新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

坐禅の絶大なる効果

2011-11-30 12:18:28 | 日記
禅の世界では「即今」を重視する。
従って、「坐禅をして→その後に効果が表れる」という事ではない。

勿論、初心者の場合、坐禅をすると気持ちがスッキリするとか、穏やかになるとか、幻覚や幻聴があるなどの症状に陥る方々が意外に多い。
そしてそれが坐禅の効果だと勘違いして、「坐禅のお陰で穏やかになった」等々の誤解に陥る。
この手の誤解に陥った方は、結果的に数年立つと坐禅をやめてしまう事が多い。

僕は、読者の方々に、坐禅をやめずに長く続けてほしいと思ってこの記事を書いている。
やめずに続けるには、坐禅を正しく知る事と、ネット上ではなく、お寺の坐禅会で生身の禅友をつくる事だ。

さて、実は坐禅は、歯磨きや食事や入浴等々の日常の行為と同じだ。
従って、坐禅に慣れてくれば、いちいち「スッキリした」とか「穏やかになった」などの感覚は減少する。
珍しくもない普段の動作と同じになるから、本来の坐禅の良さに気づいてない方は、そこで飽きてしまって坐禅をやめてしまう方が少なくない。

「坐禅が歯磨きと同じだなんて、バカな事を言いやがって!」とおっしゃる方もいらっしゃるかも知れない。

そんな方に言いたい。

歯磨きをバカにしてもらっては困る。
道元禅師がお示しくださっているように、起床から、洗面、歯磨き、食事、入浴、就寝等々、日常の全ての動作が、坐禅と同等に大切な行為に他ならない。

坐禅は仏作仏行、仏がなす仏の行なのである。
従って、坐禅をしている最中が、坐禅として完結していて、その上何かを足したり引いたりするものではないのだ。

だから、“無所得無所悟”の“只管打坐”の坐禅が、数百年も前から伝え継がれているのだ。

では改めて、坐禅に効果はないのか。

とんでもない。

坐禅には絶大な効果がある。

それは、「坐禅をしている時は、“ただ坐っている”」という、現実とピッタリと一致している、疑いようのない“事実”という効果である。

今この時の、現実社会の事実と親しくある事が大事なのである。
坐禅はその「今・今・今の一瞬、一瞬と親しくある事」の象徴だと言ってもいいと思う。

「なんだ、“今と親しく”なんて、そんな簡単な事か。」と思うなかれ。

大抵の人間は、どこかに心をとどめてしまっていて、“今と親しく”なんてしていないものだ。
いちいち何かに捕らわれて、なかなか“今”と向き合えないものだ。

例えば、「アイツはこの前イヤな事を言ったから、イヤな奴だ。」と思う事はないだろうか。
イヤな事など“今”はもう誰も言ってないし、固定化した“イヤな奴”も存在しない。
坐禅はそういう事実、或いは本質に気づかせてくれる。

そんなところに、坐禅の効果がある。

道元禅師は中国留学から帰国後直ぐに、次のようにお示しくださった。

「眼横鼻直(がんのうびちょく)」
眼は横、鼻は真っ直ぐに付いている。
この事実以外に、「一毫も仏法なし!」と、道元禅師がおっしゃっているのである。

さぁ、臘八摂心だ。
坐禅をして、仏法の全体である“この事実”と親しくありましょう。

合掌

◆からっぽ禅蔵◆
禅 坐禅 仏教 宗教 元タイ上座仏教僧侶、現在日本の僧侶にして大学生の独り言

パンゲアの森
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え~、マジですか?

2011-11-29 13:00:31 | 日記
卒論を書き上げて、先生に見ていただいている。
来週には正式に提出する予定だ。

これで大学のほうは、あとはゼミが数回残っているだけだ。

これからは、お寺のお勤めをしながら、上山準備に専念できる。と思っていたら大間違いだった。

先日のゼミで先生が、想定外の提案をなさった。

来月ゼミの時間内に、持ち時間30分間で卒論の発表をしなさい、との事だ。
そうなると、卒論全文に触れるのは時間的に無理なので、発表に適した箇所を引いて、まとめて、プリントして、実際に30分間で上手く発表出来るか、時間を計って練習もしておきたい。

