。

実際、当時 僕が住むアパートから近いマクドナルド江ノ島店でその無料券を提示したら、店員も初めて見たらしく、「少々お待ち下さい」と言って しばらく待たされた。
おそらく店長に相談したり、本部に確認の電話でもしていたのではなかろうか。
結果は、当然の事ながら、無料券は全て使用可能。マックでタダでガッツリと食事が出来たw

その少し後だっただろうか。

サーフィン仲間の1人で、N大学2年生○ヨちゃんは、このマクドナルド江ノ島店でバイトしていた。
(○ヨちゃんは、僕と同じ年の20歳。上に書いた○浦の1学年先輩)

また、この頃のサーファー系雑誌「ファイン」には、表紙から中の記事に至るまで、毎回必ずサーフィン仲間の誰かが写真付きで載っていた。
当時はまだ「読者モデル」という言葉は無かったと思うが、その「読者モデル」の走りのようなものだったと言ってよいだろう。

そうこうしている頃、久々に新宿のK子が遊びに来た。

数ヶ月会っていなかった間に、K子は、車の免許を取得し、最大9人迄乗れる大きなワンボックス車も購入。
その車でドライブがてら僕のアパートに遊びに来たのだった。
これ以後、K子が車で遊びに来る時には、湘南のみならず、伊豆方面や、千葉方面にもサーフィンしに行けるようになり、サーファーとしての行動範囲が一気に広がった。

一方で、鵠沼海岸では、サーフィン中に、更なるサーフィン仲間が出来た。
佐○くんと西○くんだ。
彼ら2人は、僕より1つ年上の21歳で、僕の住むアパートから徒歩5分程の所にあるマンションにルームシェアして住んでいた。
佐○くんは、偶然、僕と同じアパートのAと同じC大学の学生だった。
しかしAより1つ上の学年だし、学部も違ったのか?Aとの交流は無かった。
その佐○くんは、とても気さくな人で、彼の誘いで、時々サーフィン後にシャワーを浴びさせてもらった。
一方の西○くんは、藤沢の喫茶店でバイトをしているフリーターだった。
彼は、「自分は自分、人は人」という考えなのだろうか、彼らのマンションに遊びに行っても あまり歓迎はしてくれなかった。とにかく、ちょっと冷たい印象を受けた。
因みに、彼ら2人、即ち佐○くんと西○くんのサーフィンレベルは、僕やMより やや劣るMのルームメイトのHと同じ位だった。

ところで、僕とAが住むアパートの隣には、個人経営の小さな電器店?のような店があったのだが、いつも薄暗くて人影も無く、ほぼ閉店状態のようだった。
ある日、その店が完全に閉店し、別の所有者に売り渡されたのか?
店の改修工事が始まった。
どうやら、今度は電器店ではなさそうだ。
「何か別のお店になるのだろうか?」と思って気にしていたのだが、かなり短期間に、新たな店が出来上がった。
その店は、元の薄暗い電器店とは真逆の、明るくてオシャレでカッコいいサーフショップに変貌を遂げたのだった。

そこは、プロサーファーのO.Kさん(たぶん当時30歳位?)がオーナーを勤める「P B」 というサーフショップだった。


(以下はまた次回)


【写真: 本文とは無関係。
先日、いつも通り夜明けと共にサーフィンをした某海。
この美しい朝焼けを、生で見るだけでも素晴らしい瞬間を味わえるわけだが、この風景に溶け込むように、実際に海に入ってサーフィンをすると、更に極上のひとときを堪能できる。
これは、我々サーファーの特権とでも言えそうだ。
あっ、そう言えば、この前(「迷惑なんですけど」の回の文末)この海で、20歳代の若くて綺麗な女の子から声をかけられた事を書いたが、いま思えば、あの女の子は、人魚だったりして?w
または、この海で亡くなった女性の幽霊だったりして?】
◆新・からっぽ禅蔵 別録~『波乗り雑記帳』~

