高校の時に読んだ記憶があるが、内容は殆ど覚えていない。「門」や「それから」の記憶が強すぎたせいもあろうが、印象に薄い小説に思えた。それ以上に、二人も自殺者を出す必要もなかろうと、幼稚で些細な憤りもあった。
それに、”恋愛とスケベは動物的本能で行動すべきだ。理屈で考えたらヤれる事もヤれない”と生意気な事を考えてたような気がする。
しかし今になって思うと、満更外れてもいない気がした。というのも恋愛というもんは、エゴや理屈という堅苦しいもんを通さない方が、誤解なく伝わる気がするからだ(多分)。
故に、相手(異性)の気持ちを汲む事は自分の気持ちを理解する事よりもずっと重要な筈だが、理屈で考えるほどに恋愛感情は相手を離れ、自己本位に傾斜するのかもしれない。
勿論、もう一度読み直して検証しようという気力も知力もサラサラない。それに、文学と哲学が混じった小難しい議論なんて、延々と続くだけで答えが出そうにもない。
事実、”先生とKの自殺は正当化できるのか”というテーマは腐るほど語られてきた。自殺がたとえ論理的には正当化できても、旦那に先立たれた奥さんの気持ちを思えば、どんな正当な理由があろうと(現実的な視点ではだが)不幸しかもたらさない。
あるサイト(ブログ)を潜ってたら、これに近い解答があったので、私なりに主観を交えて紹介します。
空の盃の献酬と空っぽな議論
”いいえ私も嫌われている一人なんです”
”そりゃ嘘です”と私がいった。
”奥さん自身、嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう”
”なぜ?”
”私にいわせると、奥さんが好きになったから(先生は)世間が嫌いになるんです”
”あなたは学問をする方だけあって、なかなかお上手ね。空っぽな理屈を使いこなす事が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。それとおんなじ理屈で”
”両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです”
”議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空の盃でよくもああ飽きずに献酬ができると思いますわ”
これは、上「私と先生」での”私”と”先生”の奥さんとの会話の一部である。
これだけでも、先生と奥さんの関係がうまく行ってない事が理解できる。
ここで言う”空の盃の献酬”とは、”現実を無視した空疎な議論の応酬”という意味で、現実とは(二人には子供が出来ないが故に)”先生は奥さんを真に愛しているのか”と”奥さんは夫の愛を実感しているのか”という現実的議題の有無である。
故に私は、奥さん(静)の暗く沈んだ気持ちを無視した空疎な議論を主張し、彼女は”空っぽな議論”と暗に抗議する。
今風に言えば、”何よ、私がどんなに落ち込んでるか?知りもしないくせに。子供が出来ない事を<天罰が下った>と決め付ける一方的で身勝手な理屈で話を進めないでよね”って事になろうか(多分)。
つまり、”空っぽな屁理屈で自身を責めるのは愚かすぎる”と戒めてるのに、先生は頭がいい事を理由に、そんな理屈を(自分を持する為に)苦し紛れに繰り返す。勿論、奥さんは理屈では対抗できないが、その議論が空っぽである事は判ってはいる。
しかし男(先生)は、(自身の苦い体験から)”私は他人を信用しない”というエゴイズムに傾斜し、彼女(静)がそんな屁理屈にどんなに苦しめられてるかは、理解しつつも無視してしまう。
同じ様な議論は、下「先生と遺書」で、”先生”と友人”K”との間でも再現される。
先生は”Kはお嬢さん(静)に恋してる”と決めつけ、Kの恋の是非について空疎な議論が繰り返される。しかし、それは当事者の現実である”先生もお嬢さんに恋してる”と”お嬢さんは誰を好きなのか”の有無を無視した議論である。
こうした、自分勝手で空疎な議論が暴走した結果、Kと先生の自殺というパラドクスにも似た悲劇を招く。
事実、Kは先生が発した”覚悟”という単語を聞いて自殺を決意する。先生には(恋敵の)Kを死に追いやる気はなかったにもかかわらずである。同様に、先生は奥さん(静)が言った”殉死”という単語を聞いて自殺を考える。彼女は冗談半分で言っただけなのにである。
