前にも書いたかも知れません。不遇の(実は努力不足の)20代、私は、自分と啄木さんを重ね合わせて、何となく彼のことばを丸呑みにして、世の中を少しひねて見ているところがありました。
啄木さんは、わりと素直に社会を変革していこうと思っていたのかも知れませんが、ひねくれ者の私は、世の中が不公平で、冷たく、何をしても受け入れてくれず、無表情で、ただイヤーなものにしか見えなかった。それなのに、その世の中で生きて行かなくてはならないので、何だかどんな顔をしていいのかわからず、スットボケで毎日を過ごしていました。……それなりに努力していたはずですが、努力は足りなかった。
そんなある時に、啄木さんの歌を見つけます。
不来方(こずかた)のお城の草に
寝転びて
空に吸われし十五の心
という歌でした。三行書きの区切り方が違うかも知れません。「吸われし」は「吸はれし」でしょうか?
とにかく、啄木さんは盛岡中学(現在の盛岡第一高校)に入学して、ここで多感な青春期を過ごします。それを振り返ったときの歌でしょう。15歳の頃を思い出して作っているわけですね。ということは、これは回想・懐郷・惜春というのか、昔はよかった式の短歌かというと、そうではなくて、後悔となんともいえないやるせなさの歌なのです。
学校の授業をサボって、近くのお城に遊びに行く。そういうとんでもないヤカラが当時はいたのかもしれない。そういうのをついマネしてみたくなり、啄木くんも柄でもなく授業を抜けだしてみた。けれども、何をするあてもなくて、友だちと悪さをするわけでもない。
何もすることがないので、草の上に寝っ転がって、「オレは何をしているんだろ」と考えてみたりした。実際はそんなことはしなかったかもしれないけれど、したかもしれないし、とにかく、中学時代、自分は、停滞と前進を繰り返しつつ、何かに向かって、その何かもわからないままにいたよなあ、という反省と若さの尊さを歌ったのでしょう。もう十五のころには絶対に戻れない今、「何をしていたのだろう」という悔いはある。しかし、あの時はあんなふうにヤミクモに動き回るしかなかった。そうすることで何かが見えてくるはずだった。
啄木さんは、本当は、東大にでも入り、外国文学を研究しながら詩を書くとか、経済官僚をしたあとに引退後に俳句の世界に入るとか、もっと違う人生を生きられたはずでした。
それがどういうわけか、中学を卒業直前に退学させられてしまいます。ここから、小学校の代用教員、北海道の地方新聞の記者で函館・札幌・釧路をめぐり、1年くらいの移動の後、東京に出て、朝日新聞の校正係をしながら文学活動に励むのでした。とにかく、自分の作品を世の中に広めたいし、お金を儲けなくちゃいけない。漱石・鴎外とまではいかないけれど、とにかく大家になりたいし、そうした人たちからも認められているという自負もあった。
そんなこんなをみんなひっくるめて、十五の心をなつかしんでいる。あのころは何も見えていなかった。20代の今は世の中が見えているし、その世の中で自分は格闘しているという気持ちもこめてみた。そんな歌だと思っています。
かなり年上の先輩と啄木の話になって、私はこの歌はそんな深い歌じゃないだろうか。シンプルだけど、好きなんですと訴えました。
すると、先輩は、私はこれがいい作品だと思っていると、教えてくださったのが、次の作品です。
宗次郎(そうじろ)に
おかねが泣きて口説(くど)き居(を)り
大根の花白きゆふぐれ
私は、この歌の存在を全く知らなくて、ビックリしました。そして、啄木さんにこんな才能があったのかと、今ごろになって思ったりします。短歌ではお金にならなくて、やはり小説を書かないことには文壇でやっていけなくて、啄木さんにはそういうところに手を伸ばす才能を持っていたし、うまく切り取る力も持っていたのでした。
宗次郎さんとおかねさんがどういう関係なのか、女性の方からのアプローチって、当時としては珍しいだろうし、ここまでとこれからとどんな物語があるのか、とても気になるではありませんか。そういうのをいつか見せるぞと思いつつ、1シーンだけを切り取って見せた。それを先輩は感じてこれが1番だと教えてくれた。
ありがたいことです。もうこの先輩には長らくお会いしていません。年賀状も書いていないし、お世話になりっぱなしで、何もお返しができていません。反省してしまいます。今度、高速道路で会いに行かなくちゃと思ったりします。何かイベントがあるときに、行けたらいいかな。
啄木さんは、わりと素直に社会を変革していこうと思っていたのかも知れませんが、ひねくれ者の私は、世の中が不公平で、冷たく、何をしても受け入れてくれず、無表情で、ただイヤーなものにしか見えなかった。それなのに、その世の中で生きて行かなくてはならないので、何だかどんな顔をしていいのかわからず、スットボケで毎日を過ごしていました。……それなりに努力していたはずですが、努力は足りなかった。
そんなある時に、啄木さんの歌を見つけます。
不来方(こずかた)のお城の草に
寝転びて
空に吸われし十五の心
という歌でした。三行書きの区切り方が違うかも知れません。「吸われし」は「吸はれし」でしょうか?
