「良い話」や「泣ける話」の類を書こうとすると、自己陶酔的で粘着質の文章になってしまうので、普段はあまり書かないようにしている。特に、自分が登場人物になるときは「自分を良く見せよう」という逃げ難い欲が働いてしまうため、その傾向に加速度がつく。書いている最中は「酔い」のために非常に楽しいが、あとで冷静に読み返すと非常に鬱陶しいと感じる文章に仕上がってしまう場合が多い。 そんなものは他人が読んでも面白くも何ともないのは十分に承知しているから、ネタを思いついても書くことはほとんど無い。
が、今回はどうしても書かねばなるまい。
テーマは「運命の導き」。
おそらく、今までに無く感傷的で「ウザイ」文章になってしまうと思う。
なので、そういうのが嫌いなヒトは、読まないでください。
「運命」というものを感じざるを得ない瞬間というのがある。
それは、偶然であったはずの出会いの裏に知られざる繋がりを見出した時であったり、ある美しい出来事と、それを導く秘められた歴史の関係が明るみに出た時であったりする。その多くは、確率的に考えれば、そう起こり難い事でもなく、ただ単に人間の感傷がストーリーを強引に繋げただけのものなのだろうとおもう。しかし、そのちょっとした偶然がもたらした出会いや幸運に喜んだりすることは、そう悪い気分ではない。
今日、現指導教官が「モノ湖に行くから、来週はケベックにいない」という話をしていたので「何しに行くの?サンプリング?それともミーティング?」ときいてみたら
「うちの嫁さんが、モノ湖環境保護運動の創始者メンバーの一人で、今年は活動開始から30周年だから記念集会をやるんだよ。北米中から当時のメンバーが集まるんだ。」
との答え。
心臓が止まるかと思うくらい驚いてしまった。
自分はこのモノ湖という湖に少なからず因縁があるのだ。
まず、モノ湖に関する説明からはじめよう。
モノ湖(Mono Lake)は米国カリフォルニア州のシエラネバダ山中にある湖だ。乾燥地帯にあるため(カリフォルニアというのは基本的には砂漠です)湖から流れ出す河川が存在せず、海水よりも塩分濃度が高い。塩分濃度と言っても、塩化ナトリウムだけではなくて、カルシウムやら、マグネシウムやらの濃度もとんでもなく高いので、モノ湖には非常に特殊な生態系が存在し、景観も独特だ。環境保護主義者の視点から言うと「守るべき特別な自然」となるのだと思う。
で、この湖の水の権利を巡って、ロサンゼルス市と環境保護団体連合が法廷やら議会で争うという出来事が1970年代後半から、1990年代半ばまで繰り広げられた。
ロサンゼルス市の言い分は
「500万人の水需要を満たすにはモノ湖からの水供給が絶対に必要」
で、環境保護団体連合の言い分は
「このまま取水を続ければモノ湖は消滅してしまい、貴重で特殊な自然が失われてしまうからモノ湖集水域からの取水を直ちに止めるべき」
だった。
普通に考えれば、環境保護団体連合側に勝ち目は無い。アメリカにおける権利のありかたというものを考えてもそうだし、なによりもロサンゼルス市という世界最強と考えてもよい程の強力な公的権力に対して、一般人の集まりである環境保護団体連合が勝負を挑むこと自体がとんでもなく無謀なことだからだ。
でも、この闘争の結末は「環境保護団体連合の完全勝利」で終わった。
今では、モノ湖からの取水は連邦最高裁だか州最高裁だかの決定に従い厳しく制限がなされ、一度は危機的な状況にまでなっていた生態系も回復している。湖のほとりには、モノ湖の環境と当時の保護運動を紹介する「環境センター」のような施設も出来て、気軽に観光に行くことも出来る。
公的機関相手の環境保護運動がここまでの完全勝利を収めることは稀だ。しかも、闘争の最終段階では、さまざまな環境保護団体や市民団体を巻き込んで、州レベル、全米レベルでの非常に大きな活動となっていたのだが、そもそもの始まりはカリフォルニア大学の学生と、モノ湖の周辺地域住民がはじめた本当に小さな運動だったのだ。(この運動の創始者メンバーに現教授の奥さんがいたらしい。)
当然のことながら、この運動のもたらした結末は、草の根レベルの環境保護運動が起こした歴史的な勝利として、ある種の伝説的な物語となっていて、その辺のことはドキュメンタリー番組になったり、Storm Over Monoというノンフィクションの本にまとめられたりしている。
で、ここでやっと自分の話になるのだが、実はこのStorm Over Monoという本の翻訳というか輪読会に参加したことが、自分が陸水学を志すきっかけとなったのである。
京都で大学生をしていたころの自分は、所属することになった専攻に全く興味が持てず、大学の雰囲気も肌に合わなかったため完全に不貞腐れていた。そして、「何かをやりたい、自分には何かの可能性が有る気がする・・・・ でも、何をしていいのか全く見当がつかない。」という、20代前半のイマドキの若者にありがちな甘っちょろい苦悩に苛まれていた。
その頃に何の気なしに環境系の学生セミナーに参加したのだが、そこで出会った滋賀の学生に「環境系の話に興味があったら、ちょっと俺らの勉強会に参加せえへんか?」と誘われるがままに参加したのが、モノ湖の環境運動関わる本の翻訳だったのだ。
それまでは、「生物学系の学問がやりたい」とぼんやりとは思っていたものの、湖沼生態系には何ら興味が無かった。でも、その輪読会をはじめとし滋賀で行われているさまざまな湖沼関連の事業に携わるうちに湖沼生態学を扱うLimnologyという学問分野に関心を持つようになり、いつしかその分野で学ぶことを志すようになった。
そしてそこからは、全く身寄りが無いところをMissouriの教授に拾われ彼のもとで修士号をとり、勧められるがままにカナダのOttawaに行ったが、そこは肌に合わずQuebecに流れた。その間は、カリフォルニアもモノ湖も全く関係の無い状態にあり、輪読会のことも遠い昔のことのように忘れかけていたのだが、ここへきてまた元に戻ってきた。なにやら、非常に感慨深い。特に、OttawaからQuebecに移ってくるに当たっての経緯が底なしに苦しいものであったから、感慨深く思う気持ちもとても大きい。
諦めなくて本当に良かったと思う。
自分が生まれるよりも前にカリフォルニアの学生達が起こした小さなレジスタンスが、彼らの不断の努力により大きな波となり、一つの歴史を刻んだ。その歴史は語り継がれ、二十余年の後に太平洋を遥か越えた日本で、一人の林業政策学に飽き飽きしていたダメ大学生を陸水学の世界へと導く。その学生は何の気なしアメリカに渡り、成り行きに任せるままカナダに流れ、知らずの内に活動の創始者メンバーの旦那の元で次の世代の研究者になるべくトレーニングを積むことになった。
陸水学という学問分野はそう広いものではないので、僕がその世界に入った時点で、僕と僕の現教授の奥さんとの出会いは、確率的に考えれば、偶然というよりは必然であったのかもしれない。
が、ここにおいて「運命の導き」を感じ、幾らかの感傷にひたってしまうことは、血の通った感情を持った人間であれば当然の反応だろう。
しなければならない勉強が山ほどあるにもかかわらず、あまりの驚きにこの文章を書いてしまった。
ま、こういう日もあるか・・・・・・・・・・・・・・
あと、モノ湖の写真やら、歴史的経緯は以下にあります。英語ですが・・・・
Mono Lake Committee