禅ネタ本20ースッタニパータと四邪命食ー

2019-09-22 04:20:04 | 日記
序章7

宗教と酒との関係3・「スッタニパータと四邪命食」


さて、先にキリスト教修道院でアルコール飲料の製造をしていたことに触れたが、仏教寺院で造られた僧坊酒もそれと同様のことであろう、と看過することは出来ない。

修道院での酒造はキリスト教の教義に特に違反していない。

一方、仏教では、不飲酒戒が存する限り、飲酒は勿論、仏教寺院での酒造など、本来なら許されることではない。

もっと言えば、もともと出家者は生産活動を良しとしなかった。

現存する仏教経典中に於いて最古にして特に重要な経典である『スッタ二パ―タ』には、次のような記述がある。

「ブッダ(釈尊)は、田を耕すバラモン・バ―ラドヴァ―ジャと出会った。
バラモン・バ―ラドヴァ―ジャは、あなたも種を播いて耕して食えとブッダに言った。
それに対するブッダの答えはこうであった。
わたしにとっては、信仰が種子(たね)である。苦行が雨である。智慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)とである。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることがわが鋤先と突棒とである。身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して禍食しない。わたくしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和がわたくしにとって〔牛の〕軛を離すことである。」

そればかりではない。

バラモン・バ―ラドヴァ―ジャが鉢に盛った乳粥(ちちがゆ)をブッダにささげると、ブッダはそれを棄てさせている。
そしてバラモン・バ―ラドヴァ―ジャは、ブッダのもとで出家した、というのである。
(参考:『ブッダのことば―スッタ二パ―タ―』中村元訳 岩波書店 1984年、23頁~26頁。第1 蛇の章 4、「田を耕すバーラドヴァージャ」)

また、本来 仏教には「四邪命食(しじゃみょうじき)」に示される4つの禁止事項がある。
これは、出家修行者として、正統な手段によって得たものではない4種の食を示したもの。

⑴方口食=方々で言葉を巧みに使って得た食。
⑵維口食=医や占いなどで得た食。
⑶仰口食=占星術で得たもの。
⑷下口食=耕田してつくった食。

以上4種をいう。

(参考:『佛教語大辞典』縮刷版 中村元著 東京書籍 昭和56年、514頁。/『中国禅宗史話‐真字「正法眼蔵」に学ぶ‐』石井修道著 禅文化研究所 2003年、219頁。)

農耕などの生産活動は、上の⑷に示した下口食に当り、出家修行者として好ましくない行為ということになる。

ところが、仏教が中国に伝わると事態は一変する。

そのあたりの事は次回に書くが、
まあ、虚心に見るならば、上に紹介した「スッタニパータ」に於いて、バラモン・バ―ラドヴァ―ジャが食べ物(乳粥)をブッダに捧げているのに、その食べ物を棄てさせたブッダの行為は、いかがなものか?と思ってしまう。
他者からの施しによって生きる出家者が、その施しを棄てさせるとは何事か?
いや、それ以前に、食べ物を粗末にする行為は人として どうかと思う。
一方で、本来 仏教では生産活動を良しとしないのに、中国や日本ではその真逆。積極的に生産活動を加えた営みが展開される。
いや、方針を真逆にまでするのなら、そうまでして仏教を輸入し存続させる必要があったのか?とさえ思わされる。
まあ、そこは、時の権力者や政治的視点から見て、仏教に利用価値があったり、有力なスポンサーが仏教を支持したからなのだろうけど。

以下は次回に続く。


【写真:本文とは無関係。
先日、サーフィンをした某海。
まあ、仏教を取り巻く人々には、当然の事として、それぞれ様々な思惑があった。いや、仏教そのものも、さかしらな人間が考え出したものに他ならない。
それに比べて、サーフィンを行う海と、そこに立つ波には、人間による作為も思惑も無い。
思えば、僕は、禅・仏教を大学で4年間学び、僧侶としてタイや日本で修行し、今も僧侶として収入(お布施)を頂いている。
言わば、学問と経験・知識と実践の両輪を以て禅・仏教と向き合っている。
まあ、実践修行のし過ぎで、完治しない持病に苦しむハメになったが、それ以外は、そこそこ思い通りの人生を送れている。そうした事には感謝している。
だがそれ以上に、サーファーとして無為自然なる海に戻れた事に、喜びと感謝の気持ちがある。
更に、そうしたサーフィンへの思いを、僕の妻は、深く理解してくれている。
それが何よりも、有り難い事である。感謝 合掌
尚、僕がサーフィンで遊ばせてもらっている千葉県には、日頃の感謝とお見舞いの気持ちを込めて、「台風15号被災者への義援金」をお送りします。】
◆新・からっぽ禅蔵◆