とにかく、啄木さんは盛岡中学(現在の盛岡第一高校)に入学して、ここで多感な青春期を過ごします。それを振り返ったときの歌でしょう。15歳の頃を思い出して作っているわけですね。ということは、これは回想・懐郷・惜春というのか、昔はよかった式の短歌かというと、そうではなくて、後悔となんともいえないやるせなさの歌なのです。
学校の授業をサボって、近くのお城に遊びに行く。そういうとんでもないヤカラが当時はいたのかもしれない。そういうのをついマネしてみたくなり、啄木くんも柄でもなく授業を抜けだしてみた。けれども、何をするあてもなくて、友だちと悪さをするわけでもない。
何もすることがないので、草の上に寝っ転がって、「オレは何をしているんだろ」と考えてみたりした。実際はそんなことはしなかったかもしれないけれど、したかもしれないし、とにかく、中学時代、自分は、停滞と前進を繰り返しつつ、何かに向かって、その何かもわからないままにいたよなあ、という反省と若さの尊さを歌ったのでしょう。もう十五のころには絶対に戻れない今、「何をしていたのだろう」という悔いはある。しかし、あの時はあんなふうにヤミクモに動き回るしかなかった。そうすることで何かが見えてくるはずだった。
啄木さんは、本当は、東大にでも入り、外国文学を研究しながら詩を書くとか、経済官僚をしたあとに引退後に俳句の世界に入るとか、もっと違う人生を生きられたはずでした。
それがどういうわけか、中学を卒業直前に退学させられてしまいます。ここから、小学校の代用教員、北海道の地方新聞の記者で函館・札幌・釧路をめぐり、1年くらいの移動の後、東京に出て、朝日新聞の校正係をしながら文学活動に励むのでした。とにかく、自分の作品を世の中に広めたいし、お金を儲けなくちゃいけない。漱石・鴎外とまではいかないけれど、とにかく大家になりたいし、そうした人たちからも認められているという自負もあった。
そんなこんなをみんなひっくるめて、十五の心をなつかしんでいる。あのころは何も見えていなかった。20代の今は世の中が見えているし、その世の中で自分は格闘しているという気持ちもこめてみた。そんな歌だと思っています。
かなり年上の先輩と啄木の話になって、私はこの歌はそんな深い歌じゃないだろうか。シンプルだけど、好きなんですと訴えました。
すると、先輩は、私はこれがいい作品だと思っていると、教えてくださったのが、次の作品です。
宗次郎(そうじろ)に
おかねが泣きて口説(くど)き居(を)り
大根の花白きゆふぐれ
私は、この歌の存在を全く知らなくて、ビックリしました。そして、啄木さんにこんな才能があったのかと、今ごろになって思ったりします。短歌ではお金にならなくて、やはり小説を書かないことには文壇でやっていけなくて、啄木さんにはそういうところに手を伸ばす才能を持っていたし、うまく切り取る力も持っていたのでした。
宗次郎さんとおかねさんがどういう関係なのか、女性の方からのアプローチって、当時としては珍しいだろうし、ここまでとこれからとどんな物語があるのか、とても気になるではありませんか。そういうのをいつか見せるぞと思いつつ、1シーンだけを切り取って見せた。それを先輩は感じてこれが1番だと教えてくれた。
ありがたいことです。もうこの先輩には長らくお会いしていません。年賀状も書いていないし、お世話になりっぱなしで、何もお返しができていません。反省してしまいます。今度、高速道路で会いに行かなくちゃと思ったりします。何かイベントがあるときに、行けたらいいかな。