
前回のおさらい
前回「その1」では、蒲池氏の起源とその後の歴史を紹介しましたが、蒲池氏の全盛期には、(豊後を本拠とする)大友氏が守護領主を務める筑後国40万石のうち20万石を占め、特に、本家下蒲池氏の鑑盛は”筑後15城24頭”の旗頭と評され、筑後地方全域にに多大な影響力を持ってました。
その頃、九州は動乱の世が落ち着き、豊後・筑後・肥後の大友氏、筑前・豊前は大内氏、薩摩・大隅の島津氏との棲み分けが確定。やがて複雑な3つ巴の勢力争いも沈静化し、蒲池氏も安定した地位を築く事が出来た。
だがその後、新興勢力の龍造寺氏が肥前国で勢力を伸ばし始めた龍造寺氏の台頭で、九州は再び戦乱の世を迎える。
因みに、筑後国守護領主の大友氏だが、平安時代より続く日本屈指の名門族で、全盛期の宗麟の頃には九州の半分を制圧したが、実質的な統治は蒲池氏の様な地方豪族で、筑後国の中でも鑑盛は筑後筆頭の強い国力を持ち、かつ忠誠を誓い、大友氏にも一目置かれていた。
勇敢な武将であった鑑盛だが、肥前を追われた龍造寺の長老・家兼を領内で保護し、その後、家兼の家督を継いだひ孫の龍造寺隆信も肥前を追われ、筑後に逃れてきた時も、鑑盛は大友氏に敵対的な龍造寺氏を討つ事はなく、領内にて2年以上に渡って保護。2代に渡り、龍造寺を滅亡の縁から救う。
一方、順風満帆に思えた大友家だが、大友義鑑の長男義鎮(宗麟)は気性が荒く、武術にも長けてたが、父義鑑が妾の息子を溺愛し家督を継がせようとするも、当然の如く重臣に反対され、義鑑は彼らを殺害。だが、側近の反発を買い、逆に義鑑は重症を負わされで死去(大友二階崩れの変)。若干21歳の宗麟は大友氏の家督を継ぎ(1550年)。その後、肥後の動乱を蒲池氏が鎮圧し、筑後・肥後の守護大名となる。
この頃には、周防・長門(山口県)を中心に勢力を有する名門・大内家でも同様の大事件が勃発。大内義隆は家臣の謀反や敵対する毛利氏により自害させられたが、大内氏の絶頂期には安芸国(広島県西部)を平定し、備後(広島県東部)・石見方面(島根県西部)にも勢力を伸ばす。更に、1536年の大宰府次官就任を機に筑前国を平定し、筑後方面にも手を伸ばしていた。
この様に、大友氏(義鑑)と大内氏(義隆)の2人の守護大名の死は、北部九州の覇権争いに大きな波紋を投げかけるのだ。
龍造寺の復活と毛利氏の台頭
この時期には、肥前の龍造寺隆信の周辺でも様々な動きが見られ、本家龍造寺の胤栄が病死し、不在となった跡継ぎ問題では、本家と分家の当主を諮る隆信と、大友氏寄りの本家老臣が対立。当然の如く大友義鑑が介入し、それに対抗して隆信は大内義隆に接近するが、この最中に大友義鑑と大内義隆の2人が死んだのだ。
特に、隆信にとって最大の庇護者とも言える大内義隆の死は大打撃で、追放処分を下された隆信は本家・村中城(佐賀城)に立て籠もり、一度は自決を覚悟するも、包囲する大軍の中を決死の思いで逃げ出し、筑後方面へと逃げ込んだ。だがそこに待ってたのは、6年前に隆信の曾祖父・家兼を救った蒲池氏である。
蒲池鑑盛は”侍はお互い様だ”と語り、龍造寺一門百余人を優しく受け入れた。この時、隆信は23歳で鑑盛は32歳、その長男鎮並は12,3歳と推定されるが、隆信はこの少年の顔を知らない筈がない。
その2年後の1553年に、龍造寺隆信は蒲池氏から2百人の兵を授けられ、出陣を祝ったが、隆信は涙を浮かべ感謝したという。