迷惑なんですけど

2019-09-15 06:21:17 | 日記
サーフィンをするには、サーフボードやウェットスーツは大切であるが、それ以上に大切なのが、サーフィンに於ける最低限のルールとマナーだ。

更に、通常のサーフィンルールとマナー以外にも、ローカル(地元サーファー)とビジター(他の地域から海へサーフィンをしに行く訪問者サーファー)の問題も重要である。

基本的に、ローカルが優先と思っておいて間違いない。
ビジターは、ローカルたちが住む地域に訪れて、遊ばせてもらうわけなのだから、それなりに謙虚さを忘れずにいたいものだ。

そもそもローカルは、基本的にその地域の住民税も払っているはず。
我々ビジターは、それすら払っていないのだw

世界的に有名なサーファーであるロブ・マチャドも、ハワイのパイプラインのローカルについて次のように言っていた。
「パイプラインは危険な波だからね。ローカルが目を光らせているのは良い事だと思うよ」と。

勿論、僕自身も、過去にローカルにモンクを言われてイヤな思いをした事だってあるし、人によっては、ローカルから もっと酷い目に合った事がある人もいるかも知れない。
ビジターとして長年サーフィンをしていれば、誰しも1度や2度はローカルにイヤな思いをさせられた事はあると思う。
しかし、それでも、ローカルがいるエリアでは、それなりの秩序が守られるのだ。

一方、ローカルが居ない海ではどうか。

勿論、ローカルを気にする事なく、ビジターでも自由にのびのびとサーフィンを楽しめる事が少なくない。
しかし、場合によっては、秩序が無くて、無法地帯になっている事がある。

例えば、先日、僕がサーフィンをした海で、次のような事があった。

ビジターサーファーの5~6人のグループが、海の中で大騒ぎしていた。
それはまるで海を占領しているかのような我が物ぶりだった。
そんな中で、僕が良い波をキャッチして乗ろうとすると、そのグループは、大声で「あっ!」「あっ!」とか「アブねー!アブねー!」などと言って騒ぎ立てた。

要するに、こうだ。

「あっ!アブねー!」などの緊急事態を知らせる声を耳にすれば、こっちも、「えっ?なんだろう」と思ってその波に乗るのをやめて見送る。
しかし実際は、「あっ!アブねー!」なんて言うような緊急事態は何も起きてなくて、ただ大声を出して、僕が波に乗るのを妨害しているだけなのだ。

こうした行為は、かなり悪質だ。
なぜなら、場合によっては、海の中では本当に危険な事だって起きうる。
そんな場所で、起きてもいない〝危険〟を叫んで他人のサーフィンを妨害する行為は、これ以下はないほどの最低な行為だ。

これは、実際は溺れていないのに、溺れたふりをして「助けてくれ~」と叫んで周囲に多大な迷惑をかける事と同類だと断言して良いであろう。
こういう輩は、もはやサーファーとも呼べない。

「ギャーギャー騒いで他人のサーフィンをジャマするなら、もう2度と海に入って来るんじゃねーよ」と言いたい。

ところで、話しは変わるが、先日、僕が僧侶としてお勤めさせて頂いたご葬儀では、少し変わった喪主様がいらした。

弔辞は、我々僧侶が行う葬儀式の後にすれば良いのに、わざわざ式の途中で、式を中断して、亡くなった故人の友人たちに弔辞を読ませたのだ。
しかも1人ではなく、3人もだ。
1人あたり5~6分。それに、次の人に交代する時間もあるので、3人が弔辞を終えた頃には、20分も経過していた。
つまり20分間も式を中断させたのだ。
このため、僧侶である僕からの読経後の法話の時間は無くなり、やむを得ず、法話は割愛した。