更に先生は、「それから後期のゼミで扱った禅者を、1人選んで5枚程度のレポートを書いて提出する事。」と、おっしゃった。

えっ?マジで~…

確かに、今年は震災の影響で、大学の授業が始まるのが1ヶ月遅れた事もあって、そのぶんの穴埋め的課題レポートって事なのかも知れない。

間もなくお寺では、摂心で忙しくなるが、それに加えて、卒論発表の準備と、後期課題レポートの作成に取りかからなければならなくなった。

楽には卒業させてくれないみたい…w( ̄▽ ̄;)汗

合掌

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パンゲアの森
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幾つかのブログ記事を拝読して思う事

2011-11-25 09:45:59 | 日記
いくつかのブログを拝読させていただいて思った事を述べる。

まず、空(くう)について。
空(くう)とは、もののありようの本質を説いた表現である。
簡単に言うと、「有」と「無」の対比の、どちらでもない仏教的ものごとの見方の1つ。
すべては縁起による現象であって、単独不変で存在するものはない、という事だ。
間違っても“無”という意味ではないし、空になりたいとか、なれないとかいう、そういう話しじゃない。

次に、どの宗教宗派に“入信”しようかと迷ってらっしゃる内容の記事を拝読させていただいた。
「あっちの宗派はこーだ」「こっちの宗派はあーだ」と、ご批判なさりながら、かなり迷っているご様子だった。
どうしてそんなに無理して“入信する宗派”を決めようとなさっているのか、理解に苦しむ。
迷い悩むくらいなら、今のままでいれば良いのだ。
それに、どの宗派に“入信”するか…という、その“入信”って考えるのは重すぎて、ちょっと怖い。
仏教に興味があるなら、もっと気軽に各宗派のお寺を訪ねてみたら良い。
実際に訪ねてみて、実際に正面から向き合ってみて、その上で信仰するかどうか考えたら良いのだ。
少なくとも“入信”なんて重い決断を、ブログを読んでみる程度で決めるような事ではないだろう。
例えば、坐禅会には沢山の方々が坐禅にいらっしゃるが、その方々がみんな禅宗に“入信”しているわけではないし、誰も「入信しなさい」などと誘いもしない。
坐禅自体も、足が組めなければ正座でもいいし、正座も無理なら椅子坐禅だってある。
1回だけ来て、もう来なくても「どうして来ないのですか?また来なさい!」などと誰も誘わないから安心していい。

また、大乗仏教経典は偽経か、という問題。
そもそも偽経とは、インド以外の地域、特に中国などで偽作された経典を指していう。
ここで問題なのは、基本的に「インドで偽作された経典は偽経とよばれない」そうだ。
これは不公平なばかりではなく、多くの誤解を招く原因になりうる。
実際は、原始仏教も大乗仏教も、厳密には「全ての経典が偽経だ」とも言えるのだ。
なぜなら、仏教開祖釈尊は、一字たりとも何も書き残していないからだ。
多くは、仏教の教えを聞いて書かれたものという事になっているが、聞いて書いたものである以上、必ず書いた人の“私感”が入ってしまう事は避けられない。つまり正確な「釈尊の説いた仏説」とは言い難い事になる。
更に問題なのは、誰が書いたかもハッキリしない事が多い。
いずれにせよ、少なくとも、仏教開祖釈尊が書き残したものは何も無いという事だけは忘れてはならない。
また、偽経といわれるものでも、高く評価出来る経典もあり、更に「偽経」=「間違った教え」と言い切れるものでもない。
単純に、「こっちの経典は正しい。あっちの経典は間違っている。」と言い切る事も困難である。

尚、原始仏教経典としては、パーリ語で書かれたニカーヤと、漢訳された阿含経があり、双方ほぼ同じ内容の展開を見せる。
ただ、ニカーヤの一部「クッダカ・ニカーヤ(小部)」は漢訳されなかった。
その漢訳されなかったクッダカ・ニカーヤに、あの「スッタニパータ」と「ダンマパダ」が含まれている。
その内容を、禅蔵流に一言で言うと、一方は「執着を捨てろ」、もう一方は「心を調えよ」というようなものだ。
現在では、「スッタニパータ」も「ダンマパダ」も岩波文庫から出ていて、読みやすい日本語で書かれている。
1冊1時間程度でサラッ読めるのでお勧めである。

合掌

◆からっぽ禅蔵◆
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パンゲアの森
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葬式