息を吹き返した隆信は、威徳寺(佐賀県川副町)で3千人を超す軍勢に迎えられ、村中城に攻め入り奪回。仏門出身とは思えぬ狡猾かつ残忍な戦略と共に、(後に隆信の義弟となる)鍋島直茂らの活躍で急激に肥前での支配を広げ、1559年には、鎌倉時代以来の名家で龍造寺の旧家であった小弐氏を自害させた。
この頃はまた、中国地方でも大内義隆を自害させた陶晴賢と毛利氏の間で覇権争いが激化。追い詰められた陶晴賢は2万の大軍を率いてクーデターを起こすも、元就は陶軍を巌島におびき寄せて奇襲をかけ、陶軍は総崩れとなり、陶晴賢は自決(1555年)。
こうして、中国地方での覇者の地位を一気に引き上げた毛利氏だが、周防・長門(山口県)を中心に大内家再興を画策する大内氏を継いだ大友宗麟の弟・春英(大内義長)は、総力を挙げて毛利氏に対抗するも、精鋭の鉄砲隊の前になす術もなく敗れ去り、義長は自決。ここにて名門大内家は滅亡し、毛利元就の時代が到来する。
この後、毛利氏は中国制覇の総仕上げと共に、九州制圧に向け、本格的な活動を開始。基本戦略は、九州の一大勢力となった豊後に本拠を持つ大友氏に対抗する勢力を育てる事で、1556年(永禄元年)には、吉川元春と小早川隆景を大将とする2万の大軍を率いて門司城を奪回し、九州進出の足場を確保。筑前においては秋月氏や筑前氏らの反大友勢力を支援し、肥前では急速に勢力を伸ばす龍造寺と連携し、揺さぶりをかける。
特に、秋月文種に”宗麟を討てば豊前と豊後を与える”と勧誘すれば、”百戦錬磨の元就と世襲により数カ国の主となった年若では勝負は明らかだ”と文種は応え、元就と手を組んだ。
勿論、毛利氏が筑前の武将ら手回しを行ってる事は大友氏にも筒抜けで、秋月氏征伐に赴く。因みに、征伐軍の総大将の戸次鑑連(あきつら、後に道雪)は、高橋鎮種(しげたね、後に紹運)の長男・立花宗茂を娘婿とし、柳川藩立花氏の祖とされる人物で、蒲池鑑盛と同世代だが、終生に渡り、大友氏に忠誠の厚い武将であった。
戦局は、数で圧倒する征伐軍に秋月軍は壊滅し、文種は自決。この頃、龍造寺隆信も争いに加わってはいたが、大友軍の攻撃を回避しつつ、巧みに嫌疑を晴らし、(上述の様に)小弐氏を壊滅させる(1559年)。
翌々の1561年、大友軍は3万余の軍勢で、1万数千の兵で関門海峡を渡った毛利軍に対抗するも、制海権を握られ、豊後に撤退。翌年、宗麟は大分市から丹生島城(臼杵市)を新たな拠点として抵抗するも、元就は出雲に出向き勢力を拡大し、かつては大内氏と中国地方の覇を争った出雲(島根県東部)の尼子氏にトドメを刺す為、宗麟と一旦は和睦を結ぶ。
一方、宗麟もこれを機に、毛利死と結託し、大友氏への反発を鮮明にする龍造寺隆信の討伐を計画。大友軍は高良山(久留米)に本陣を構え、筑後に出陣し、先ずは謀反する武将らを討伐し、蒲池艦盛を仲介役に大友氏に忠誠を誓わせた。
大友軍と毛利軍の激突〜”多々良浜の戦い”
その頃、征伐軍の副将で、宝満山と岩屋城の城主だった高橋鑑種だが、元は大友一族(一万田氏)の末裔で、大友氏の命により途切れかけた大友方の武将・高橋家(光種)を継ぐが、宗麟が兄を謀殺し、その妻を奪ったが為に恨みを抱き、毛利氏の説得により大友氏から離反。
一方、1563年末に尼子氏を壊滅させた毛利氏は、再び大軍を北部九州へ侵攻させ、お陰で壊滅しかけた秋月氏・筑紫氏・高橋氏ら筑前の有力武将らも息を吹き返した。