それだけではない。

式後、その葬儀ホールから車で30分以内に到着できる火葬場まで、1時間もかかったのだ。

どういう事か?というと、喪主様が、「火葬場へ直行するんじゃなくて、多少 遠回りでも、自宅の前の道へ回って 自宅前を通ってほしい」と、霊柩車のドライバーさんにそんな我がままを言ったそうだ。
このため、火葬場到着は大幅に遅れ、火葬場の予定時刻はメチャクチャになった。

通常、この火葬場では、到着してから「お別れ室」に案内され、そこで、再度、お棺の中の故人のお顔をご覧になり、我々僧侶の読経のもと、ご焼香もして頂ける。
だが、到着が大幅に遅れたので、それらは全て省略され、故人は大急ぎで火葬炉内へ直行になった。

葬式では、式を20分も中断するものだから我々僧侶の法話は無くなり、
火葬場では、30分以上も遅れて到着したため故人のお顔も見れず、焼香も無しになって火葬炉へ直行。

これが、本当に喪主様の望んでいたご供養だったのだろうか?

いや、葬式は、中断などせずに、やはり我々僧侶に任せたほうが良いご供養になるし、
火葬場到着の時刻を無視するのではなくて、時間はしっかり守り、火葬場の係りの人や我々僧侶に任せれば、火葬炉に入る前にゆっくりお別れ出来たのだ。

結局、その喪主様は、自らの我がままのために、かなりの損をしたという結果になった。

さて、改めて言いたい。

サーフィンをする海には、ローカルがいたほうが秩序が守られる事が多い。

葬式では、基本的に、我々僧侶や、葬儀や火葬のプロに任せたほうが、秩序あるスムーズで心温まるご供養が出来るのだ。

いずれにせよ、少なくとも、「自分さえ良ければいい」という考えで、周囲に対して迷惑行為をするのは、やめてもらいたいものだ。



【写真:先日、いつも通り日の出と共にサーフィンをした某海。
この日この場所で、僕は、20歳代の若くて綺麗な女性サーファーから話しかけられた。
内容は、そのポイント(サーフィンする海)についての話しだったが、彼女のほうから声をかけられたので、僕のほうが一瞬ちょっとビックリしたw
しかし、お互いサーファー同士。年齢差を越えて、共通する話題がある事も、サーフィンの楽しさの一部かも知れない。
まあ、一般社会の中にも、禅・仏教が好きな人の中にも、変な奴がいる事があるのと同様に、サーファーでも、中には変な奴もいる。
だが一方で、海の中で挨拶を交わしたり、お互い共通する話題で話したりして、楽しく気持ち良くサーフィン出来る事も少なくない。
それに、何よりも、サーフィンそのものは素晴らしい。】
◆新・からっぽ禅蔵◆

禅ネタ本19ー 般若湯 ー

2019-09-08 11:08:21 | 日記
序章7

宗教と酒との関係2・「般若湯」

さて、前回の冒頭に示した仏教から見た酒の位置づけ。
即ち、『梵網経』で見た通り、飲酒は重大な過ちであるとされ、自らの飲酒のみならず、人に勧めてもならないとされる。

筆者は、前言した通り、日本で出家する前に、短期間ではあるがタイ上座部仏教僧として出家し、タイ北部のチェンマイで修行した経験がある。
そのタイでは、戒律を厳守する。
220以上に及ぶ戒律の中でも、不飲酒戒は絶対に守らなければならない重要な禁止事項であった。

ところが、日本では、僧侶でも檀家・信徒でも、集まりがあれば必ずと言っていいほど酒が出される。
更に言えば、仏教に関わる者が飲酒をするのは、実は現代に限ったことではない。

