
ティコ・ブラーエ(1546-1601)は、言わずと知れたケプラーやガリレオの先人にあたる優れた観測天文学者だが、彼はケプラーに膨大な惑星観測データを提供したという脇役の存在であり、決して主役 として日の目を浴びる事はない。
しかし、ティコが遺した観測データが天文学に与えた影響力はとても大きく、もっと評価されるべきだ。コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンと並べるとティコの存在が小さく見えるが、彼ら以上の仕事を1人で成し遂げた事は驚くべき事実である。
デンマークの有力な貴族家系の子として生まれ、コペンハーゲン大学、ライプチヒ大、ロストック大、アウグスブルグ大など欧州各地の大学で学び、天文学に興味を持つ。ライプチヒ大学時代の1563年に木星と土星の合を観測し、この合の予測が13世紀に作成された「アルフォンソ表」と大きくずれ、コペルニクスにより作られた近代的な「プロシャ表」とも数日ずれてる事に気づき、精密な観測とその装置開発が必要な事を悟る。
ティコの時代には望遠鏡がなかったから、肉眼でも比較的よく見える火星や金星の位置観測を行う事を考えたが、その基準となる星の位置を決めるのかが大きな問題となる。が、この時代は1800年前のヒッパルコスの位置表しかなく、精度が低すぎて使い物にならない。
以下、「もう少しティコに愛を」(加藤賢一著、PDF版)をメインに、彼の偉業と生涯を纏めます。
1572年、カシオペヤ座に昼間でも見える程の星が現れた。今日では”超新星”とされるが、ティコはNovaと呼び、苦労しながらも小型の六分儀を用いて朝夕観測し、月の様に視差が検出できなかった事から、月よりもずっと遠くで起きた現象である事を突き止めた。翌年、観測記録を合わせ「新星について」を出版し、27歳で天文学者として一躍有名になる。更に、1577年に現れた大彗星の視差の観測から、この彗星は月より遠い事を示した。
こうしてティコは、これらが大気圏外の天体であり、彗星は大気現象と考えられ、恒星天の不変性(=全ての星は天界に存在する)というアリストテレス的考えが誤りである事を示した。やがて、ひたすら観測材料集めに集中するが、アリストテレスを批判するでもない彼の慎重さは、後の天動説と地動説の折衷説にも垣間見る事が出来る。
この様に、惑星や彗星の位置観測の為には恒星の位置表が必要で、その為には測定機器と精度向上の為の工夫が必要だった。後に彼はそれらを全部自分で考案して作り、人類として初めて惑星の位置が正確に観測・記録した。
確かに、後のケプラーも大変に苦労したが、その前にティコの飽くなき情熱と奮闘があっての話であり、これは学問の進歩が”先人の業績の上に積み重ねるもの”という事を如実に示した例とも言える。
ウラニボルグでの観測
天文学者として一躍有名になったティコだが、1575年(29歳)にはドイツの封建領主ヴィルヘルム4世の知遇を得た。
この王様は大変な天体観測家で、自らスライド式屋根に四分儀や六分儀を備えた天文台を作り、観測に励んでいたが、天体の位置観測に時刻を記録する様になったのは、このヴィルヘルムが初めてとされ、やがて彼は星の位置表(ヘシアン星表)を作り上げたが、ヨーロッパで最初に出版された近代的な星表とされた。
この王様から強い影響を受けたティコだが、デンマーク王フレデリックに紹介してもらった事がその後の彼の人生を一変させる。ティコは国王の庇護を受け、以来20余年に渡り、ベーン島の天文台で観測一途の生活を送る事になる。翌年には、ベーン島の真ん中に(天の城と呼ぶ)ウラニボルグ天文台(図2)を作り、様々に工夫した観測道具を置いたが、手狭になったので、そこから少し離れた場所に第2の天文台を置いた(1581年)。
”星の城”(ステルンボルグ)と呼ぶ天文台には5つの観測所を設けたが、いずれも半地下式で、観測装置を地下に置き、屋根が地面に直接置かれた奇妙な形をしていた。これは風を避ける為と精確に目盛りを読む為で、新しい装置はここに据え付けられ、観測の比重はこちらの方が大きくなる。
ティコはここで、太陽・月・1000個以上の恒星、そして惑星の位置観測を系統的に行ったが、その様子はウラニボルグの壁四分儀(図6)から覗う事が出来る。