1567年、高橋鑑種は大友氏に公然と反旗を翻し、これに怒った宗麟は豊後・肥後・筑後の2万の兵を動員。総大将の戸次道雪や蒲池艦盛と共に陣を構え、高橋軍は劣勢のまま宝満城に退却するが、筑紫軍や秋月軍らも奇襲を含め必死に抵抗。長期戦の様相を見せる。
翌1568年、筑前の立花城主・立花鑑載(あきとし)も、南蛮文化で莫大な富を築き、キリスト教にかぶれた宗麟の横暴な支配や放縦な性癖に痺れを切らし、大友氏に反旗を翻すが、毛利軍も1万余の大軍を派遣。それに対し、宗麟は戸次道雪らに兵3万を預け、一気に立花城を攻め落とす。更に宝満城を包囲し、高橋鑑種は完全に孤立した。
こうして大友軍は筑前国の反大友勢力の鎮圧に成功し、1569年、大友氏は肥前の龍造寺討伐に着手。豊後を発った宗麟は筑後へ入り、豊前・豊後・筑前・筑後・肥後・日向の7カ国から総勢5万の大軍を率い、かつては隆信を救った蒲池鑑盛もこの戦いに参加。更に、宝満山城を包囲してた戸次道雪の3万の大軍も肥前領内に侵入し、龍造寺隆信を取り囲み、降伏を要求するも、毛利氏に援軍を要請し、徹底抗戦の構えを見せる。
これに対し元就は、兵4万を率いて海を渡り、先ずは門司城を奪還し、豊前の三岳城を落として小倉に拠点を構えた。更に、吉川・小早川軍3万余の大軍は立花城奪還の為に筑前へと向かう。一方、佐賀では隆信が3千の兵と共に籠城し、大友軍に決定打を与えない。
その頃、毛利軍が立花城に出現したとの知らせを受け、宗麟は道雪らに龍造寺との和睦を命じ、隆信も一旦それを受け入れ、大友軍は龍造寺への包囲を解き、筑前へと向かう。
宗麟は高良山に本陣をおいたまま、新たに豊前・豊後・筑後・肥後の兵を集め、総勢7万の兵を博多箱崎に終結。一方で、毛利軍に包囲された立花城で必死に籠城戦を展開する立花勢には開城を迫り、毛利軍も彼らを丁重に扱い、大友陣営に送り込んだ。
しかし、香椎付近に布陣する毛利勢と箱崎から博多にかけて布陣する大友勢との間で、”多々良浜の戦い”(1569年5月~11月)と呼ばれる、一触即発の時が迫っていく。
まず仕掛けたのは毛利勢で、火を放ち、猛攻をかけるも決着はつかず、逆に毛利軍は香椎方向に退却。この時、博多の大半の民家が消失したが、毛利勢4万の兵が多々良川を渡って一気に侵攻。対する大友軍は2万余で、じりじりと押されたが、この時、敵陣の動きを冷静に観察してた戸次道雪だが、小早川隆景の陣営に手薄な部分を見つけ、精鋭の鉄砲隊を送り込み、800丁の鉄砲を乱射させ、敵陣を崩し、その結果、毛利勢に動揺が走った。
勢いを盛り返した大友軍は、退却する毛利軍を厳しく追撃し、堪らず毛利勢は立花城に退却。この戦いで優勢になった大友軍は長期戦で優位を拡大する作戦に出るが、毛利軍も立花城に立て籠もり、守りを固める。だが、この膠着状態を打破したのが大友方の武将・吉岡長増(宗歓)で、手薄になった毛利氏本国への攻撃を宗麟に進言した。これは、大内家再興の口実に従い、山口で大内輝弘に反乱を起こさせる策略でもあった。
”今山の戦い”と龍造寺隆信の躍動
因みに、大内輝弘は大内家が滅びた後、宗麟の保護を受けて豊後に亡命し、宗麟も足利将軍から大友家相続の認可を受けていた。その後、輝弘は山口へ進撃し、更に毛利氏に滅ぼされた尼子氏の遺子らが出雲から毛利領に侵入し、お陰で大内輝弘は高峰城(山口)を奪還。
予期しない展開に愕然とした元就は、九州北部に展開する毛利軍の全面撤退を命じるも、大友軍は立花城から撤退する吉川の軍と小早川の軍を追撃。小倉までの間に約3500人の死体が転がってたという。
