
まず最初に言うべき事かもだが、蒲池一族の壊滅の起点となった、与賀神社での龍造寺隆信による蒲池氏(鎮並)の謀殺ですが、与賀神社にある地蔵尊の解説板に書かれた文章(下図参照)は、明らかに史実を大きく歪曲して作られている。
例えば、”(与賀馬場に差し掛かった際)どんな行き違いであったか”とか”(佐賀柳川両軍の)やむなき会戦”とか、更には”(柳川軍は)不運にも”と書かれてあるが、龍造寺氏の命を家兼と隆信と、2代に渡って救った蒲池氏(鑑盛)に対する大きな裏切りと残虐行為であり、その後、本家蒲池一族を殲滅させた行為は、絶対に許されるべきではない大量殺戮行為である。
私は蒲池一族に代わり指摘するが、少なくとも真実を書いて欲しい。でないと、龍造寺により壊滅させられた蒲池一族の霊は、この地蔵尊を持ってしても浮かばれる筈もない。
プロローグ
”目に見える”結果で言えば、我が蒲池地区(柳川市)の起源に当たる蒲池氏は、龍造寺隆信(肥前国=佐賀・長崎)によりほぼ壊滅された。
事実、「筑後争乱記・蒲池一族の興亡」(河村哲夫著、2003)の前書きには、”蒲池氏は肥前の熊・龍造寺隆信の300日に及ぶ攻撃を柳川城(蒲池氏本城)に篭り防ぐ。しかし、一族は次々と攻め滅ぼされ、筑後の雄・蒲池一族の1000年に及ぶ興亡を描き、筑後の戦国期を総覧する”とある。また、「姓氏家系大辞典」を著した太田亮は、蒲池氏を”筑後屈指の名族”と謳う。
「ショウタイムセブン」で私は”人は歴史からは学べない”と書いたが、それは過去の歴史の多くが”見えない”歴史で埋め尽くされてるからだ。
例えば、蒲池氏が守護である大友氏と敵対する龍造寺を保護する事なく処刑してたら、隆信の裏切りと策謀はなかったし、その後の蒲池氏が壊滅する事なく安定した繁栄を続け、大友氏に代り、九州の半分とは行かないまでも、福岡県の半分程を制圧してたであろうか。
更には、大友氏の子孫である立花宗茂の存在も武勇伝もなかったかもしれない。つまり、”柳川”という地名すら存在しなかったであろうか。
そういう意味では、私の地元の起源を知る事で、見えない蒲池氏の歴史をも予測でき、その歴史をリスペクトする事ができる。もっと言えば、歴史を帰納的に考える事で、未来に対し、様々な世界を予測できる。
つまり、歴史は学ぶものではなく、視えない歴史を想像し、未来を様々な想像の世界で埋め尽くす事とも言える。
確かに、過去2度の記事で紹介した様に、蒲池氏は鎌倉時代初期に嵯峨源氏の流れを汲み、室町時代初期に松浦氏が、室町末期には宇都宮氏が名跡・蒲池城を継ぎ、戦国時代は柳川城主にして筑後15城の筆頭大名でもあった。
一方、水郷(掘割)と詩人北原白秋の郷里としても有名な柳川市は、立花藩・立花宗茂の事はよく知られているが、柳川市の歴史は(松浦氏系以降で言えば)蒲池氏が築いた約400年の歴史から始まっていた事は、あまり知られてはいない。
時代を遡れば、平安時代前期(794~)頃に初めて”蒲池”という名の砦が作られ、天慶年間(938-47)に北部九州で反乱を起こした藤原純友の一族により941年頃、今の柳川市東蒲池に蒲池城が築かれた。が他説には、その1年前に太宰府方の橘公頼により築かれ、純友の弟が攻め入ったとされる。