これは半径2.1mで天体の南中高度を測定でき、ティコが指揮し、高度測定係、時計係、記録係の4人で行ったが、0.1mmまで目盛りを読むと角度で10’’(秒)が達成できたとされる。だが、実際には1’(分)ほどだったようだ。但し、 1°の1/60が1’(分)で、その1/60が1’’(秒)だから、肉眼とは言え、かなりの精度の高さではある。
しかし、ここまで達成するには目盛りや眼視装置に独自の工夫が必要で、中でも有名なのは”対角対線目盛り”の発明である。これは、1目盛りを更に細分するのは不可能だから上下に目盛をつけ、1個おきに斜めに線を引き、それを10等分した目盛点を打つという方式だったが、これは後に伊能忠敬が使った四分儀にも採用された。
この壁四分儀で測定するには3人がかりだったらしく、ウラニボルグでは大勢の人が働いていたが、それを支えたのはベーン島の住人で、資金を必要としてたティコはかなり厳しく取り立て、度々住人から訴訟を受けては敗訴した。つまり、住人には彼は迷惑な存在でしかなかったのだ。
この壁四分儀に加え、ティコ自慢の器械は大アーミラリー(図7)だ。通常、”渾天儀(こんてんぎ)”と訳されるが、これは赤経や赤緯にあたる円環が全球に渡り取り巻いてるのが普通で、ティコのはやや異なっている。
図を見ると、南北極に向いた極軸に大きな円環が乗り、その円環には角度目盛が打ってあるが、そこを照準がぐるりと移動する。その上、背部の北側には全体を取り巻く半円環が斜めに付き、赤道儀式望遠鏡と同じ原理で、2つの目盛環により天体の赤経や赤緯を知る事が出来た。
また照準は2つ付き、そこから中心軸を狙い、目的の天体がその軸を挟む様に見えた時、照準係が赤緯を、北側にいる1人が赤経値を読み取る。そして、照準の付いてる円環を180度回し、反対側の照準で同様に赤緯を読み取り、両者が一致すれば合格とした。
一方で、自重による歪みを小さくする為に全体を木製としたが、円形劇場の様に階段状になってるのは、上下する目盛りをうまく読み取る為の工夫である。
ティコは精度1分以下で天体位置を求めたと主張したが、全部がそうだった訳ではなく、半分は2分程度で、助手が転記ミスをする事も多かった。更に、この精度になるとそれまで分からなかった誤差が重なり、それらを1つ1つ補正する必要があり、大変な苦労と労力が付きまとった。
研究成果として
奇妙な事に、1年間の太陽の南中高度を観測すると、春秋分~夏至の角度差の方が春秋分重なり、冬至の角度差より4’(分)大きい事が判った。が、これは、地球の自転軸の傾斜角だから、そう簡単に変わる筈がない。
ティコは、これを地球大気の屈折による現象(大気差)と見破った。大気差により、地平線上近くの天体は月1つ分ほど下にあるのに、地平線上にある様に見えるが、この差は天体の高度によって違うので困ったものである。
その為、赤道儀で星を追いかけるには高度によって運転速度を変えないといけないが、現在の望遠鏡ではAIで制御されてるという。しかしティコは、高度毎の値を求めた。大気差についてはプトレマイオスの研究があり、ティコの100年ほど前にヴァルザーが観測していたが、正確な値を示したのは彼が最初である。
太陽高度の測定から、ティコは23°31.5’(分)と求めたが、コペルニクスの値は23°28’で、彼は大気差を知らなかった為に”冬場の太陽高度が正しくなかったからだ”と彼は考えた。
なお、現在の値から推定すると、この時代の角度は23°30’だからティコの値は大きい。これは、太陽視差に1500年ほど前のヒッパルコスの値を採用したのが原因とされる。
太陽視差は地球の半径と太陽までの距離の比の事で、太陽までの距離が分からないと正しい値は求められない。これがほぼ正確に分かったのはティコの死後170年ほど経ってからだから、彼には望むべくもない。
従って、太陽視差が関係するティコの値には数分の系統的な誤差が含まれてても不思議ではないし、地軸の傾斜角も当時は難しい問題だったのである。
更にティコは、太陽軌道の離心率、近日点経度変化、太陽軌道(地球軌道と同義)の離心率を0.03584(現在は0.0167)、近日点経度を95.5°(現在は103.0)と求めた。離心率はコペルニクスの値と一致したが、近日点経度は1°ほど違ったので、”太陽軌道面は回転し、近日点経度は変化する”と彼は考えた。事実、近日点移動は水星が有名だが、現在地球では1年間に約11’’(秒)変化する事が知られている。