空海(774~835)の撰とされる『御遺告(ごゆうごう)』(参考:Tー77。412頁・a段。/SATデータベース。)には、

「酒は是れ病を治す珍、風を除ける宝なり」

とある。
つまり酒は、病を直す貴重なものであり、寒さを凌ぐ宝であると、酒の効能を絶賛しているのだ。

更に、青龍寺の大師らとの語らいに擬(なぞら)えて、

「治病の人には塩酒を許す」

と述べている。
塩酒というのが何を指すのか具体的にはわからないが、もしかしたら塩を入れた酒か、或いはそのまま塩と酒という意味かも知れない。現代でも、塩を肴(さかな)に酒を飲む人はいるし、グラスの縁(ふち)に塩を付けて飲むカクテルもある。
ともかく、闘病中の者という限定はかかっているものの、飲酒を許可しているのである。

ほかに、和歌森太郎氏の著書『酒が語る日本史』では、次のようなエピソードが紹介されている。

1146年、比叡山の天台座主が、訪れていた鳥羽法皇に対して、次のように言って飲酒を許可したというのだ。

【以下引用文】
「山の霧、人において毒有り、飲酒はこれを消すと云ふ、中堂(比叡山延暦寺・根本中堂)、酒を禁ずるは酔ひを禁ずるなり、願わくば、上(鳥羽法皇)これを飲ませたまへ」と。
【以上引用文おわる】

ここでは、酒は飲んではいけないものではなく、酔わない程度であれば飲んでよいものに変更されている。

更に同書は、室町時代の臨済宗の禅僧・一休宗純(いっきゅうそうじゅん)(1394~1481)が、酒と色におぼれていたことも紹介している。
(参考:『酒が語る日本史』和歌森太郎著 河出書房新社 昭和46年、94頁、及び、153頁。)

また、森鴎外の「日蓮聖人辻説法」には次のような記述がある。

それは、日蓮(にちれん)(1222~1282)が名越(なごや)松ヶ谷の草庵で、弟子の日朗(にちろう)(1245~1320)と住んでいた頃の話し。

【以下引用文】
第一の童部(わらべ)。
みんな見い見い。名越の(1)が来をるは。
第二の童部。
ほんにさうぢゃ。師匠に飲ませる酒がな(2)買うて来たのぢゃろ。
第一の童部。
そりゃ何ぢゃ。酒か。
日朗。
御菴室には酒といふものはおりない(3)。
第二の童部。
酒じゃなうて般若湯(はんにゃとう4)とやらか。
〔(1)=日朗。(2)酒がな=酒でもの意。(3)おりない=ないの丁寧語。(4)般若湯=僧家の隠語で酒のこと。〕
(参考:『鴎外歴史文學集』岩波書店 2001年、第1巻「日蓮聖人辻説法」394~395頁。)
【以上引用文おわる】

上に引いた記述内容はおそらく創作であろう。
しかし、不飲酒戒が存する仏教徒にとって、酒を扱う場合「酒」と呼ぶことには抵抗があったのは事実であろう。

酒を指して般若湯と呼ぶ語について言えば、宋代の中国で既に使われていた言葉であるらしい。

東坡居士(とうはこじ)と号する蘇軾(そしょく)(1036~1101)の『東坡志林』に、

「僧、謂(い)いて、酒を「般若湯」と為(な)す」

と見える。
(参考:『東坡志林』〔宋〕蘇軾撰 中華書局、巻2「道釋―僧文葷食名」39頁。)

また、禅院を中心に仏家の隠語として用いられたようである。
(参考:『佛教語大辞典』縮刷版 中村元著 東京書籍 昭和56年、1115頁。/『新版 禅学大辞典』駒澤大学内 禅学大辞典編纂所編 大修館書店、1038頁。)

一方で、室町・安土桃山時代の一部の寺院に於いては、飲酒のみならず、酒造までもが行われていた。

なかでも、真言宗御室派・金剛寺(大阪河内長野市)の「天野酒(あまのさけ)」や、菩提山真言宗・正暦寺(しょうりゃくじ)(奈良市菩提山町)で造られた名酒は有名。

ほかにも、中川寺や近江百済寺などの僧坊でも造られたという。

このように、寺院境内の僧坊に於いて製造される酒を、僧坊酒という。

特に天野酒は、太閣秀吉が愛飲し、最高の美酒であるとの評価をしたそうだ。
(参考:『日本酒の来た道‐歴史から見た日本酒製造法の変遷‐』堀江修二著 今井出版 平成24年。/『日本酒の図鑑』㈱マイナビ 2014年。/『〈改定版〉全国寺院名鑑』近畿編 全国寺院名鑑刊行会 昭和50年。)