だが、純友の乱はすぐに鎮圧され、砦だけが残り、土着の村長らが蒲池氏と名乗り、世襲しながらこの砦に住み着いたのが、蒲池一族の起こりとされる。
蒲池氏の起源
その後、”源平の戦い”(1180年)で勲を得た(嵯峨源氏の流れをくむ)源久直は鎌倉幕府の御家人として、1195年頃に蒲池庄の地頭職に任じられ、初代蒲池氏を名乗り世襲。以降、初代蒲池久直、行貞、行末、行房と4代まで続いたが、”地頭系”蒲池氏はここで一旦途切れ、松浦系蒲池氏(前蒲池)と宇都宮系蒲池氏(後蒲池)に引き継がれる。
更に、松浦系蒲池氏は筑後国の大友氏により下蒲池と上蒲池に分割され、本家の下蒲池は後に立花宗茂の柳川藩に受け継がれ、今の柳川市に至る。但し、分家の上蒲池は山下城主(八女郡立花町)に引き継がれる。
本書「筑後争乱記」では、こうした蒲池氏の出自の蒲池城の成り立ちから、蒲池氏の歴史で全盛期とされた”義心は鉄の如く”として名君とも評された16代目蒲池鑑盛(あきもり、後に宗雪に改名)。その後、龍造寺によって謀殺された17代目蒲池鎮並(しげなみ)の足跡を中心に、蒲池氏が滅びるまでの苛烈な歴史を描き出す。
例えば、南北朝時代の”筑後川の戦い”(1373)で、肥後の菊池氏相手に敗北した蒲池氏が滅びかけた時、その娘が所領がない宇都宮久憲と出会い婿養子となり、蒲池氏(蒲池久憲)を存続させた所はドラマティックでもある。但し(先にも述べたが)、久憲以前の嵯峨源氏(松浦系)の蒲池氏の時代を”前蒲池”と、久憲以降の宇都宮家の蒲池氏を”後蒲池”と呼ぶ。
だがその後、滅びかけた龍造寺隆信を2度に渡って助けた蒲池氏(鑑盛)だが、その隆信に容赦なく完膚なきまでに本家蒲池一族が壊滅させられる所が悲しいし、未だに理解に苦しむ。勿論、隆信の冷酷非道な暴虐さと狡猾なる策謀によるものと言えばそれまでだが、戦国の世は我々が思う以上に、残酷かつ複雑で恐ろしい。
まるで、ウクライナに攻め入ったロシアみたいで、蒲池氏を起源とする我ら蒲池地区の民にとっては、許し難いものにも思える。
因みに、松田聖子(蒲池法子)さんの直系の祖先は、本家蒲池氏壊滅の中で辛うじて生き延びた蒲池鑑盛(宗雪)の3男統安の次男で、後に僧侶となった応誉(おうよ)である。以降で述べるが、彼の人生もまた壮絶でもあった。
但し、私の住んでる所は蒲池氏の歴史で言えば、蒲池氏本家(下蒲池)の本拠蒲池(柳川市東蒲池)領内の立石地区となり、以前、2つの記事で書いた”下蒲池=西蒲池、上蒲池=東蒲池”とは厳密には誤りであり、ここにて修正する。
かつて、古代において筑後には中央権力を脅かした豪族らがいたが、中世においては大きな勢力は出ず、弱小な領主たちが互いに牽制する状況が続いた。その為、筑後は豊国(大分・宮崎)の大友氏、薩摩の島津氏、北九州と筑前の大内氏、肥前の龍造寺氏ら、強国の草刈り場的な地勢にあり、特に、筑後国領主大友氏の勢力下にある時期が長く続いた。
ただ、筑後国の中で最大勢力を誇ったのが蒲池氏で、未だ出自や系譜には明確でない所も多いが、大まかな家系では以下の4つとなる。
①”祖系蒲池氏”藤原純友の乱以降に村の土着民が住み着いた②”地頭系蒲池氏”源久直が鎌倉幕府の御家人となり、蒲池庄の地頭に任ぜられた③”松浦系蒲池氏(前蒲池)”承久の乱後に肥前松浦党との繋がりで繁栄した④”宇都宮系蒲池氏(後蒲池)”宇都宮家から養子に入り蒲池家中興の祖となった久憲を始祖とする家系。
