20歳の頃の僕は、渋谷のディスコCの看板のような存在だったスーパーショートボードをMから譲り受けた。
これが、マジックボードとも言えそうなほど調子の良いサーフボードだった。
ところで、新宿から湘南・鵠沼海岸に戻った僕は、再びMやHの住む海辺のアパートK荘に転がり込む事はせず、直ぐに1人暮らしが出来るアパートを見つけて、そこに住み始めた。
僕が1人暮らしをスタートさせたアパートは、鵠沼海岸駅の裏手から線路に沿って徒歩5分(約350メートル)ほど南東方向へ向かった踏み切り近くにあった。
(Googleマップで見ると、現在はそのアパートは無くなり、コインパーキングになっているようだ)
2階建ての古くて小さなアパートで、1階はご家族が1家族住んでいて、共用スペースには井戸があった。
2階は4.5畳の部屋が3部屋有った。即ち201号室、202号室、203号室である。
各部屋には小さな洗面台はあるものの、トイレは共同。風呂は無かった。
そのため、サーフィン後には、共用スペースにある井戸の水を浴びたり、自室の洗面台でお湯を沸かしてシャンプーしたりして過ごした。
ただこのアパートは、家賃は安かったし、海までは、踏み切りを渡って真っ直ぐの一本道で徒歩6分程度だった。
さて、僕はこのアパートの203号室に住んだ。
この部屋は、僕が住む前には、サーフィン仲間の1人であるN大学の○浦(19歳)が住んでいたそうだ。
(○浦については、2019/3/24UP「波乗り雑記帳25ー新キャラ続々登場ー」に書いた。)
そして、202号室は空室。
201号室には、僕と同じ年で当時20歳のAが住んでいた。
Aは、C大学の2年生。
彼もまた、やはりサーフィンがしたくてこのアパートに住んでいた。
Aの事は、以前から、鵠沼海岸周辺でサーフィン中によく見かけていたので、お互いに顔は見知っていた。
ただ彼は、僕やMのようにチャラチャラしてなくて、どちらかと言うと物静かな印象の人なので、それまで話した事は無かった。
だがサーフィンの腕前は、僕やMと同レベルか、もしくは僕やMより少し上手い位だった。
また、Aには、サーフィン以外にも趣味があった。
アメリカンタイプのバイクが好きで、パーツを買い集めて自らバイクを組み立てて、北海道でバイクの旅をするような面もあったのだ。
一方、Mが渋谷のディスコCの企画リーダーになった事で、僕とMは、以前にも増して渋谷に遊びに行く事が多くなった。
特に、当時、渋谷109で働いていたオシャレな女の子2人組、YちゃんとKちゃんと一緒に遊ぶ事が多かった。
彼女らも、当然サーファーであり、渋谷で遊ぶだけではなく、湘南にもサーフィンをしに来ていた。
ほかに、当時、渋谷にあった某サーフショップの店員をしていた女の子とも よく遊んだ。
ある晩、そのサーフショップの彼女が僕のアパートに泊まりに来た。
それから間もない頃、僕は、また別の女の子を連れて彼女が働く渋谷のサーフショップに遊びに行った。
するとサーフショップの彼女は、凄くムッとして怒った顔をしていたのを覚えている。
いや、今思えば、あの時の僕は無神経すぎたかも知れない。ごめんなさい。
それから、これもまた別の女の子の話しだが、その彼女の父親がマクドナルドの関係者か何かで、当時、彼女から、マクドナルドのハンバーガーの無料券を数枚もらったのを覚えている。
いや、マクドナルドのタダ券というのは、後にも先にも、その時に手にした数枚以外には、僕は見た事も聞いた事もない。僕の知る限りに於いて、とても珍しいものだった。
実際、当時 僕が住むアパートから近いマクドナルド江ノ島店でその無料券を提示したら、店員も初めて見たらしく、「少々お待ち下さい」と言って しばらく待たされた。
おそらく店長に相談したり、本部に確認の電話でもしていたのではなかろうか。
結果は、当然の事ながら、無料券は全て使用可能。マックでタダでガッツリと食事が出来たw
その少し後だっただろうか。
サーフィン仲間の1人で、N大学2年生○ヨちゃんは、このマクドナルド江ノ島店でバイトしていた。
(○ヨちゃんは、僕と同じ年の20歳。上に書いた○浦の1学年先輩)
また、この頃のサーファー系雑誌「ファイン」には、表紙から中の記事に至るまで、毎回必ずサーフィン仲間の誰かが写真付きで載っていた。
当時はまだ「読者モデル」という言葉は無かったと思うが、その「読者モデル」の走りのようなものだったと言ってよいだろう。
そうこうしている頃、久々に新宿のK子が遊びに来た。
数ヶ月会っていなかった間に、K子は、車の免許を取得し、最大9人迄乗れる大きなワンボックス車も購入。
その車でドライブがてら僕のアパートに遊びに来たのだった。
これ以後、K子が車で遊びに来る時には、湘南のみならず、伊豆方面や、千葉方面にもサーフィンしに行けるようになり、サーファーとしての行動範囲が一気に広がった。
一方で、鵠沼海岸では、サーフィン中に、更なるサーフィン仲間が出来た。
佐○くんと西○くんだ。
彼ら2人は、僕より1つ年上の21歳で、僕の住むアパートから徒歩5分程の所にあるマンションにルームシェアして住んでいた。
佐○くんは、偶然、僕と同じアパートのAと同じC大学の学生だった。
しかしAより1つ上の学年だし、学部も違ったのか?Aとの交流は無かった。
その佐○くんは、とても気さくな人で、彼の誘いで、時々サーフィン後にシャワーを浴びさせてもらった。
一方の西○くんは、藤沢の喫茶店でバイトをしているフリーターだった。
彼は、「自分は自分、人は人」という考えなのだろうか、彼らのマンションに遊びに行っても あまり歓迎はしてくれなかった。とにかく、ちょっと冷たい印象を受けた。
因みに、彼ら2人、即ち佐○くんと西○くんのサーフィンレベルは、僕やMより やや劣るMのルームメイトのHと同じ位だった。
ところで、僕とAが住むアパートの隣には、個人経営の小さな電器店?のような店があったのだが、いつも薄暗くて人影も無く、ほぼ閉店状態のようだった。
ある日、その店が完全に閉店し、別の所有者に売り渡されたのか?