また、月の軌道が楕円状であろう事は、現代では容易に想像できるが、ティコは満月時・新月時の軌道の歪みと半月時のそれとは異なる事と、そして満月時・新月時には動きが早く、半月時にはゆっくりとなる事を見出した。まだ力学が未確立の時代だったから、その理由は全く不明だったが、その後ニュートンはこの現象が太陽の引力の影響による事を示し、決着を迎える。
更に、軌道面の傾斜が1/4度ほどの幅で変動する事や、1月に月の運動速度がやや遅くなり7月には少し早くなる事も彼は見出した。
ティコの死後、ケプラーはこれらのデータと研究成果を引き継ぎ、プトレマイオスの月の運動理論を改良。これは、月の位置観測には太陽からの離隔測定も含まるが、決して容易な事ではないし、同時に見えるとは限らないからだ。
やがてティコは、昼に金星が見える事を思いつき、日中に太陽と金星の離隔を測定し、夜に金星と月という具合に金星を仲介役にする。結果、精度がずっと上昇したが、大気差もそれに伴い、補正されていく。
彗星と新星の視差
カシオペヤ座新星は初めに触れた通りだが、ティコは彗星についても同様の観測から視差が見出せない事を示した。特に1585年の彗星では念入りに観測が行われ、1’(分)の精度で計測されたが、視差は見出せなかった。事実、彗星は月より6倍以上遠くにあり、アリストテレス的宇宙観では”神の世界”とされていた場所だった。
そこでティコは、地球が宇宙の中心にあり、太陽は地球を巡り、その太陽を中心に他の惑星たちが回るという独自の宇宙観を提示したが、これはコペルニクスの太陽中心説同様に、大昔から知られてた折衷案の形であり、新しいアイデアと言えるものではなかった。
尤もティコは、地球公転に伴う年周視差を見出せなかった事からそう帰結したのだが、それよりも彗星や新星までの距離の問題の方が新たな宇宙観形成には重要だったのだろう。当時は、年周視差も力学も知られてない時代だったから、太陽が中心か?地球が中心か?との論争は所詮、水掛論争に過ぎない。
しかし、彗星や新星が月より遠い事が明らかになり、地球中心のアリストテレス的宇宙観では具合が悪い事は誰の目にも明らかになっていく。
一方、この時代に出版された恒星位置表で最も精度が良かったのは(先に書いた様に)ヴィルヘルム4世のヘシアン星表だったが、ティコの星表はそれより良くとも出版はされなかった。だが、関係者には回覧されており、これを形にしたのがバイエルで、1603年にウラノメトリア星図として発表。彼は星座ごとに明るい星にα,β,‥と名前をつけた。
こうして、今日でも使われてるお馴染みの表式ができあがった。
ティコは最後まで観測に基づくという姿勢を崩さなかった。太陽中心説を正しいと考えるのは自身の信仰に過ぎなかったが、当時は何の証拠もなく、その証拠を見出せなかったティコは、コペルニクスとは反対の立場にあった。現代から見れば、ティコの方がより科学的だったが、仮説を持たなかったからか、大きな飛躍を遂げる事はできなかった。
勿論、これがティコの限界と言えばそれまでだが・・
ケプラーとの師弟関係
国王の死によりベーン島を失ったティコはヨーロッパを数年さまよい、1599年に神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世に迎えられ、プラハに移る。ルドルフ2世は理科好きの王様で、研究所を持つ程だったが、財政は火の車だった。
ここにて、新たに観測を始めた時に助手として採用されたケプラーだが、ティコの死の1年前で、ケプラーの仕事はベーン島で行われた観測結果を整理する事である。一方、ティコが持っていた2つの天文台で得られた生の観測データだが、これを天文学的に有用な形に変換するには高度な数学の力を必要としたが、ティコは全ての観測結果を教えてくれない。観測家と理論家の違いもあろうが、豪放で宴会好きなティコと実直で質素なケプラーはケンカと和解を繰り返していたが、ティコのデータの重要性を理解できたのは、ティコ自身よりケプラーだったから、ティコは”人を得た”とも言える。
一方、ティコの関心は専ら天体視差にあり、それが観察されない限り、地動説を受け入れる事は出来なかったから、火星の複雑な動きが彼を悩ませた。故にティコは、地球の周りを太陽を除く他の惑星が周るという中途な説を主張したが、新たに地動説の研究に乗り出すには年齢が過ぎていた。