その後、後蒲池氏はその勢力を弱めようと、1505~20年頃に筑後国領主の大友氏(親治)から上下2家に分断され、下蒲池は蒲池鑑久→鑑盛→鎮並と続く蒲池氏の本家(後の柳川立花藩)となり、上蒲池は蒲池親広→鑑広→鎮運と続く分家(山下城主=八女郡立花町)となる。
前述の様に、蒲池城は天慶の初め(941年頃)に、現在の崇久寺西側一帯(柳川市東蒲池)に築かれた城で、今は廃城(1600年、田中吉政による)になり、周囲は田んぼや宅地になっている。また、崇久寺西北に”蒲池城跡”の碑が建てられてるが、この場所が蒲池城址であるかは異論もあるが、この地域の西に三島神社があり、周囲は堀で囲まれてる事から蒲池城の中心だったと考えられる。
難攻不落の蒲池城と大友氏支配の筑後国
世は戦国の時代、比較的平和だった筑後地方にも、謀反や反乱がしばし起きる様になる。
後蒲池5代目(蒲池氏14代目)の治久は現在の柳川市坂本町に柳川城を築き、蒲池城の支城とした。それまで”長福寺”と呼ばれてたが”崇久寺”と改名。同7代目(下蒲池氏2代目)の鑑盛は柳川城を拡大して本城とし、蒲池城を支城としたが、本城は更に堅固に整備・補強され、後に”難攻不落”と呼ばれる鉄壁の城へと生まれ変わる。
この頃が蒲池氏の全盛期だったとされ、本家下蒲池氏(鑑盛)は”筑後15城24頭”の旗頭で12万石を領し、8万石を領した上蒲池氏(親広)を併せ、20万石となった(上図参照)。但し、大友氏により半強制的に分割させられたとは言え、蒲池氏本家の勢力は衰える事はなく、その影響力は今の三井・浮羽・三潴(久留米市含む)・三池郡など筑後地方全域にまで及んだ。
その後、動乱の世が落ち着き、龍造寺・大友氏・島津氏の複雑な3つ巴の勢力争いも沈静化し、筑前・豊前は大内氏、豊後・筑後は大友氏との棲み分けが確定し、蒲池氏も安定した地位を築く事が出来た。また、この頃に生まれた鑑盛は戦国期筑後国の武将の中で、後に高い評価を受けるから、歴史はよく出来ている。
但し、蒲池氏が突出した権力を持ってた訳でもなく、地方武将たちのまとめ役との意味合いが強く、互いに牽制し内政交渉を行う事で勢力のバランスを取っていた。
従って、筑後にては蒲池氏を筆頭に、大友氏の勢力が浸透していくが、この頃の大友氏は宗麟の父・義鑑で若干24歳で家督相続を受けた強者でもあった。
一方で当時、約40万石の筑後国の守護領主は平安時代より続く日本屈指の名門・大友氏で、全盛期の大友宗麟の頃には九州の半分を制圧。元々、大友氏とは鎌倉時代から戦国時代にかけ、豊後国(大分)を本拠とした一族で、大友能直が源頼朝より、豊後国守護を命じられ、以後世襲を重ねた。やがて築後に進出し、守護大名から戦国大名に成長。最盛期には豊後・築後・豊前・肥前・肥後(宗麟の弟重治により菊池氏を継承)・筑前の6ヶ国を領有し、大友氏21代目の義鎮(よししげ=後に宗麟と改名)の頃にピークを迎える。
但し、実質細分化された村々を統治していたのは蒲池氏の様な国人領主(地方豪族)で、筑後国の中でも蒲池鑑盛は”筑後筆頭大臣”とも呼ばれる程の強い国力を保持し、大友氏にも一目置かれていた。