空疎な議論から発せられた”覚悟”と”殉死”という言葉。二人には空っぽどころか、とても重たい等身大の現実に思えた事だろう。
一方で、先生とKが発した”他人を信用すべきか否か”という虚しい議論は、奥さんをどれだけ苦しめた事か・・・
過ぎたエゴイズム
結果的には、先生は親友Kを裏切って恋人(静)を得た。しかし親友は自殺し、親友を死に追いやった先生も自殺する。
夏目漱石の「こころ」では、連載当時のタイトル「心・先生の遺書」にあるように、第一話になる筈の短編「先生の遺書」が長引いた為に、その1編だけを3部構成にしたとされる。
初期の題名通り、”先生の遺書”が中心だが、上・中・下の3つに分け、先生の自己本意な”こころ”の微妙な揺れ動きを繊細に描いている。
因みに時系列で言えば、下「先生と遺書」→上「先生と私」→中「両親と私」となる。
時代の変化により、”殉死”に象徴される古い明治の精神が批判される事を”覚悟”した夏目漱石は、大正という新しい時代を生きる為に先生を明治の精神に”殉死”させる。
と(ウィキ風に)言えば文学的で聞こえはいいが、もし先生が(歪んだエゴを持ち出さず)空虚な議論でくよくよ悩まずに、お嬢さん(静)に速攻でプロポーズしてたら、親友Kの覚悟の自殺も自身の殉死もなかったかもしれない(いや、そんな単純ではないかもしれない)。
それに当時の状況を振り返ると、静の母親も娘との結婚には大賛成で、母親も静本人も先生を好きでいた。それに母は未亡人だから母方の親戚の露骨な反対もない。
お互いの結婚の初期条件(前提)としては、これ程の好都合もない。つまり、反対する理由が見当たらないのだ。それに、先生が過去に遺産相続で親族(叔父)に裏切られたとはいえ、静と母親が先生を裏切る理由はどこにもない。
しかし先生は、実家から勘当された不遇なKを見て、自分と同質の憐れみを感じ、(不可解な事に)Kと静との仲を取り持つようになる。が、実家や養子先を裏切って自らを墓穴に落とし込んだのは、紛れもなくKである。つまり、ここでも、先生の一方的な理屈とエゴが暴走するのが見て取れる。
一方で、Kは(恩に着る)先生には逆らえないと自覚してるせいか、静との交際には積極的ではない。勿論、静は先生をずっと好きでいるのにである。
彼女はずっと先生のプロポーズを待ってた筈だ。先生も美人で気立てのいい彼女を好きでいた筈だ。いくら”女という生き物は何も知らないで学校を卒業する”と先生が暗に彼女を見下しても、恋愛感情はウソをつかない。
純朴な”こころ”を小難しい歪んだ理屈でコネ回し、自分に正直であるべき処を(女にうつつを抜かすのは)”修行が足りない”とか”弱い自分だ”と決めつけるのは、それこそ空虚な理論である。
目の前に好きな女がいるのに、(後に恋敵になる)親友との空っぽな議論の繰り返しでお茶を濁す。それでいて、親友が彼女を好きになると態度と議論を急変させ、毒牙を剥く。
”恋愛は男を獰猛にする”と先生は私に諭すが、恋愛ではなくエゴという歪んだ理屈がそうさせたのかもしれない。
最後は(理屈抜きの)力技で先生が女を奪い取る結果となるが、そうした汚い駆け引きを若い娘が知る余地も、いや理解できる筈もない。
エゴという点で言えば、先生がKに同情したのも身勝手なエゴであり、Kを追い詰めたのも行き過ぎたエゴである。つまり、”則天去私”という漱石が好んで使う言葉は、先生の為にあったのだろうか。
但し、Kという男も(先生の前ではだが)真正直すぎる印象を覚える。だから故に先生も(純朴すぎる程にバカ正直な)Kに気を許したのかもしれないが・・・
もし、Kが先生に覚悟という言葉で追い詰められた時、”だったら先生には、お嬢さんに告白するだけの覚悟がおありでしょうか。私に覚悟がないとの同じく、先生にも覚悟はないのでしょう。そういう先生に、覚悟という言葉を使ってほしくはない”とでも反発してたら、覚悟という毒牙は空疎化し、二人の議論は”静はどちらが好きであるか”という現実の問題に引き戻されてたかもしれない。
最後に〜自死という名のパラドクス
