甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

春の夕暮れ

2024年05月27日 08時40分28秒 | だいたい映画、ときどきテレビ

 これは2021年の3月の末頃の写真です。たまたま通りかかった(いやいや、写真狙いで寄り道した!)紀勢線の駅でしたね。

 誰もいないのかなと思ったら、ポツンと反対側のホームのベンチに誰かがいて、「もうすぐ電車も来るのかな」と待つことにしました。いい具合に日も暮れてきた。私は家に帰らなきゃいけないのに、こんなところで写真撮るぞなんて息巻いている。というより、夕暮れは、私みたいないい加減な写真家でも、納得のする写真が撮れる時もあるのです。

 だから、夕暮れになると、気が気じゃなくなるのかな。落ち着きのないオッサンはいよいよ右往左往するんでしたね。

 反対側に静かにワンマン車両が現われて、次の駅に向かっていきました。さっきまでいた人は当然乗り込みました。


 刻一刻と時間は過ぎるし、春の夕暮れは夏とは違います。

 「春宵一刻(しゅんしょういっこく)値千金(あたいせんきん)」と言われたように、春の夜はわずかな時間も千金に値するほど、代えがたい味わいがある。花の香りは清らかに、月はおぼろにかすんでいる。歌や楽器でにぎやかだった高殿も、今は物音一つせず静まり返って、中庭のぶらんこにも人影は見えず、夜はひっそりと更けていく[蘇軾「春夜」]。


 季節の草花や天気、自然のあれこれは、日常の雑事に振り回される私たちをホッとさせてくれるものです。そういう自然の風物から心が離れていると、人間社会に浮遊していて地に足がついていない感じがします。

 自然の中に、私たちの小さな足を乗っけなくてはなりません。


 昨日も、「光る君へ」を見ました。道隆亡き後の兄弟たちの転落の話でした。一条天皇の中宮である定子さんは剃髪した。といってもボウズではなくて、ただのオカッパにしただけなのに、一条天皇は「中宮は私に二度と会わないというのか」と嘆いておられました。それくらいのことらしい。

 オカッパ頭は、妻たる資格を失い、尼さんみたいなものなのかな? 伊周と隆家は左遷。長男に母もつれそう、ということでしたが、これもまかりならん、ということになり、引き離されました。その場面、あれは天橋立の松林の中で撮影したんだね、という感じでした。番組の最初のところで宮津市で撮影したと出ていたから、まさかなあとは思ったけれど、天橋立だったとは! 明るい松林での母子の別れでした。でも、はるばる天橋立なんて、すごいロケをやりましたね。感心しました。



 都に一人ポツンと取り残された定子さんは、清少納言が支えて、とうとう「春はあけぼの」のフレーズを案出します。文や書というのは、それを読む人の癒しになる、そんな力があるのだ、というのを示してもらいました。

 定子さまへ、思いのたけをぶちまけるのではなくて、文にして語る。文字とことばと、そこに込められた思いはいっぺんには効き目がないかもしれないけれど、少しずつジンワリ人の心をほぐすことがある。

 『枕草子』は、そんな風に、定子さまと清少納言という二人の関係の中から生まれたなんて、何だかステキだと思いました。本当はどうなのか、それはわからないですけど、ほんの見開きのいくつかのことばで、時空を旅することができて、何だか現実なのに現実を通り越した何かが見つけられそうで、いい場面でした。


 私は、夕暮れになったら、ヘボ写真を撮りに行きますよ。今日は朝から雨でダメですけど、また今度、素敵な夕暮れを見つけて行きます!

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