この様に勇敢な武将であった鑑盛だが、情に厚い所も持ち合わせ、肥前を追われた龍造寺の長老・家兼を戦の場以外では討つ事を拒み、領内で保護し、家兼の回復に助力した。その後、家兼の家督を継いだひ孫の隆信も肥前を追われ、筑後に逃れてきた時も、鑑盛は大友氏に敵対的な龍造寺氏を討つ事はなく、領内にて2年以上に渡って保護し、2代に渡り、龍造寺氏を滅亡の縁から救ったのである。
一方で鑑盛は、後に肥前国で勢いを増す龍造寺を警戒し、柳川城を本格的に造作。城の周囲に水郷を幾重にも張り巡らせ、九州でも屈指の不落の城とし、蒲池氏の勢力を盤石のものする。また、度重なる合戦の間を縫い、道路や橋を整備し、その後の田中政宗や立花宗茂による柳川の町づくりの基礎を作った。
晩年の鑑盛は入道し蒲池宗雪と名乗るが、次回でも述べる”耳川の戦い”(1578)では、既に老身で病を持つ鑑盛だったが3千の兵を率いて出陣。総崩れの大友氏方にて先鋒に布陣し、何度も島津氏本営へ突入すべく奮戦し、壮烈な最期を遂げる。
この様な果敢な武勇伝を持つ鑑盛だが、守護大友氏の招集に従い、山口の大内氏や毛利家との戦争に幾度となく駆り出され、武名を上げ、大友氏への忠誠を貫き通した。この様な守護と国人領主の関係は戦国時代には、利用したり時に裏切り合う程度だったが、鑑盛の頃は特に良好でもあった。
但し、順風満帆に見える蒲池氏による統治も、後に大友宗麟が南蛮貿易で莫大な利益を上げ、更にキリスト教を保護した事で大友氏内部の対立や反乱を生み、その治世にも暗雲が立ち込めていく。
龍造寺一族の混乱と壊滅
一方、大友氏の総攻撃と毛利氏との戦いで追い詰められた大内氏(義隆)を”神埼田の戦い”(1530年)で撃破し、何とか肥前を奪還した龍造寺氏だが、肥前は元々、少弐氏の地盤で鎌倉時代には絶頂期を迎えたが、九州での3つ巴の覇権争いに巻き込まれ、”大保原の戦い”(1359年)で菊池氏(肥後)に大敗し、急速に衰弱化し、その少弐氏の支配下一派が龍造寺氏である。その後、大内氏が筑後国領主の大友氏に押され、その隙きを見て、(衰退したとは言え)肥前に多くの所領を持つ少弐氏は(蒲池氏の祖先でもある)松浦党の助成を受け、大宰府を奪還する。
これに対し、大内義隆は足利将軍の命を受け、1万余の兵で少弐氏を追討し、前述の神埼田の戦いが勃発。この時、少弐氏を率いたのが龍造寺17代目の胤久(たねひさ)だが、彼は長老で叔父の家兼を前線に派遣。その後、大内氏に鞍替えした肥前勢を威嚇し、胤久の家臣の鍋島清房が側面から襲撃して、戦いに勝利。龍造寺と鍋島氏は結束を固め、肥前でも勢力を増していく。
また、家兼は龍造寺の本拠である村中城(佐賀城)の南東に水ヶ江城を作り、分家独立したが、この屋敷で家兼の孫と胤久の娘の間に産まれたのが龍造寺隆信(1529-84)である。
神埼田の戦いの3年後の1533年には、大内義隆は筑前・肥前での少弐勢力を駆逐する為に、自ら3万余の軍を肥前に送り込み、少弐氏を圧倒するも、大内勢の猛攻を辛うじて防いだ少弐氏(資元)は、先の戦いで大内軍を撃退した龍造寺家兼の仲介で大内氏と和議を行う。
つまり、大内氏は龍造寺氏の抱き込みに成功し、その2年後に大内氏は和議を反故にし、逆に少弐資元は自害に追い込まれる。
ここに、肥前の武将らは龍造寺と大内氏の密約を疑い、1544年、資元の息子冬尚は水ヶ江城を包囲し、龍造寺一族を追い詰め、次々と殺害したが、91歳と高齢の家兼は何とか筑後に逃れ、26歳の若き蒲池氏(鑑盛)の元に身を寄せ、佐賀へ復帰の機会を窺う。