さて、冒頭に示した通り、タイでは戒律を厳守し、不飲酒戒は絶対に守らなければならない。
しかし日本では、般若湯やら何やら、なんだかんだと理屈をつけて、結局のところ、酒を手放そうとはしない。
いや、そればかりか、寺院で酒造までもが行われていたというのだから、酒との繋がりは根深い。

それは、禅・坐禅とは言ってみても、現実には純粋なインド仏教のそれではなく、中国古典思想の影響を強く受けている事にも似る。
なんとなれば、禅宗を構築した中国人は、仏教と言えども、自国の思想を手放せなかった。
一方、稲作文化圏であり神道でも御神酒(おみき=酒)を重視する日本では、仏教と言えども〝酒〟は手放せないのだ。

とにかく、禅・仏教への盲目的な幻想や狂信的な信仰から一旦離れて、本記事シリーズのように、きちんと点検してみる事こそ、禅・仏教と正しく向き合う事に繋がるものと思う。
(車も、車検などの法定点検を受けずに乗ったら危ないっすよw)
以前にも書いたが、宗教信仰の場では、〝無知〟であるほうが善しとされ、〝知識〟を以て分析しようとする行為を「バチアタリめ」などと言って敵対視する傾向がある。
だが、何も疑わずに無条件に信じこむ事ほど愚かで恐ろしい事はない。
盲目的で無明な人には、そのあたりの事に目覚めてほしいものである。


以下は次回に続く。


【写真:本文とは無関係。
先日、サーフィンをした某海。
因みに我々サーファーは、無知のまま闇雲に波に乗るわけではない。
可能な限り、気象や潮の干満などの情報も総動員して、そうした知識と、波に乗る実践との両輪を以てサーフィンをするのである。
そうそう、それから、サーフィン後に帰宅してから飲むビール、これが最高に旨いのだ!w
「え?僧侶がビール(酒)なんか飲んでいいのか?」
と思った方は、もう1度、本記事をよく読んで下さい。】
からっぽ禅蔵記す
◆新・からっぽ禅蔵◆

波乗り雑記帳35ースーパーショートボード!ー

2019-09-01 07:08:38 | 日記
湘南の本鵠沼のアパートを追い出された僕とK子は、一旦、東京の新宿に戻った。そこで、結婚詐欺に合い吉原でナンバーワンのソープ嬢をしていたSAさんの一件があった事について前回書いた。

さて、年が明けて、翌年の1月上旬。
僕は、再びK子と別れて1人で湘南に戻る事にした。
前にも書いたが、僕とK子は、当時、別れたりくっついたり、一緒に暮らしたり別々に暮らしたりを繰り返していた。

1月上旬のその日の朝。
キリリと冷たく引き締まった早朝の空気の中、K子と暮らしたマンションを出て、僕は徒歩で新宿駅へ向かった。
マンションからは、新宿中央公園を抜けて高層ビル群を横目に見ながらのルートだ。(この辺りは、公園も含めて、当時よくテレビドラマの撮影が行われていた)
新宿駅からは、小田急線「片瀬江ノ島行き」の電車に乗った。
車窓から差し込む朝日が、目を開けていられないほど眩しかったのを覚えている。
そして、数ヶ月ぶりに湘南の鵠沼海岸駅に降り立った。