真っ当な理屈で物事を組み立て、真逆の結果が出る事を論理パラドクスと呼ぶが、(過ぎたエゴイズムにより)空疎な理屈で真っ当らしい議論を重ね、自死という最悪の結果(パラドクス)を招く。
男が女を好きになるのはあらゆるケースが考えられるし、それがうまく行くかは二人の周囲を取り巻く様々な条件や前提が必要となるのかもしれない。
同じ様に、人が自殺する理由は(正当であろうとなかろうと)無限にあるのかもしれない。しかし、行き過ぎたエゴが自殺に結びつくとしたら・・・
”自殺する脳”ではないが、過ぎたエゴを作り出すのも、自殺という最悪のプランを設計するのも脳(思考)である。
勿論、正しい論理を積み重ね、自分にとっても(相手にとっても)有用な結果を生み出すのも健全な思考だと言えるが、真逆の結果を生み出した時、人は冷静でいられるだろうか。それが最悪の結果になった時、自分で自分を支えきれるのだろうか。
つまり、過ぎた思考はエゴを生み出し、過ぎたエゴは自死へ邁進するとしたら、これほど虚しいパラドクスもない。
勿論、物事を論理的に考える事は、賢く合理的に生きる上においても重要な事である。同じ様に、動物的な本能や直感で生きるというのも、人間らしく現実を生きるという点では不可欠ではないだろうか。
つまり、前者はエゴイズムに、後者は則天去私に傾くとすれば、納得がいかなくもない。
結局、どんなに正しく見える議論でも周囲に横たわる現実を無視すれば、最悪の事態を招く。議論が空疎にならない為には、注意深く周囲を見渡し、そこにある現実を理解し、自分本位で空虚になりがちな議論がもたらすリスク(エゴイズム)を慎重に取り除く必要があるのだろう。
ラッセルの矛盾は、”自己言及性のパラドクス”として説明がつくが、漱石の論理では、自死とは”エゴイズム(自己本位)のパラドクス”となるのだろうか。
そういう私も(結局は)何の答えも見いだせず空疎な理屈に埋没してしまった。典型な自滅のパターンだが、”空っぽな理屈は不幸しか生み出さないわ”とのお嬢様の声が、ここまで届きそうだ。
覚えていたのは「先生」が友人を裏切ったということだけでしたが、今回、この記事で引用されていた青空文庫で読み直すと細かい部分はすっかり忘れていましたが、この小説に流れていた通奏低音は思い出すことができました。そして高校時代と同じように、今回も夏目漱石の一連の作品に魅せられました。夏目漱石の鬱体質は私の体質に合っているようです。
お陰様で、またしばらく読書に徹しようかという気にしてもらえましたから、お礼申し上げます。
だから赤ん坊は自由。
奥さん(静)は、比較的言葉から解放されている人かもしれません。
人生は、食べて寝るだけ。
こう考えたら楽に生きられるのですが、人には欲があり、なかなかこの境地に行けない。
犬や猫に癒されるのは彼らがこの境地を体現しているからなんですよね。
”通奏低音”も漱石の特徴ですが、ユーモアとウィットに富む夫婦の会話が大好きですね。
特に、静の言葉はやんわりと上品ですが、こころの奥深くにまで突き刺さります。
言われる通り、読書が鬱対策になれば、こちらとしても大変光栄です。
コメント有難うです。
欲を言えば、Kがもう少し野心的で獰猛であったら、本能丸出しの議論が見れたでしょうか。
一方で、生きる事は死ぬ事ですから、ある意味、自死というのは人間特有の本能かもです。
確かに、猫を見てると理屈が如何に醜いのか教えられる気がしますね。
旧年中はお世話になりました。新年も宜しくお願いします。
時折、私にも訊いて来ました。ので、部分部分と言う妙な読み方で、私も漱石を何冊も読んだことになります。夫は「こころ」半ばで亡くなりましたが、死ぬまで漱石を愛した人でした。
漱石の日本語は大変美しく、極上の落語か!というのが私の印象です。
「こころ」を取り上げてくださって、懐かしくなりコメントさせて頂きました。
いい得て妙ですね。
そういう私も夏目漱石の全ての小説を読んだ訳でもないのですが、小説の中の美しい日本語は数学の美しさと共通する部分があると思います。
静が暗に批判する小難しい理屈も数学の厄介な抽象性を指摘してるみたいで、とても興味深く感じました。
旧年中はお世話になりました。新年も宜しくお願いします。