こうして、龍造寺一族は壊滅的な打撃を受けるも、鍋島氏の獅子奮迅の働きにより、家兼は僅か2ヶ月で水ヶ江城に帰還し、出家の身であるひ孫で18歳の胤信(後の隆信)を跡継ぎ据え、他界。新たに龍造寺氏となった胤信だが、眼光鋭く気性も激しく、才知も腕力にも長けた若者は、22歳の時に隆信と名乗り、やがて”肥前の熊”と恐れられる様になる。
その後、隆信は大内氏に従うが、1551年に大内義隆が謀反に合い自刃すると、新たに大友氏となった宗麟が豊後から筑前に勢力を張り出し、隆信も大友派の家臣から筑後に追われ、(上述した様に)曽祖父と同じく蒲池鑑盛を頼る事になる。
同じ頃、20代目大友氏(義鑑)の長男義鎮(宗麟=1530-87)は21歳で、気性が荒く武術にも長けてたが、義鑑は妾の息子を溺愛し、僅か3歳の塩市丸に家督を継がせようと、重臣に同意を求めるも当然の如く反対され、激怒した義鑑は彼らを殺害。だが、側近の反発を買い、逆に義鑑は重症を負わされで死去。
この大事件は”大友二階崩れの変”(1550年)と呼ばれ、結局は、(父の24歳を凌ぐ)若干21歳で、宗麟は大友氏を継ぐのである。
因みに、肥後では大友義鑑の弟重治が菊池氏を継ぎ、菊池義武と改名していた(1520)が、大内義隆の策略に引っかかり、大友氏に公然と反旗を翻して筑後へ出兵。豊後の大友氏は肥後に本軍を送るも、義鑑の死は義武を勢いづかせ”肥後の動乱”を引き起こす。一方、蒲池氏らは大友宗麟に命じられ、動乱を鎮圧し、肥後の菊池義武は処刑され、宗麟は肥後国の守護となり、やがて筑後国の守護領主にも上り詰める。
この翌年には、周防・長門(山口県)を中心に勢力を有する名門・大内家でも同様の大事件が勃発し、大内義隆は家臣の謀反により自害。その大内氏だが、絶頂期には安芸国(広島県西部)を平定し、備後(広島県東部)・石見方面(島根県西部)にも勢力を伸ばす。更に、1536年の大宰府次官就任を機に筑前国を平定し、筑後方面にも手を伸ばしていた。
元々文芸に関心の強い義隆だったが、文人派を重用し、九州討伐などで疲弊する武人派を遠ざけたが、家臣・陶晴賢の反感を買い、毛利氏(元就)と手を組み、義隆を自害させた。
こうして、大友氏(義鑑)と大内氏(義隆)の2人の守護大名の死は、北部九州の覇権争いに大きな波紋を投げかける事となる。
少し長くなったので、今日はここまでです。以降、4度ほどに分けて蒲池一族の歴史を語りたいと思います。
但し、仕事の合間に時間を潰して書いてるので、多少の誤記はあるとは思いますが、指摘して下されば幸いです。

世代で言えば、立花宗茂の父紹運とほぼ同じで、2人とも大友氏に忠誠の厚い勇敢な武将でもあった。
宗茂は父や弟ら家系にも恵まれたが、鑑盛は跡を継いだ次男の鎮並が道楽息子で、耳川の戦いでは息子の代りに出陣して自決。結果として蒲池氏一族の壊滅をもたらす。
これに対し、後に九州最強と謳われ、秀吉の九州制定に大きく貢献し、朝鮮出兵では、明・朝鮮十四万余の連合軍に対し、僅か三千余の兵で勝利した。
更には、関ヶ原の戦いの同日、近江の大津城を攻め落とし、豊臣軍に勝利をもたらしていた。
関ヶ原の戦いで家康軍が奇襲を仕掛けなかったら、宗茂の参戦により豊臣軍は勝利したであろう。
