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”何もしない勇気”とは(2020/3/30更新)〜本当の失敗とは何もしない事とは本当か?〜

2019年11月10日 03時39分46秒 | ブログ系

 人生50年以上を生きると、色んな事を考える。あの時ああしてればよかったとか、あの時あんな風に振る舞ってれば上手くいったのにとか。
 特に私の場合、何もしなかった方が良かったかな?という記憶が沢山ある。
 特に日本人は、”何もしない”という事をネガティブに捉える事が多い。臆病者、卑怯者、悪巧み、何を考えてるか解らない、など悪いイメージがばかりだ。

 そういう私も若い頃は、何もしない奴が大嫌いだった。何においても人よりも先に行動を起こす事が大切だし、行動を起こす勇気こそが真の魂(スピリッツ)と思った。 


何もしない奴は卑怯者か?

 高校の時、ある友人が”無為自然”の話をした。そいつは哲学が大好きで、何時もソクラテスのフリをして、”無知の知”を冗談半分に言いふらして回った。
 そんな友人を前にオレは、”哲学者なんて自らは何もしないで、偉そうな理屈ばかり並べてる卑怯者だ”とせせら笑ったもんだ。

 そいつは、体こそ小さかったが頭もよく運動もよく出来たし、肉体はヘラクレスの彫像みたいだった。
 ”オレは無為自然に憧れる。何もしたくないって時がよくあるんだ”が口癖だった。
 確かにその友人は、勉強も運動も熱心じゃなかったが。それでいて成績もよく、ベンチプレスも120kgを平気で上げた。

 オレはそいつと全く逆だった。何でも一生懸命ヤラないと気が済まない性格だった。それでいて、成果は少しも上がらない。

 ある日、友人はポツリと呟いた。
 ”お前はやりすぎだ”と。そして、それはずっとずっと後に私の人生の大切な教訓になった。  
 しかしその時、私は即座に反論した。
 ”オレはお前みたいに才能がないから、人の倍も3倍もヤラないとダメなんだ”

 そいつは真顔で言った。
 ”でも何もしないでいると、突然何かが閃くんだ。そして、その閃きに従うといい事が起きるんだ。無為自然なんてその典型さ”

 そういう彼は、ジョン•スチュアート•ミル(1806−1873)がお気に入りだった。 


やりすぎない人間の美学とは

 ミルの「功利主義」は、リバラリアンに代表される自由の行使である。”人に危害を与えない限り、自由な行為は正当化されるべき”という考えだ。
 つまり、”自由の行使”とは、やり過ぎない限り合法で道徳や規律を重視すべきだと説く。
 哲学的な話になると、キリないからここまでにする。好きな人は勝手にサイトで調べて下さいな。

 つまり、そいつが言いたかったのは、”やり過ぎは何もやらないよりもまだ悪い”という、徳川家康の考えだ。
 つまり、やり過ぎは単なる害悪であり、自由の行使ではないと。”鳴くまで待とう”とは、よく言ったもんだ。

 そいつは典型の”やり過ぎない”人間だった。何時も自然に身を任せ、感性でのみ生きる様な人間だった。
 何時も猫になりたいと言ってた。”猫は何もしないから、可愛いんだ”と、飼い猫を自慢するのが癖だった。

 彼は一流の国立大学へ入った。上級の国家試験にも軽々とクリアした。俺からしたら、”何もしない”で難関をクリアした様に見えた。事実その通りだった。
 そんな彼も、20年ぶりの同窓会ではクラスの責任者になり、面倒な世話に苛ついたらしく、”何もしない事が一番なのに、同窓会なんて”と、途中で投げ出した。

 そんな彼と、電話で何度か話した事がある。”あの時言っただろ?お前はやり過ぎたんだ。才能がなかったんじゃない”

 ”そういうアンタだって、密かに努力はしただろう?でなかったらそんなに偉くなれんさ”

 ”いいや何もしてないね。何もしない事こそが俺の努力なんだ” 


何もしない事の美学

 事実、そいつの言う通りになった。私が頑張ってやってきた事は、全てが無駄終わった。無駄に終わったというより、マイナスという悲劇終わった。

 20代後半の時、理想の女に出会った。まさに、彼女は”運命の女”だった。そして、その筈だった。
 私は即座に行動を起こした。ドイツがポーランドに侵攻した時の様に、格好のタイミングで行動を起こした。危険スレスレの行為だったが、ナチス同様にその時は上手くいった。
 しかし、後が悲惨だった。やり方が強引すぎたのだ。”貴方は私を深く傷つけた。貴方とはもう会わない”と去っていった。私は何度も彼女を説得したが、後の祭りだった。

 今から思うと、”何もしなければ”よかったのだ。私が彼女を好きになる前に、彼女は私を好いていた。つまり、何もしないで彼女が近づいてくるのを待ってるだけで、全ては上手く行ったのだ。