また、山口で勢いを増した大内輝弘だが、毛利軍が帰還するやすぐに孤立し、吉川軍に追われて自決。宗麟にハメられた哀れな結末であった。
一方、宝満城の高橋鑑種は依然として孤立無援に追い込まれ、降伏を申し出るも、大友一族・一万田家の強い要望もあり、宗麟も渋々認め、鑑種の旧領を全て没収。元は豊後大友氏の同族という事もあり、鑑種を処刑せずに豊前(小倉)に隠居させ、更に高橋家再興の為、大友氏の家臣で高橋鎮種(紹運)に豊後の宝満城を与え、筑前の立花城は戸次道雪に守らせた。
因みに、蒲池本家の鑑盛は戦力を拡大した龍造寺に対抗する為に、祖父・治久の代に築いた柳川城(蒲池本城)を改築。既に50歳になる鑑盛は、家督を30歳になる次男・鎮並に譲り、宗雪と名乗った。高橋紹運や戸次道雪と共に大友氏に忠誠を終生尽くした人物だが、龍造寺隆信の娘を鎮並の側室として迎えた事を常に後悔していた。
事実、隆信が大友氏に反旗を翻した事は非常に不可解で、今では2人の関係も全くの疎遠になり、龍造寺との縁組は大失態に思えたが、側室(後妻)とは言え、娘のいる夫婦を離縁し、龍造寺を断ち切る訳にも行かない。その上、鎮並を積極的に戦場に赴かせず、道楽息子に育て上げた事を後悔しつつ、大友氏からの出陣要請がある度に、鑑盛自身老体に鞭打って出陣した。
因みに、隆信はかつて鑑盛(宗雪)に保護された恩から、娘(玉鶴姫)を鎮並に後妻として嫁がせ、蒲池氏とは側室の関係にあった。但し、正妻(肥後・赤星統家)との娘(徳姫=徳子)は長女であり、後に龍造寺により蒲池氏一族が壊滅させられた時は、運良く島原に逃げ延びた。
前述の様に、龍造寺が大友氏と和解した事で少しは気が晴れたが、鑑盛の心配は尽きなかった。隆信が再び大友氏に離反するのだ。
宗麟は再び大軍を集め、蒲池宗雪を筆頭に肥前の龍造寺領内へと侵攻。こうして1570年3月に始まった”今山の戦い”では大友軍6万人に対し、龍造寺軍は僅かに5千人で勢力の差は圧倒的だ。一時は本城の佐賀城を包囲され、陥落寸前まで行くも、暴雨に救われ、痺れを切らした宗麟は、今山(佐賀市大和町)に本軍3千の兵で陣取るが、鍋島直茂の軍800人の奇襲により、総大将を失った大友本軍は総崩れになる。
しかし今度は、龍造寺側から和睦提案があり、隆信の弟を人質に差出す事で、宗麟は講和を受諾し、豊前に引き上げ、結果的にはだが、龍造寺の勝利となった。戦い自体は局地戦であった為、大友軍には大きな痛手はなかったものの、半年に及ぶ包囲でも佐賀城攻略の糸口を掴めなかった事は屈辱でもあった。
一方で隆信も、今回の様な勝利では大友氏の実質の肥前支配は排除できなかったが、大友氏へ従属し続ける領内の豪族らを残虐なる謀略により次々と討伐・服従させ、やがて大友宗麟や島津義久と並ぶ九州三強にまで成長。
ここに、隆信の狡猾さと残忍さが見て取れ、”恩を仇で返す”的不可解な戦術が功を奏したとも言えるが、鍋島直茂の武勲と戦術に負う所が大きかったのも事実である。
また、この年6月に中国地方10カ国の覇者となった毛利元就だが、75歳という高齢で死去。お陰で当面だが、毛利氏の驚異が少なくなった事は宗麟には救いでもあった。
一方で、最大の肥後者を失った龍造寺隆信だが、肥前における不安定要素は取り除いたものの、大友氏に対抗する地盤を急速に固める必要に迫られ、筑後最大の勢力である蒲池氏への接近を画策し始める。この頃、隆信は鎮並に嫁いだ娘と5歳になる孫の為に、使者を派遣し、ご機嫌を伺っていた。若い頃から戦場を駆け回った宗雪に比べると、鎮並は遥かに凡庸で貶しやすい人物に思えた。