まず最初に向かったのは、以前MやHと一緒にルームシェアして住んでいた鵠沼海岸のアパートK荘だ。

そこに、僕のサーフボードを預けておいたので、それを使って早速サーフィンをしようと思ったわけだ。

ドアをノックすると、室内からHがドアを開けてくれた。
「はあい、誰ぇ?」と気の無い様子のHだったが、僕の顔を見て表情は一変した。
僕は笑顔で「おはよ。久しぶり」と彼に言った。
Hは、凄く嬉しいに、次のように言ってくれた。
「あっ禅蔵~!久しぶり!なんだよ何ヵ月も連絡なしで何してたんだよお!」と。
僕は、「新宿で女の子の悩み相談にのってたw」と答えた。
そう、それは、前回書いたSAさんの事だ。
しかし、それ以上は、SAさんの事は一切他言していない。
Hは、「えっ?悩み相談?」と聞き返したが、僕は、「いや、まあ いいじゃん!それより、波乗り!波乗り!」と言って話題を変えた。

Hは、この後直ぐに鎌倉のレストランRへバイトに出かけた。
以前は、昼間はサーフィンの時間に当てるため、レストランRのバイトは夕方からしかやらなかったが、今は忙しい時には昼間もバイトに入っているそうだ。

一方、Hのルームメイトで、前年の秋に僕と一緒にダブルのビッグウェーブに乗ったMは、この日は東京都内の実家に帰っていて留守だった。
これもまた、以前はあまり無かった事だ。

ただ、Hの話しでは、この日は、高校(某芸術高校)時代のサーフィン仲間で、現在、東京都内の幾つかの芸術大学に通っている芸大生サーファーたちが来ていて、早朝から鵠沼海岸でサーフィン中だとの事だった。

なのでHは、アパートの部屋の鍵は開けたままバイトに出かけた。
そうそう、この当時 湘南での僕らは、アパートの鍵をかける事がほとんど無かった。
いつもサーフィン仲間たちが出入りするので、常に鍵は開けっ放しだった。
まあ、現在の東京都内等では考えられない事だが。

僕は、さっそく鵠沼海岸で、数ヶ月ぶりにサーフィンをし、Hが言っていた芸大生サーファーたちとも再会した。

サーフィン後に、アパートでシャワー浴びて着替えてからも、僕と芸大生サーファーたちはビーチに行って砂浜に座って語り合った。
この日は、とにかく天気が良くて日差しがポカポカとしていて、とても1月とは思えないほど暖かかったので、ビーチで寛ぐには快適な日だった。

その時、こちらに駆け寄って来るサーファーらしき男が現れた。
それは、去年、ダブルのビッグウェーブに一緒に乗ったMだった。
僕は、Mに対して次のように言った。
「おおっ、M~!久しぶり! あれ?今日は実家に帰ってるってHから聞いたけど?」と。
彼は次のように答えた。
「ああ。そのHから さっき連絡があってさあ。禅蔵が湘南に戻ったって聞いて、今こっちに飛んで戻って来たんだよ!」と。
嬉しい言葉だった。

この日のHやMや芸大生たちとの再会は、キラキラ輝く青春の1ページとして、何十年も経過した今も強く印象に残っている。

さて、この後には、芸大生サーファーたちは東京都内のそれぞれの自宅への帰路につき、一方の僕は、Mと共に、海辺のアパートK荘に戻った。
そこで、Mから1つの提案があった。

それは、サーフボードに関する内容だった。

僕が新宿に戻っている間、このアパートで、僕のサーフボードを預かってもらっていた事は上にも書いた。
その間、僕のボードは「自由に使ってていいよ」とMに伝えておいたのだ。
で、Mは、僕が新宿に戻っている間、頻繁に僕のボードでサーフィンをしていた。
Mは、僕のボードを気にいってくれていて、加えて、頻繁に使用していたため、僕のボードには多少の傷や凹みも出来ていた。
いや、僕はそんな傷や凹みを気にしないが、Mは、僕のボードをこのまま譲ってほしい。その代わりに、別のサーフボードを僕に譲る、と言う。
つまりサーフボードの交換を提案されたのだ。

僕は、この提案を直ぐに受け入れた。

こうしてMから譲り受けたサーフボードは、ドロップアウトの、フィッシュテールのツインフィンで、長さが、僅か165㎝しかない超ショートボードだった。
165㎝のボードとなると、身長177㎝の僕が乗るにしても、身長181㎝のMが乗るにしても、かなり短い。