”私の研究と生涯が無駄でなかったと思える様に”とのティコの最後の言葉は、それを十全に物語っている。
こうしてケプラーにティコのデータが渡ったが、ティコの財産とも言えるデータだったから、ティコの死後に親族がケプラーに返還を迫った事があった。それで、ケプラーがティコを毒殺し、データを盗んだとの疑惑が持たれたが、ティコの死は毒殺ではなかった事が今では判明している。また仮に、ティコの親族にデータがどうにかできた筈もなく、結果的にはケプラーに渡り、日の目を見た事で、最善の結果になったと言える。
以上、大阪市立博物館のHP「月間宇宙」(2012年10月)からでしたが、ティコに関する資料としては「ケプラーの夢」(1985)の中に少し紹介されてるだけで、とても懐かしく思えた。それに、東京都葛飾区の天文博物館内にはティコが惑星位置観測の為に開発した大アーミラリー(復元)が展示されてというから羨ましいもんである。
朝永振一郎氏の自著「物理学とは何だろうか」では”ケプラーの模索と発見”から始まり、”ティコなくして近代科学の幕開けはなかった”事を示唆してるが、その割にはティコの仕事はあまり知られてないし、イメージも良くない。事実、自慢したがりで、傲慢で浪費家で島民を虐げたと悪評まみれだが、観測装置を工夫し、飽く事なく測定に邁進し、あらゆる犠牲を払ってでも宇宙の真実に迫ろうとした彼の姿には、崇高なものさえ感じてしまうのだ。
事実、ティコは”賢者の様に生き、愚者の様に死ぬ”との格言を遺している。
最後に〜少しだけ補足
ケプラーはテュービンゲン大学では神学を専攻するも、卒業後はグラーツ大学で元々得意だった数学と天文学を教えた。その2年後にには「宇宙の神秘」を出版し、コペルニクスの地動説を全面的に支持し、更にガリレオの支持を受けるも、当時グラーツを治めてた大公に大学を追い出されて失職。その後、文通を通し、ティコ・ブラーエと知り合い、プラハに向かう。
1597年、結婚歴があり9歳の連れ子を持つバーバラと結婚したが、無職のケプラーはその2年後の29歳の時に、運良くティコの助手となる。53歳のティコはすでに火星を16年に渡り観測し、大量の精密な観測データが蓄積されていた。そのティコだが、2年経たずに亡くなるも、ケプラーはティコの研究を引き継ぎ、ルドルフ皇帝により宮廷付数学者に任命され、大量の観測記録も手に入れた。
その後1609年、「新天文学」を刊行し、ケプラーの第1と第2法則を発表する。
当時は、古代ギリシャのピタゴラス以来、”宇宙は完全なる調和の象徴で、天体の軌道は円である”と固く信じられ、更に、古代ローマのプトレマイオスの天動説の方がコペルニクスの地動説よりも予測精度が高かった。
ケプラーの第1法則とは”地球を含む全ての惑星は太陽の周りを回り、その軌道は太陽を焦点とする楕円である”との事だが、これはピタゴラスだけでなくプトレマイオスの理論をも凌駕した。つまり、ケプラーの理論だと観測データと完全に一致する。
因みに、コペルニクスの地動説がプトレマイオスの天動説がよりも予測精度が低かったのは、惑星の軌道を円とみなしたからで、楕円軌道であれば全てが解決する。但し、地球の軌道は完全な円に近いが、火星の軌道は楕円であった為、ティコの観測データが大いに役立った。
更に、ケプラーは”惑星の運動が面積速度一定である”という第2の法則を主張し、万有引力の存在を示唆し、天動説にとどめを刺す。
しかし、この2年後、天然痘により妻と娘を失い、更にルドルフ2世が亡くなると、ケプラーは残された子供を連れてプラハを離れ、オーストリア(リンツ)で数学教師の職を得た。スザナとの再婚後は「宇宙の調和」(1619)を出版し、ケプラーの第3法則を発表。だが翌年、魔女裁判に掛けられてた母を救う為に、故郷に留まり裁判と弁護に奔走し、無罪を勝ち取る。その後、再びリンツに戻るも、反乱軍により被害を受け、ウルムへと移り、プロイセン星表の30倍の精度を持つ”ルドルフ表”を完成させた(1627)。
しかしリンツでも宗教的迫害が強くなり、ケプラーを占星術者として期待した皇帝軍総司令官の招きでサガンに移住(1628年)するも、司令官が失脚し、ケプラーは未支払いの給料を求めてプラハに向う途中で他界する(1630年、享年59歳)。