”耳川の戦い”と大友氏の衰退
その一方で、南部九州では島津氏の勢いが急速に拡大。元々、島津氏は鎌倉以来、薩摩・大隈・日向3国の守護となった名門で、城主で長兄の義久を中心に4兄弟の結束で、長く続いた薩摩の内紛を抑え、大隅や肥後や日向への進出を画策していく。その後1573年には、日向・伊藤氏の3千の軍を、義久率いる3百の兵で壊滅させ、結果、大友氏と島津氏が直接対峙する事となる。
こうして時代は、大友・龍造寺・島津氏の3強の時代に突入する訳だが、龍造寺と島津氏が勢力を勃興し、大友氏が減退していく時期でもあった。この年、蒲池宗雪は54歳になるも、大友軍が筑後から撤退し、更に勢力を広める隆信は西肥前地方も勢力下においたが、過去の恩義もあり、迂闊に筑後を攻め入る事は出来ない。
また、島津氏も大隅の支配をも確実にし、足場を固め、日向を北上。一方、大友氏は筑前にの宝満山城に高橋紹連、立花城に戸次道雪(後の立花道雪)を擁した為、龍造寺が秋月・筑紫氏に攻撃を仕掛けさせるも大きな壁となった。
1578年、59歳になった宗雪だが実質的采配は彼にあった。一方、40歳になった鎮並は反大友色をより鮮明にさせ、筑後の武将らから常に警戒され、後妻が龍造寺の娘でその子供もいれば廃嫡もできず、不安は募るばかりだ。
更に前年末、島津氏は日向中部を制圧し、伊藤氏は本城を脱出し、宗麟の所領へと逃げ込んだが、島津氏は大友氏が支配する日向北部に狙いを付け、翌年になると両者の間で散発的な衝突が幾度も繰り返される様になる。
こんな状況下の1578年8月、宗麟は3万余の兵を率いて南下し無鹿(延岡)を目指すが、キリスト教に改宗した宗麟は十字軍気取りで船に乗り、行軍の途中で寺社の打ち壊しを命じ、家臣らを大きく動揺させた。
この時、蒲池氏に対しても徴収が掛かったが、鎮並だけは他の部勢らを残して途中で引き返し、宗雪を大激怒させ、”主君に背くとは何たる愚か者。お前は必ず天罰を受ける。蒲池一族の子孫が滅びるのが目に見える様だ”と、鎮並を怒鳴りつけた。
結局、鎮並に見切りをつけ、宗雪は老体に鞭打って日向に向かう事となる。その一方で、鎮並は隆信に騙され、龍造寺に翻ったのは明白で、すぐさま隆信と連絡を取り始める。
同年10月、総勢5万に達する大友氏の大軍が無鹿(延岡)に終結し、本陣を構え、本軍4万の兵を島津方の拠点・高城(都城)へと向わせた。
ここに、戦国史に名高い”耳川の戦い”が勃発し、大友軍4万と北上を続ける島津軍4万(又は3万)が高城で激突。だが肝心の宗麟は無鹿で悠長に構え、キリスト教への改宗により、家臣や領民の間に不信や混乱が目立ち、軍内部はバラついて統率と忠誠に欠け、それは戦局にも露呈した。
島津軍は数で優る大友軍に高城を敢えて攻めさせ、敵軍の陣形を間延びさせ、左右後方の3方から囲むという”釣り野伏せ戦法”で大友軍を壊滅させた。更に蒲池宗雪も逃げ場を失い、島津軍の中に敢えて突入し、84人の残兵と共に自決。結局、大友軍の総死者は2万人に上り、撤退途中の耳川(宮崎県日向灘)でも島津軍に散々に討ち敗れた事から、後に”耳川の戦い”と呼ばれる様になる。
宗麟は歴史に残る大敗を喫し、有力武将の大半を失い、失意の中で豊後に逃げ帰ったのだが、ここに大友氏の九州制覇の野望は潰えた。