ところで、実はこの特徴あるボードには見覚えがあった。

当時、渋谷にあったサーファー系ディスコCの入口に、1本だけ飾ってあったサーフボード。それがこのボードだった。

ディスコCには、以前からMらと一緒に度々遊びに行っていて、その店の入口に飾ってあったこのボードは強く印象に残っていた。
いや、僕らだけではなく、当時のディスコCに遊びに行っていたサーファーなら、誰もが印象に残っているはずのボードだ。

ではなぜMが、ディスコCの看板のような存在だったこのボードを手に入れる事が出来たのか?

そもそも僕とMが知り合ったのは、鵠沼海岸でサーフィン中に、N野さんを通じて知り合ったわけだ。
そのN野さんは、渋谷でバーテンの仕事をしていた。
(その件は「波乗り雑記帳22ー新たな出会いー」2019/1/20 UPに書いた。)

僕は、N野さんとはその後会っていなかったが、Mは、偶然、渋谷でN野さんと再会し、N野さんの紹介で、ディスコCの企画リーダーとして働くようになったそうだ。
芸術高校卒でオシャレでセンスの良いMの才能が認められたカタチである。

こうして、店の入口にあったこのサーフボードを手に入れたそうだ。

因みに、MがディスコCで働くようになってからは、店の入口は勿論、店内も南国バリ島のような雰囲気になり、当時のサーファーたちには大ウケ。
ディスコCは、それまで以上にサーファーたちのお客で賑わうようになっていった。
また、店内には、これもまたバリ風の売店を設置し、そこで、バリ島でしか手に入らないグッズを販売した。
この売り上げで、Mは、仕事と趣味を兼ねて半年に1回位はバリ島に行き、サーフィンを楽しみながら、日本のサーファーにウケそうな商品を買い付けていた。

因みに、我が国日本では、現在ではインドネシアのバリ島の知名度は高い。
しかし、当時はまだ一部のサーフィン雑誌に、「バリ島には、ウルワツやパダン等々、サーフィン向けの良い波が立つポイントがある」と紹介されて間もない頃だった。
つまりバリ島は、当時サーファーの間で知られ始めたばかりだったのだ。
従って、ディスコCをバリ風にしたMのアイディアは、当時の最先端だったと言える。

それはともかく、僕が新宿に戻っている間に、Mは、渋谷で随分と出世していたわけだ。

しかしMは、何よりも、湘南・鵠沼海岸で知り合った僕らサーフィン仲間たちを大切にしていた。

その1つのカタチが、ディスコCの男子トイレ内に現れていた。

Mは、男子トイレ内の壁一面に、マンガチックな楽しいイラストを描いた。
それは、楽しそうにサーフィンをしている多くのサーファーたちの姿だった。
そこには、ハッキリと、MやHは勿論、N野さんや、そして僕が、サーフィンをしている姿が描かれていた。
しかも、各サーファーのイラストには、しっかりと、名前も記されていた。
まあ、一般のお客さんには、よく分からないサーファーのイラストかも知れないが、そこは、Mの遊び心とも言えそうだ。

さて、それはともかく、こうしてMから譲り受けたこの元ディスコCの看板とも言えそうなスーパーショートボード。
こついがまた、すこぶる調子の良いマジックボードだった。

(以下はまた次回)


【写真:本文とは無関係。
先日サーフィンをした某海。
ところで、僕は頻繁に「先日サーフィンをした某海」と書いているが、では、現在の僕は、どのくらいのペースでサーフィンをしているのか?というと、僧侶として忙しいお盆の時期以外の普段の時は、週に2回位のペースでサーフィンをしている。
平均的には、僧侶としてのお勤め(読経+法話)が週に3~4日(1件が40分程度×週に3~4件)。
サーフィンが週2日(1回に2時間位は海に入りっぱなしでサーフィンする)。
のんびり過ごす日が週1~2日だ。
僕としては、このペースがとても快適。有り難い事である。合掌 】
◆新・からっぽ禅蔵 別録~『波乗り雑記帳』~