 ”何もしなければ”よかったという記憶は、これだけじゃない。頑張りすぎたお陰で、勤めてた工場が閉鎖になった苦い経験もある。頑張ったせいで、世話になった上司のクビを飛ばした事もある。
 ”小さな親切、大きな悲劇”とは、こういう事か(笑)。

 でも若い時は、行動を起こし、色んな失敗を仕出かしても、それは経験となり、血や肉となり、自分の人生にプラスになる筈だった。人生とはそうであって欲しかった。
 しかし私の場合、失敗は成功の元にはならなかった。失敗はそのまま悲劇に繋がった。

 ”何もしない事こそが本当の失敗”だと、あるコラムにあったが。そんな幼稚なデマカセは私には通用しない。私にとって”何もしない事こそが、成功の一番の近道”だったのだ。
 50を過ぎてそれを確信した。そんな簡単な事に気付くまで、30年以上掛かったという訳だ。 


何もしない事は成功の本質?

 つまり、何もしない事は成功の本質でもあり、同時に失敗の本質だと思う。

 ブログに書いた、”インパール作戦”(要Click)も最初の段階で即座に中止にして、何もしなければ何の犠牲もなかった。でも泥沼に入って、途中から全てを投げだしたから、多数の犠牲と大きなと悲劇を生んだ。
 そういう私は、ある日から”無為自然”という老子の言葉が特に好きになった。
 欲を持たずに自然のあるがままに生きる”という意味なんだが。”何もしない”で自然に身を任せると、私は勝手に解釈してる。

 実際、何かをやろうとする際、殆どの人は何らかの意図が無意識に発生する。こまめに作戦を練り、上手く行く様に計画し、注意深く行動する人も多いだろう。
 しかし大体において、”何かやらなくちゃ”という人為的な欲が働き、上手く行かない事も多々あるのが現実だ。
 運動やダイエットや健康法と同じで、”ヤラなくちゃ”と思う程に、結局は続かない。

 何かをやろうという気持ではなく、何もしないで自然に身を任せてれば、何かをしたくなる。
 そこには欲というものがない。”無為自然”という無欲の本能が行動を支配するから、上手く行く場合が多いのか。
 何時の世も、本能は純粋で美しく、欲は複雑で汚いものだ。滝川クリステルの”おもてなし”も結婚会見も、作為的で聞いてて反吐が出た。 


本当の失敗とは何もしない事?

 「人生の教科書」というコラムに、”本当の失敗とは何もしない事”だと書かれてた。失敗しても失敗という財産が残るという安直な理屈だ。
 ”失敗を避けるには、とにかく何か行動しよう、結果は関係ない”と。

 だったら、先述の”インパールの悲劇”はどう説明する?追い詰められた日本軍は、インパール作戦という無謀な行動を起こした。
 勿論、結果は悲劇だけだった。失敗しても結果は関係ないと言うが、その結果が悲惨すぎた。
 結局、最初から何もしなければよかったのだ。犠牲者が出始めてから、行動(撤退)を起こしても遅すぎる。

 確かに小さな失敗であれば、取り返しの付くレヴェルの失態であれば、失敗は良薬かもしれない。しかし、致命的な大きな失墜となると、取り返しがつかない。
 失敗は成功の元というのは、致命的失墜には通用しない。失敗にも次元と程度がある。 

 「人生の教科書」では”失敗から学ぶ”というが、インパールの失敗から日本人は何を学んだか?インパールと同じ事は、今の政界でも延々と繰り返されてるのにだ。つまり、失敗から何も学んじゃいなかったのだ。
 故に、”何もしない”という事は本当に”失敗”なのか? 


それでも何もしない事は失敗の本質なのか?

 (失敗しない為に)何かをやろうとすると、失敗したくないという前提で人は動く。故に、人為的な欲望が働き、感性や本能を妨げ、うまく行かない事の方が多い。結局、失敗する。

 前述したインパール作戦と同じで、敗戦がほぼ決まってた状態で、冷静にして本能に任せ、何もしないでアッサリと降参してればよかったのだ。
 しかし、”何もしない”で負けるよりかは、何かをやって負けた方が、帝国軍人の鏡とでも思ったのだろうか。そのままズルズルと悲劇の中へ埋没した。

 1945年7月26日のポツダム宣言では、アメリカの最後通告を無視し、何も策を立てなかった。
 トルーマンは、この日本軍のポツダム宣言の拒否(無視)が原子爆弾による核攻撃を正当化するとし、8月6日に広島へ原子を投下した。
 つまり、何もしない事が大きな悲劇を生んだ