補足
ところで、宗雪の墓は蒲池本家の菩提寺である宗久寺(柳川市東蒲池)に建てられ、位牌の裏には”蒲池武蔵守源艦盛(宗雪)”とあるが、宗雪は下蒲池氏で宇都宮氏の流れをくむ後蒲池の家系である。が故に、前蒲池をくむ源氏(松浦氏)ではなく、藤原とすべきである。
ともあれ、蒲池氏の中でも最も人間味に富んだ傑出した武将でもあったと総括できよう。
一方で、”耳川の戦い”の完全敗北で疑心暗鬼になり、宗麟は反発する家臣ら殺害し、更に、家臣の妻らを奪うなど傍若無人ぶりが目立っていた。が故に、筑前や肥前の各武将らは大友氏に対して蜂起を始めたが、筑後も例外ではなかった。
だが、蒲池鎮並だけは勢いを取り戻し、龍造寺に公然と連携を取り始め、鎮並に抵抗する内部勢力は”耳川の戦い”でほぼ消滅。
一方、この頃の隆信は肥前国全土をほぼ制圧し、大友軍の”耳川の敗戦”を聞くや、その僅か7日後の11月19日には、2万の大軍を率い、酒見(大川市)を本陣として筑後へ侵攻。まさに電光石火の進撃であったが、龍造寺隆信はこの年の夏頃から島津氏と内通し、耳川に行軍した大友方筑後勢の留守を狙った計画通りの行動でもあった。
今回も長くなったので、ここまでにします。次回は、龍造寺衰退と隆信の死と、それに島津氏の九州制圧の野望について語りたいと思います。

バカ息子の鎮並を行かせるべきだった。
どっちみち途中で逃げ帰ってきただろうから
それに宗雪が生きていれば
龍造寺隆信の柳川城侵攻も止められたはずだ。
隆信が蒲池氏一族を壊滅させた本意は理解しかねるが
精神異常(サイコパス)という理由だけで推し量れるものだろうか?
宗雪が息子の鎮並の側室に、龍造寺隆信の娘を迎え入れたのが間違いでした。
隆信がサイコパスだと判ってれば、こんな致命的ミスはしなかったんでしょうが、情に厚い宗雪は隆信に何を見出してたのでしょうか。
一方でサイコパスの特徴に冷酷性と衝動性があり、この2つが極端化する事であれ程の残虐行為と非情な裏切りを生みます。
事実、龍造寺の戦闘面での実質の権限は名将・鍋島直茂が握ってたから、短期間で筑前・筑後・肥前・肥後にまで勢力を伸ばす事は出来ました。
しかし、実質上の支配は肥前の半分ほどで、有馬氏に破れ去ると一気に瓦解します。
まるで三日天下どころか一日天下でしたが、鍋島氏は龍造寺の足元を見ながら、掌の上で操ってたんでしょうね。
隆信がデカい顔できたのも直茂がいたからこそで、今で言えばネタニヤフとアメリカみたいなもんだ。
だから、龍造寺の勃興と言うより、サイコパスの暴虐といった方がいい。
某歴史家は龍造寺隆信の事をカエサルに並ぶ独裁者と評してたが、それなら狂人ヒトラーの方がずっと上で、ポル・ポトやプーチンですら有能な軍将となる。
評価ってもんは直感や表面だけで判断すると赤っ恥をかく。
隆信に関しては独裁者としても武将としても評価すべきでない。
地元佐賀県内でも評価は低く、拒絶反応がある程ですから
でも、与賀神社の菩提寺には本当の事を書いてほしかったです。特に、龍造寺隆信の残虐行為は明記すべきでした。
今はなくなってますが、与賀神社境内の隅にストリップ劇場(DX佐賀)がありましたが、蒲池鎮並はあの近くで切腹したんでしょうか。
一方で、その付近で猿楽を演じてた時に謀殺されたとされてましたから、DX佐賀を長い間記念碑として保存してたんでしょう。
ともあれ、佐賀県の歴史に大きな泥を塗った事だけは確かです。