店の改修工事が始まった。
どうやら、今度は電器店ではなさそうだ。
「何か別のお店になるのだろうか?」と思って気にしていたのだが、かなり短期間に、新たな店が出来上がった。
その店は、元の薄暗い電器店とは真逆の、明るくてオシャレでカッコいいサーフショップに変貌を遂げたのだった。
そこは、プロサーファーのO.Kさん(たぶん当時30歳位?)がオーナーを勤める「P B」 というサーフショップだった。
(以下はまた次回)
【写真: 本文とは無関係。
先日、いつも通り夜明けと共にサーフィンをした某海。
この美しい朝焼けを、生で見るだけでも素晴らしい瞬間を味わえるわけだが、この風景に溶け込むように、実際に海に入ってサーフィンをすると、更に極上のひとときを堪能できる。
これは、我々サーファーの特権とでも言えそうだ。
あっ、そう言えば、この前(「迷惑なんですけど」の回の文末)この海で、20歳代の若くて綺麗な女の子から声をかけられた事を書いたが、いま思えば、あの女の子は、人魚だったりして?w
または、この海で亡くなった女性の幽霊だったりして?】
◆新・からっぽ禅蔵 別録~『波乗り雑記帳』~
これが、マジックボードとも言えそうなほど調子の良いサーフボードだった。
ところで、新宿から湘南・鵠沼海岸に戻った僕は、再びMやHの住む海辺のアパートK荘に転がり込む事はせず、直ぐに1人暮らしが出来るアパートを見つけて、そこに住み始めた。
僕が1人暮らしをスタートさせたアパートは、鵠沼海岸駅の裏手から線路に沿って徒歩5分(約350メートル)ほど南東方向へ向かった踏み切り近くにあった。
(Googleマップで見ると、現在はそのアパートは無くなり、コインパーキングになっているようだ)
2階建ての古くて小さなアパートで、1階はご家族が1家族住んでいて、共用スペースには井戸があった。
2階は4.5畳の部屋が3部屋有った。即ち201号室、202号室、203号室である。
各部屋には小さな洗面台はあるものの、トイレは共同。風呂は無かった。
そのため、サーフィン後には、共用スペースにある井戸の水を浴びたり、自室の洗面台でお湯を沸かしてシャンプーしたりして過ごした。
ただこのアパートは、家賃は安かったし、海までは、踏み切りを渡って真っ直ぐの一本道で徒歩6分程度だった。
さて、僕はこのアパートの203号室に住んだ。
この部屋は、僕が住む前には、サーフィン仲間の1人であるN大学の○浦(19歳)が住んでいたそうだ。
(○浦については、2019/3/24UP「波乗り雑記帳25ー新キャラ続々登場ー」に書いた。)
そして、202号室は空室。
201号室には、僕と同じ年で当時20歳のAが住んでいた。
Aは、C大学の2年生。
彼もまた、やはりサーフィンがしたくてこのアパートに住んでいた。
Aの事は、以前から、鵠沼海岸周辺でサーフィン中によく見かけていたので、お互いに顔は見知っていた。
ただ彼は、僕やMのようにチャラチャラしてなくて、どちらかと言うと物静かな印象の人なので、それまで話した事は無かった。
だがサーフィンの腕前は、僕やMと同レベルか、もしくは僕やMより少し上手い位だった。
また、Aには、サーフィン以外にも趣味があった。
アメリカンタイプのバイクが好きで、パーツを買い集めて自らバイクを組み立てて、北海道でバイクの旅をするような面もあったのだ。
一方、Mが渋谷のディスコCの企画リーダーになった事で、僕とMは、以前にも増して渋谷に遊びに行く事が多くなった。
特に、当時、渋谷109で働いていたオシャレな女の子2人組、YちゃんとKちゃんと一緒に遊ぶ事が多かった。
彼女らも、当然サーファーであり、渋谷で遊ぶだけではなく、湘南にもサーフィンをしに来ていた。
ほかに、当時、渋谷にあった某サーフショップの店員をしていた女の子とも よく遊んだ。
ある晩、そのサーフショップの彼女が僕のアパートに泊まりに来た。
それから間もない頃、僕は、また別の女の子を連れて彼女が働く渋谷のサーフショップに遊びに行った。
するとサーフショップの彼女は、凄くムッとして怒った顔をしていたのを覚えている。