 いや別の見方をすれば、”何も(抵抗)しない”で、ポツダム宣言をそのまま受け入れてたら、無条件敗北という屈辱は味わったろうが、広島と長崎の悲劇は避けられたろうか。結局、何もしない事が悲劇を避けた事になるのか。 


最後に

 ブログで紹介した、”不沈空母信濃の悲劇”(要Click)だが。プロジェクトを中止するという行為は必要だが、”何もしない”でそのまま降伏すれば、大和の武蔵の悲劇も避けられたか。
 敗戦の記憶として、大和や信濃は破壊されるべきではなかった。現存したであろう実物の、信濃や大和を見てみたいというのは、私だけじゃないだろう。
 勿論、人間魚雷も神風特攻隊の悲劇も避けられた。勿論、バンザイ攻撃の悲劇もだ。

 つまり、何もしない事は成功の本質でもある。
 ”それは時と場合によるだろう”との声が聞こえてきそうだが、ホントにそうだろうか?

 何もしないという行為には、真の勇気と力(忍耐)が必要だ。何もしないで自然に身を任せるという行為は、一見臆病に卑怯に思えるが、高度で複雑化した今の時代、非常に理に適った行動の一つだと思う。
 哀しいが、そういう事が50年以上経った今になって、少しずつ理解できる様になった。

 ”金持ち喧嘩せず”とは、実は我ら貧乏人の為にある教訓なのかもしれない。



12 コメント

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こんばんは (biko)
2019-11-10 21:30:02
私は根が怠け者にできているせいで、返って頑張ってしまうところがあります。自分にムチ打たないとどうしようもなくなりそうで。

だけど、それは間違っているんですね。

何もしないほうが賢明だと思います。じっとしていると人は自然に意欲がわいてくるようですから。

その意味では、今日のこの記事には共感を覚えます。
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ビコさんへ (象が転んだ)
2019-11-11 01:34:55
私も典型の怠け者で、何もしない勇気というより、いたずらに惰性に任せる所があります。

勤勉で忙しいのが好きな日本人には、理解しづらいんでしょうが。珍しくポチがあったんで、悪くはない記事かな。
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何もしない勇気 (tokotokoto)
2019-11-11 03:20:30
一見すると行動を起こす方が勇気いるように見えるけど。

虎穴に入らずんば虎子を得ずと家宝は寝て待ての両極でしょうが。日本には後者の諺が多いような気もします。多分、島国の育ちのせいもあるんでしょうか。陸続きの中国は常に蛮族の侵入に悩まされてたからな。

現代の合理的精神からすれば、棚からぼた餅な的考えは実に有効ですね。

でも転んだサンが何もしない主義とは少し意外でした。
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tokoさんへ (象が転んだ)
2019-11-11 11:00:44
でも今の時代に、何もしないって不可能に近いというか。じっとしてるだけでも腹は減る。
何もしない主義というより、全くないもしない主義のつもりですが。酒は呑むし、エロい事は考える。哀しい生き物です。
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Unknown (ハナビ)
2019-11-13 10:53:39
私の机に飾ってある3匹の猿ですが、左からだと「言わざる・見ざる・聞からず」になっています。

念の為にネットを見ましたら、「見ざる・聞かざる・言わざる」でした。

私にとっては、特に 2013~2018年に、「言わざる」の態度をしていたら良かったと悔やむ今日この頃です。
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ハナビさんへ (象が転んだ)
2019-11-13 12:23:22
全く、口は災のもとですね。
書く事はなんぼ書いても、炎上こそすれど災いになる事はないんですが。

そういう私も日頃の鬱憤を書く事によって発散してるフシがある。お陰で余計な事を言わなくなった様な気がします。代わりに余計な事を書く様になりましたが(悲)。
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何もしない勇気 (#114)
2020-03-30 21:03:01
こそが今一番求められる勇気だよ
転んだ象さんは
もうこの時点で気付いてた訳だ

自粛する勇気
それは何もしない勇気の事なんだな
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#114さん (象が転んだ)
2020-03-31 01:41:08
久しぶりに更新したんですが。
今から見てもいいブログだと思います。
何もしない勇気があれば、マスクやトイレットペーパー不足もなかったでしょうに。
それに東京オリンピックもね。

つまり何もしないという事は、お金を巧く有効利用するという事なんです。いつ何時大金が必要になるかわかりませんから。
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Unknown (Unknown)
2021-03-05 18:41:34
どうしてもやるひつようがある時だけちゃんとうごければそれでいい。基本的に何かを生み出せば生み出すほど問題は増えていく。それはやるという行為からうまれるもの。今の段階でやる必要がないならやらないという選択肢がベストになる。
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Unknownさんへ (象が転んだ)
2021-03-06 03:37:45
確かにですね。
ヤル必要がないならやらないって、実にシンプルな考え方で、私も賛成です。
コメントどうもありがとうです。
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