新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

禅話76ーただ ここに居るー

2015-11-29 07:50:55 | 日記
先日、インチキ祈祷師が、糖尿病の7歳の少年を死なせて、殺人罪で逮捕された。

亡くなった少年の冥福を祈る。
合掌

死亡した少年は、重い糖尿病でインスリン注射が欠かせなかったという。
しかし、自称祈祷師の男は、インスリン注射をやめさせた。

「私は龍神だ。この子のお腹には死神がいるからインスリン注射では治らない。私がこの子を救ってあげる」と言って、少年の両親から総額200万円も受け取っていた。

しかし、インチキ祈祷に効果があるわけがない。
本来欠かせないインスリン注射をやめさせられた少年は、死亡したという。

まったく許せない話しだ。

しかし、そんなインチキ祈祷師を信じてしまった両親にも落ち度があったのではないか?

少なくとも、我が子に必要なインスリン注射を最終的にやめさせる判断をしたのは両親であろう。
そうであるならば、保護責任者として不適切な判断だったと言わなければならない。

僕は、葬儀や法事だけでなく、ご依頼に応じて祈祷もする。
だが そうした行為は、精神的な安堵感を与えるもので、具体的な病気を治すものではない。

もしも僕の祈祷で「病気が治った」という人がいたなら、それは僕の祈祷によって安堵した “ご本人の治癒力” だ。
僕の力ではない。

もしも「重い病気も必ず治す」などと言う祈祷師がいたなら、100%インチキだ。

我が子を思うなら、インチキに騙されない良識ある目を持ち、適切な判断のもと、病気なら病院へ連れて行くべきだ。

但し、一方で不思議な事があるのも また事実である。

僕は、僧侶として葬儀や法事に向かう途中、町中を歩いていると、通りすがりの方々から挨拶される事が度々ある。
「お坊さん、おはようございます」とか「こんにちは」とか、時には「ご苦労様です」とか、或いは合掌されたりもする。

そんな僕は、昨日の朝も法事に向かうため、いつものように町中を歩いていた。
そのとき僕の前後には人は全く居なかった。

それなのに、突然 僕の真後ろから、僕の耳元で人の声がした。

「おはようございます」というハッキリとした女性の声だった。

僕は咄嗟に「あっ、おはようございます」と答えながら振り向いた。

しかし、そこには誰もいなかった。

ただ清々しい晴天のもと、朝の太陽を浴びて輝く町があるだけだった。

「……まあ、こういう事もある」と思いながら、僕はそのまま法事へ向かった。

それはともかく、以下は本題。


◆雲居和尚〔道膺〕(?~902)


○原文

問曰、「達摩未来時在什摩處?」
師答曰、「只在這裏。」
進曰、「為什摩不見?」
師曰、「過西天去。」


○訳文

問うて曰く、「達摩(だるま)が未(いま)だ来たらざる時 いずこに在(あ)りや?」
師〔雲居道膺〕答えて曰く、「只だ ここに在り。」
進みて曰く、「なぜ見(まみ)えずや?」
師曰く、「西天〔インド〕に過ぎ去(ゆ)く。」


※達摩がどうしたこうしたという問いは大体がトラップに過ぎない。
既に当ブログに何度も書いてきた通り、要は、「自分自身はどうなのか?」が大切。




◆新・からっぽ禅蔵◆

命と禅と禁煙

2015-11-26 12:51:35 | 日記
僕は当ブログに、命は大切である事を度々書いている。

考えてみれば、命だけでなく、この身心が素晴らしい。

どんな物でも、ダメージを受けた場合は、手を加えて修理しなくては元には戻らない。

しかし我々のこの身体は違う。
少しばかりの怪我や病気ぐらいなら、自ら治してしまう。
意識せずとも自然に治ってしまうのだ。

身体だけではない。

精神的に かなり凹んでも、大抵の事なら時が経てば自然に回復する。

こんなにも よく出来た身心を持っていながら、僕らは日頃特に感謝する事もない。
そればかりか、思いきり凹むと、自然回復を待たず、自らの手で自らを殺す “自殺” をする人さえいる。

それはやめてほしいものだ。

この命、大切にしようよ。

話しは変わるが、

僕は禅僧になる前から、長年坐禅をしてきた。
そして、沢山の人達が坐禅をやめていったのを見てきた。

なぜ皆やめてしまうのか?

理由は幾つか考えられるが、多くの場合は、そもそも坐禅に対して過度な期待をしていて、思った通りの成果が得られなくて、飽きてしまってやめてしまうのだろう。

では、過度な期待をしないようにするには どうすれば良いのか?

まず、自己流の坐禅はやめて、禅の指導者、つまり禅僧の指導のもとで行う事が最低限必要な条件と言ってよい。
そこで坐禅を正しく知る事から始めてほしい。

次に、坐禅を “する” という事をやめれば長続きする。

どういう事か?

歯磨きや洗面、排便や睡眠等は、いちいち “やるぞ!”
と構えず、日常的な自然な行為として行っている。

坐禅も、そうした日常的な自然の行為として身につけば、自然な当たり前の日常として続けられると思う。
「さあ!坐禅をやるぞ!」などと構えているようでは、長続きしないだろう。

ちなみに、坐禅だけではなく、禁煙についても同じだ。

「さあ!禁煙するぞ!」とか、「今日で禁煙○日目だ!」と言っているうちは、まず禁煙は失敗する。

むかしヘビースモーカーだった僕は、タバコを吸わなくなってからもう何年も経つ。
だけど “禁煙” などしているつもりは全くない。

ただ吸わないだけだ。
しかも全く吸いたいとも思わない。

“禁煙”なんて意識しているうちは、禁煙できるわけがない。

“坐禅”なんて意識しているうちは、坐禅の何たるかを体得できやしないさ。




◆新・からっぽ禅蔵◆

いのち

2015-11-23 08:28:39 | 日記
日本国憲法を無視した「戦争法」が、強引に成立させられた“9・19”。
それから2ヶ月後の11月19日、国会議事堂前では「戦争法廃止」を訴える大規模な抗議集会があったという。
それだけではない。
22日には金沢市でも、戦争法反対のデモがあったそうだ。

僕も彼らと同じ気持ちだ。
我々国民は、独裁者安倍晋三の暴挙を許さない。

我々は、なんとかして、安倍晋三から日本を守りたい!

