
「リッツホテルほどのダイヤモンド」は、初期のフィッツジェラルドの特徴が全て揃った作品で、田舎出身の若者と金持ち娘との恋を好奇的に描いたユニークで思い切り笑える作品である。
燦然と輝くものへの憧憬そして夢と幻滅。”富なくして愛は成立するのか?”
この難題を”ともかく暫くは付き合ってみようよ!1年かそこらでいいから”と楽天的に受け流すあたり、”富も愛も幻滅だ”と位置づけるアメリカの本当の豊かさが羨ましく思える。
「メイ・ディ」では、自らの選択で自らを破滅に追いやるエリートの短い人生を描く。
学生時代に飛び切りの美人と恋に落ちるも、画家の夢を捨てきれず定職にも就かず、次第に彼女に負い目を感じて別れてしまう。
フィッツジェラルドの若き恋多き不遇な日々と照らし合わせた作品だが、生涯と同様にフィッツジェラルドは見事に復活する。しかし、この主人公は浮かれ遊ぶ堕落した夢想家と化してしまい、死を決意する。
彼も一つ間違ってたら、こんな最悪の結果になったであろうか。
「冬の夢」は、この短編集の中で最高と言っていい。少年時の夢想の段階に留まってた本物志向。それが金持ちの娘への憧れと結びついた時、デクスターの人生は大きく変貌する。
つまり、夢想こそが少年の生の原動力であり、化学反応により生ずる狂気なのだ。夢の女性ジュディーも美しく裕福で男たちの愛情と献身を独り占めする”黄金娘”なのだが、歳を重ねるに連れ、極々普通の気立てのいいオバさんに成り下がる。
結局、デクスターはジュディーを失い、何時までも過去への幻想を捨てきれないでいる。逆に彼女は、今ある現実と衰えた容色を受け入れ、過去の幻想に縛られる事なく平凡な女房として年老いていくが、それは彼女の為でもある。
つまり、夢を失った男ほど哀れなものはなく、美と若さを失った女ほど醜いものもない。
至極当たり前の事だが、この詩的想像力を駆使したフィッツジェラルドの描写はなんと鮮やかな事か・・・
「金持ち階級の青年」は、個人的には一番好きな作品である。
恵まれたが故に味わう孤独と放蕩。”The Rich Boy”のアンスンは自らの優越感を守り、労り過ぎて、全く煮え切らない人生を歩んでるように思えてしまう。しかし、このリッチさには奇妙な精神的ゆとりと、ある種の崇高さを感じてしまう。伝統と優越の為に一生を捧げるのも、これまた余裕といえよう。
庶民から見れば、金持ちの金持ちによる金持の為だけの贅沢物語ではあるが、”発育不全の有閑階級の空疎な”人生物語でもある。
1910年代のリッチさとは、こういった精神性の高いものだろうが、金持ちの奥行きの深さを感じさせてくれた興味深い短編集である。
華麗さと天才的な軽快さを備え、常にある種の悩みを抱え込む。まさに、羨ましい限りの稀有な作家である。
他にも、「バビロン再訪」や「狂った日曜日」があるが、翻訳が佐伯泰樹氏だけあり、言葉の一語一句の繊細さに心を奪われそうになる。村上春樹の翻訳と比べても、美しさと胸に浸透する強さと鋭さと密度が違う。
翻訳者も著者に見合った文才が重要な事も教えられた。
友人に『マイ・ロスト・シティ』と作詞家の松本隆の『風のくわるてつと』とアニメ『風の谷のナウシカ』の共通点を語ったら、「それで本を作るから、書いて」と言われて同人誌を作ってもらったことがあります。
味のある作家さんですよね。今、読んだら何を感じるか読んでみたくなりました。
英語が読めないので、翻訳者の能力に頼る事になりますが、人気ある村上春樹さんの翻訳だけは、若者ウケを狙ってる様でどうも苦手です。
私達が安心して外国の本が読めるのも優秀な翻訳の専門家がいてからこそで
そう考えると翻訳者に感謝です。
いつもコメントありがとうです。
短編も幾つか読んだ記憶ありますが、いまは覚えていません。
ギャッビーはまさにフィッツジェラルド自身かとさえ思ってしまいます。
映画化され、作品が原作忠実なのにも、これまた感心した記憶があります。
短編も長編もより自伝に近く、それも自虐的で心が重くなるんですが・・
「華麗なるギャツビー」はディカプリオのイメージがダブり、食指が中々伸びません。
長編としては、「夜はやさし」が読んだ後の何とも言えない喪失感が印象的でした。
あとは短編ばかりで、それでもフィッツジェラルドらしさは十分に堪能できると思うんですが、ただ私には長編を読むだけの体力がないだけかもです。