その後の不運は誰もが知る所だが、2人とも運さえ良ければ・・それだけが口惜しい。
豊臣軍は、関ヶ原の戦いが膠着すると見て、同じ日に陥落させた大津城に待機する宗茂を迎え、総大将の毛利輝元と共に参戦し、長期戦での勝利を想定してたんでしょうか。
多分、家康は宗茂が大津城に向かってる事を察知し、作戦を変更し、宗茂が参戦する前に決着をつけようと考え、奇襲を仕掛けた。
”待つまで待とう”の家康にしては、矛盾する大胆な作戦でもありますよね。
一方、秀吉の朝鮮出兵では加藤清正や小西行長の活躍が有名ですが、宗茂の偉業はあまり語られる事はないですよね。
特に”碧蹄館の戦い”では、明国の3万余の軍が総勢4万余の日本軍と対峙。
(諸説ありますが)最初は劣勢を強いられますが、3000の宗茂らの先方隊が明国の2万の先鋒隊を側面から攻撃して混乱させ、豊臣軍を勝利に導き、秀吉をして”日本一の武将”と言わしめます。
家康も後に、武田、上杉、織田等の武将と比較し”家康公の仰に天下に隠れなき立花宗茂が事よ”と畏敬し賞賛したとされます。
勿論、過大評価されてる部分もありますが、天才肌的勇将とも言えます。一方で、蒲池鑑並に関しては言えば、過大評価されてるとも言えますよね。
紹介されているとおり、いろいろな名将がいるんですけどね。
歌手の松田聖子さんは蒲池氏の血統の方ですよね。
蒲池鑑盛の三男・統安の子孫だとか。
筑前の戸次道雪と宗茂の父高橋紹運、筑後の蒲池鑑盛と立花宗茂、肥前の鍋島直茂と、この5人はスーパースターですよ。
言われる通り、
鎮並の弟統安の子(次男)で、物乞いをしながら彷徨い歩き、修験僧として難を免れた応誉ですが、その後、立花宗茂に招かれ、柳川藩家老格として良清寺を開きます。
応誉の子孫は代々住職を勤めて蒲池氏を再興し、一族は寺を守り、その末裔が松田聖子さんですね。
ただ彼を含め、本家蒲池一族で生き延びたのが僅かに3人と、とても悲しい結果に終わりました。
龍造寺隆信さえいなければ・・とも思いますが、これも時代なんですよね。
歴史家の加来耕三も同じような事を言ってた。
家康は宗茂が関が原に参戦するのを阻止する為に、宗茂が大津城を陥落させた同じ日に関が原に敢えて奇襲を掛けたと
私もそう思います。
地元贔屓で見ても、凄い武将ですよね。
多分、1対1なら誰にも負けない。
”宗茂の3千は他の武将の1万に相当する”とありますが、”宗茂の2千は謙信の8千に相当する”とも言えますね。
これが後に<宗茂の3千は他の武将の1万に相当する>との語り草になる訳だが
この鉄砲は朝鮮出兵の時の碧蹄館の戦いにも使われ、大砲を組み合わせた立花軍は明にとって大きな驚異となりえたし、これが圧勝の大きな起因となったといえる。
”宗茂の2千は謙信の8千に相当する”とは正確ではなく、上杉謙信は川中島の戦いでは8千の兵を率い、宗茂は大津城の戦いでは2千の兵を率いました。
一方で宗茂は、”尊敬する上杉謙信公は8千程度の兵が自分には適していると言われたが、私には2千程度の兵が手足の如く操れる”と言ったとされます。
因みに、大砲の件ですが
有馬氏は龍造寺との戦いで、あの時代に既に大砲2門を用意してましたから、宗茂が明軍との戦いで大砲戦を計画してた事も十分に考えられますね。