安倍政権にNO!

以下は本題。


現在の日本の人口は、およそ1億2千万人程度。

だがここで勘違いしてはならないのは、その1億2千万人が、足並み揃えてほぼ同じ時代を共に生きるとは限らないのである。

日本の場合、年間約100万人の人間が新たに誕生している。
一方で、年間約125万人の人間が亡くなっているそうだ。

年間にそんなに亡くなっているのだから、我々僧侶が忙しいのは当然かも知れない。

一般の方々の中でも、これから就職や転職を考えている人は、葬儀会社への就職をお勧めしたい。
人様の人生の締めくくりをお手伝いする素晴らしく やりがいのある立派なお仕事だと思う。
それだけに、ミスは許されない大変重要なお仕事でもあるが、僕は一僧侶として、 いつも葬儀社さんにはお世話になっている。

それはともかく、結局、差し引きして年25万人程度ずつ人口が減っている事になる。

「だから女性にはもっと子供を産んでほしい!」などとは、僕は全く思わない。

減るのもまた成り行きであろう。
減るなら減ればよい。

って言うか、子供を産む能力は女性にしかないのに、その女性が男性と同等に働く事が高く評価される時代なのだから、子供が減るのは当たり前だ。

それはともかく、 “今生きている日本人” が、年間100万人ずつ入れ代わっているわけだ。

生きている人が毎年毎年100万人も入れ代わっている。
そう考えると、改めて今あるこの貴重な命に感謝すると同時に、この命の一瞬一瞬を大切にしたいなあ、と思うのは僕だけ?

とにかく、命は大切なのだ。
だから、簡単に殺人をする “テロリストを憎む” のではなく、 “テロリストを生み出す原因” となる差別や格差の改善を望みたい。

禅蔵 合掌




◆新・からっぽ禅蔵◆

禅話75.3ー有無を分けているのは誰だ?ー

2015-11-19 09:57:05 | 日記
【写真は先日の旅先で撮影したヒトコマ】

フランス パリの同時テロ、及びそれに関連する一連の事件で亡くなった全ての方々、被害者・加害者の区別なく、全ての方々のご冥福をお祈り申し上げる。

合掌

但し、フランスが一方的に被害者で、ISが一方的に加害者だとは全く思わない。

ところで、安倍晋三さんがISに対して挑戦的な発言をし、日本人が2人殺され、ISから「日本も攻撃対象だ」と言われた事は記憶に新しい。

今後日本で、ISによるテロが起きたら、僕は安倍晋三さんを許さない。

だからこそ、

安倍政権にNO!

以下は本題。


雪峰義存の3回目。


○原文

問僧、「什摩處来?」
對云、「江西来。」
師曰、「什摩處逢達摩?」
對云、「非但達摩、更有亦不逢。」
師云、「有達摩不逢?無達摩不逢?」
對曰、「不逢、説什摩有無!」
師云、「既不説有無、尓何道不逢?」
僧無對。


○訳文

〔師匠である雪峰が、修行中の〕僧に問う、「什摩處(いずこ)より来たる?」
對(こた)えて云(いわ)く、「江西〔こうぜい=馬祖禅の門流地域〕より来たる。」
師曰く、「什摩處にて達摩(だるま)に逢うや?〔だるまには「達磨」と書く場合と「達摩」と書く場合がある。その説明は過去にしたので今は説明しない〕」
對えて云く、「但だ達摩のみに非ず。更に有りても亦(ま)た逢わず。」
師云く、「達摩有りても逢わずや?達摩無くても逢わずや?」
對えて曰く、「逢わず。什摩(なん)の有無を説く〔のか?〕!」
師曰く、「既に有無を説かず。尓(なんじ)は何ぞ逢わずと道(い)う?」
僧に對え無し。

【〔〕内に補足。()内に読み方を加えた。】


※ここでの「達摩」は、過去の禅宗始祖としての、人物としての「達摩」ではなく、「自らの体得すべき境地に至ったのか?」を問うための喩えなのかも知れない。
ところがこの修行僧には それがわからず、達摩の「有・無」と「逢う・逢わない」に とらわれて、肝心の、自らが究明すべき境地について疎かになっているように思われる。





◆新・からっぽ禅蔵◆

2015-11-16 10:36:58 | 日記
半年ぶりにお休みを頂いて、近場へ旅行に行った。

僧侶としてのお勤めは毎日あるわけではないが、個人的な我がままを言わせて頂いて、土日に旅行に行くのは、多くても半年に1回程度にとどめている。

「えっ?半年に1回しか休めないの?」と思われるかも知れないが、我々僧侶は、基本的に土日は法事で忙しい。
僧侶が土日に休むなんて、半年に1回でも多過ぎるかも知れないのだ。

とにかく、今回も楽しい旅が出来て満足している。

いや、様々な雑学を持ち、様々な宗教に精通し、しかし一方で、もと数学教師らしく理詰めな所もある、そんな彼女と一緒なら、僕はどこでも楽しいわけだがW

全ての有り難いご縁に感謝。

合掌



◆新・からっぽ禅蔵◆