2011-11-24 10:31:26 | 日記
最近またお寺が忙しい。

連日 法事、通夜、葬儀、そして坐禅会を繰り返していて、週に1回休みがあればいいほうだ。

いつも行動を共にしている先輩僧Dさんが、葬儀の直前にこう言った。
「なんだか俺たちがやってる事って俳優みたいじゃね?」

それは僕も思っていた事だった。
坐禅以外の各お勤めは、どこか“演じている”感があって、お芝居や演技と どこか共通していると思うのだ。

「通夜や葬式がお芝居みたいだなんて、けしからん!」と思う方もいらっしゃるかも知れないが、そうではない。

お勤めの本番が始まったらミスは許されない。
そういう意味での緊張感やモチベーションを保つための1つの方法なのである。心を込めていないという事ではない。
寧ろ、徹底して“演じきる”必要さえあると思っている。

しかし先輩僧Dさんは、次にこう言った。
「でも俺たちは、ある意味演じているみたいな感覚があっても、檀家さん参列者の皆さんはそうじゃない。あの方たちは、信仰心を持って宗教儀式に出席しているって事は忘れないようにしなきゃな!」

うん、心がけとしてはその通りだと思う。

だが実際はどうだろう。

必ずしも故人を思って哀しんでいる方ばかりとは言えない。
1つの通過儀礼として、事務的にやっている方も少なくないと思う。

お芝居みたいに、ある意味“演じている”のは、我々僧侶側だけではなく、檀家さん参列者さん側にも見受けられる。

いや、それが悪いという事ではない。
お芝居や演じるという事が、必ずしも罪悪であるはずがない。
もし罪悪だったら俳優さんたちがかわいそうだ。

長い歴史がある行事を、絶やさずに遂行していくために、“演じる”事に徹する事が必要な場合もあるだろう。

合掌

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パンゲアの森
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こんな宗教に気をつけろ!

2011-11-17 16:14:42 | 日記
「我々の宗教教団は正しい!他の教団は絶対に間違っている!」と言い切る教団は、他との争いの原因を、多分に含んでいる事は一目瞭然であろう。
これを一般社会では、「宗教」と言うより「危険思想」と呼ぶ事があるかも知れない。

また、「○○すれば幸福になれる」とか「幸福になるために云々…」とか、その手の宗教教団も理解に苦しむ。
そもそも「幸福になりた~い!」と言ってる人を僕は見た事がないし、僕自身“幸福”になりたいなんて考えた事もない。
普通、「幸福になりたい」ではなく、「○○大学に入学したい」とか「○○という職業につきたい」等々、具体的な夢や目標を持つものだ。
更に言えば、そういう具体的な夢を持つ事、それ自体が明るい気持ちで生活できる原動力になったりするのだ。

誰にとっても、どんな場合でも通用する“幸福”などあるのだろうか。

例えば、寒い時に熱い風呂に入ったら、ある意味幸福かも知れない。
だが同じ温度の風呂に、真夏の暑い時期に入ったら、幸福どころか苦痛だ。
つまり幸福なんて、実は単に、「ある状況に於ける“条件”」でしかないのだ。

幸福やら、愛、真心、誠心誠意、霊やら、生まれ変わり等々、不確かなスローガンをメインに掲げる教団は、危険で怪しい場合がある。
例えば、「除霊」などと称して身体を叩いたり、強引に滝に打たせたりするような行為は、一般社会では「暴力」という事を忘れてはならない。

極めて大切な事は、“宗教は、人間のためにあるものであって、宗教のために人間があるのではない”という事である。

従って、現実的な一般社会から逸脱した思想を押し付けてきたりするような教団には気をつけよう。

その点、我が禅宗(我が曹洞宗や、臨済宗さん)の思想は、ある意味驚くほど現実的であるぶん信頼度が高い。

ところで、「私は自宅で坐禅をしています」と言う方が時々いらっしゃるが、それは間違いなく、“坐禅”ではなく、“ざぜんごっこ”でしかない。
または、“独りよがりザゼン”或いは、“オリジナル精神統一”と言っても良いと思う。
だが、間違っても“坐禅”ではないので、お間違いないようにお願いしたい。
自分流坐禅は、間違っても“坐禅”ではない。

独りよがりに自宅で竹刀を振り回して「私は自宅で“剣道”をやっています」と言う人がいるとしよう。
その人と、全日本剣道連盟の認めるところの“剣道の有段者”と、どちらが本当の“剣道”をしているのか、そのくらいはわかるだろう。

合掌

◆からっぽ禅蔵◆
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パンゲアの森
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