因みに、ケプラーの法則は”距離の2乗に反比例する力によって惑星が太陽に引かれている”事を示唆するが、ケプラーはその力を”磁力の様な神秘の力”と表現。その力は、後のニュートンにより”万有引力”と名付けられた。
ティコやケプラー以前の天文学は、主に幾何学の視点で捉えられてきたが、天体の運動を(ガリレオの望遠鏡ではなく)肉眼で観測し、膨大な観測データを遺したティコと、そのデータを物理学的視点で説明しようとしたケプラーの、この2人なくしては、今現在の天文学は存在し得なかった。
一方で、ケプラーの3法則は”天体観測に基づいた経験則に過ぎない”との声もあるが、アインシュタインは、ケプラーの偉業を”知性による発見は観測された事実との比較のみから得られる真理に関する非常に美しい例証である”と語っている。
ケプラーの死から約13年後、ケプラーの法則を理論的に導いたのがニュートンだったのだが、自身が言う様に”巨像の肩の上に乗った”に過ぎなかったのかもしれない。
ケプラーは月に惹き寄せられ、その魔力に神を見出そうとしました。
数学者で天文学者でもあり、占星術師でSF作家でもあったケプラーですが、近代科学の誕生に大きな役割を演じました。
ケプラーのような万物の神とも言えそうな人物が、ヨーロッパに近代科学を産み落とした事自体がケプラーの夢だったんでしょうか。
アリストテレスもプトレマイオスもコペルニクスも一端の科学者でありましたが、ケプラーが描いた様な夢があったかどうかは疑問です。
ティコにも正確な惑星や恒星の位置を確かめたいという信念はあった筈ですが・・・
でも、ティコの膨大な観測結果がなかったら、ケプラーの夢は夢のままで終わってたでしょうし、改めて、ティコの地道な仕事に祝杯を挙げたいです。
これは地球と月の関係でも言えるけど、地球は月を引き付けるが、月が地球の周りを公転するのはお月さんの都合(法則)によるものとなる。
更に惑星の自転で言えば、ガリレオが発見した慣性の法則では、なぜ空を飛ぶ鳥は地球の自転に取り残されないのか?なぜ真上に投げた石が地球の自転に取り残されず元の位置に落ちるのか?を今では合理的に説明出来る。
こうして考えると、地動説というものは誰一人欠けてもなし得なかった中世ヨーロッパの科学の大偉業とも言える。
ガリレオは他にも、太陽の黒点観察が太陽の自転を示すものであり、金星の満ち欠けの観測は地球と金星の距離が異なる事を示す証拠になると自身の論文で発表しました。
これらの証拠は教皇側にとっては、全くの図星だったんでしょうね。
ただ、潮の干満も地動説の証拠と信じてましたが、これは後に月の引力によるものとされ、否定されてます。
一方でティコは、コペルニクス説を評価はしましたが、地動説を受け入れる事はありませんでしたが、まずは聖書に反すると考えたのが大きいと思います。
それに、地球という重い大地が運く事に疑問を感じ、恒星の年周視差を発見できなかった事も手伝い、折衷案で妥協したのだと思います。
また、コペルニクスの地動説に最初に賛同したのはガリレオではなくケプラーで、これはティコが遺した複雑な動きをする火星のデータが大きな決め手となりました。
ただ、ニュートンが慣性の法則を定式化した事は地動説の確立に向けた先駆けとなったのは確かでしょうか。
ケプラーがティコと出会ったのは
日本でいえば
関ヶ原の戦いが起きた年ですよね。
この運命の出会いがなかったら
ケプラーの法則もニュートンの万有引力の発見もなかったでしょうから
神様は2人の才能に
偶然の出会いを生み落としたのかもしれません。
戦国時代全盛の頃に
ヨーロッパでは科学革命が起きて
家康が日本を支配する頃には
ヨーロッパ中で地動説が飛び交う。
チョンマゲ結ってチャンバラ三昧の武士社会の日本と
科学が神学を凌駕し始めるヨーロッパでは
同じ人間で、こんなにも差があるのです。
ルネサンスに端を発した科学革命は、天動説を基盤とするカトリックを混乱の縁に追い込みます。
ガリレオもケプラーも一部その犠牲になったと思えますが、数学が神や宗教を凌駕した瞬間でもあります。
ティコが中途な学説を主張したのも、裕福な貴族の出でカトリックに依存してた面が大きかったんしょうか。
ただ、日本もオランダとの貿易を通じ、地動説が本格的にもたらされたのは江戸後半ですから、和算家たちはチョンマゲ結ってても天文学に精を出してたんでしょうね。