いや、今思えば、あの時の僕は無神経すぎたかも知れない。ごめんなさい。
それから、これもまた別の女の子の話しだが、その彼女の父親がマクドナルドの関係者か何かで、当時、彼女から、マクドナルドのハンバーガーの無料券を数枚もらったのを覚えている。
いや、マクドナルドのタダ券というのは、後にも先にも、その時に手にした数枚以外には、僕は見た事も聞いた事もない。僕の知る限りに於いて、とても珍しいものだった。
実際、当時 僕が住むアパートから近いマクドナルド江ノ島店でその無料券を提示したら、店員も初めて見たらしく、「少々お待ち下さい」と言って しばらく待たされた。
おそらく店長に相談したり、本部に確認の電話でもしていたのではなかろうか。
結果は、当然の事ながら、無料券は全て使用可能。マックでタダでガッツリと食事が出来たw
その少し後だっただろうか。
サーフィン仲間の1人で、N大学2年生○ヨちゃんは、このマクドナルド江ノ島店でバイトしていた。
(○ヨちゃんは、僕と同じ年の20歳。上に書いた○浦の1学年先輩)
また、この頃のサーファー系雑誌「ファイン」には、表紙から中の記事に至るまで、毎回必ずサーフィン仲間の誰かが写真付きで載っていた。
当時はまだ「読者モデル」という言葉は無かったと思うが、その「読者モデル」の走りのようなものだったと言ってよいだろう。
そうこうしている頃、久々に新宿のK子が遊びに来た。
数ヶ月会っていなかった間に、K子は、車の免許を取得し、最大9人迄乗れる大きなワンボックス車も購入。
その車でドライブがてら僕のアパートに遊びに来たのだった。
これ以後、K子が車で遊びに来る時には、湘南のみならず、伊豆方面や、千葉方面にもサーフィンしに行けるようになり、サーファーとしての行動範囲が一気に広がった。
一方で、鵠沼海岸では、サーフィン中に、更なるサーフィン仲間が出来た。
佐○くんと西○くんだ。
彼ら2人は、僕より1つ年上の21歳で、僕の住むアパートから徒歩5分程の所にあるマンションにルームシェアして住んでいた。
佐○くんは、偶然、僕と同じアパートのAと同じC大学の学生だった。
しかしAより1つ上の学年だし、学部も違ったのか?Aとの交流は無かった。
その佐○くんは、とても気さくな人で、彼の誘いで、時々サーフィン後にシャワーを浴びさせてもらった。
一方の西○くんは、藤沢の喫茶店でバイトをしているフリーターだった。
彼は、「自分は自分、人は人」という考えなのだろうか、彼らのマンションに遊びに行っても あまり歓迎はしてくれなかった。とにかく、ちょっと冷たい印象を受けた。
因みに、彼ら2人、即ち佐○くんと西○くんのサーフィンレベルは、僕やMより やや劣るMのルームメイトのHと同じ位だった。
ところで、僕とAが住むアパートの隣には、個人経営の小さな電器店?のような店があったのだが、いつも薄暗くて人影も無く、ほぼ閉店状態のようだった。
ある日、その店が完全に閉店し、別の所有者に売り渡されたのか?
店の改修工事が始まった。
どうやら、今度は電器店ではなさそうだ。
「何か別のお店になるのだろうか?」と思って気にしていたのだが、かなり短期間に、新たな店が出来上がった。
その店は、元の薄暗い電器店とは真逆の、明るくてオシャレでカッコいいサーフショップに変貌を遂げたのだった。
そこは、プロサーファーのO.Kさん(たぶん当時30歳位?)がオーナーを勤める「P B」 というサーフショップだった。
(以下はまた次回)
【写真: 本文とは無関係。
先日、いつも通り夜明けと共にサーフィンをした某海。
この美しい朝焼けを、生で見るだけでも素晴らしい瞬間を味わえるわけだが、この風景に溶け込むように、実際に海に入ってサーフィンをすると、更に極上のひとときを堪能できる。
これは、我々サーファーの特権とでも言えそうだ。
あっ、そう言えば、この前(「迷惑なんですけど」の回の文末)この海で、20歳代の若くて綺麗な女の子から声をかけられた事を書いたが、いま思えば、あの女の子は、人魚だったりして?w
または、この海で亡くなった女性の幽霊だったりして?】
◆新・からっぽ禅蔵 別録~『波乗り雑記帳』~