萩原慎一郎さんの『滑走路』という歌集からいくつか抜き書きをさせてもらいました。その三回目です。よろしくお願いします。
若者である自分を見つめ、何とか社会を変えていこう、世の中に関わりたい、でも簡単には世の中は変わらない。どうしたらいいんだろう。そのもがきみたいなものを感じさせる作品がいくつもありました。
箱詰めの社会の底で潰(つぶ)された蜜柑のごとき若者がいる
コピー用紙補充しながらこのままで終わるわけにはいかぬ人生
息苦しい毎日を過ごしていたのかもしれません。都会で暮らすということは、毎日を自然に悶々と暮らさねばなりませんでした。仕事場も、通勤も、人間関係も、買い物も、どこかにふらっと出かけても、いつも誰かの目線があって、無関心なんだけど必ず見られているのです。
そして、その社会に働きかけようと思ったら、たくさん説明しなきゃいけないし、汗もかいてしまうし、どうしてわかってくれないんだろうというもどかしさをいっぱい抱えることになるのでした。
そんな毎日の中で、未来は見えなくて、とにかくこな毎日ではダメだというのだけがわかる。だったら、その日々からどのようにして抜けだすのかですけど、答えは全く見つからないのです。
この列はなんの列かと思ったらシュークリームの列だったのだ
息苦しさはなおも続きます。人が列をなしているから、どんなことが起きるのか、自分はその列に加わるべきなのか、何も知らされていない自分は不安になります。そして、列をたどっていくと、それは行列のできるお店のシュークリーム店だった。それは他愛もないことです。でも、その意味の分からなさを私たちはいつも抱えている。
行列ができていたら、大抵は自分に関係のないことなのです。ちゃんとその行列のわけを知ってたら、「ああ、あそこのお店のお客がこんなに並んでいるのだ」で済んでしまいますが、ゲリラ的にあちらこちらにあると、「これは何? この行列の理由を知らない私は、本当にそれでいいの?」という不安材料にしかなりません。
すべて、人は無意味なことに行列して、何も得られないまま時間を無駄にしているのだ、そう思えたらいいけど、残念ながら私たちは達観できなくて、これを知らない私は不幸せ、という判断に傾いてしまう。
おそらくはコンビニエンスストアにも前身ありて今の形に
町は、どんな風に見えるものなんでしょう。今ここにあるいろんな建物・お店、まるでずっとあるように見えるけれど、それはずっと前からそうだったわけではなくて、いつも何か変化させられてきて、今はたまたまそんな形になっているだけでした。
コンビニは、当然前身がありました。酒屋さんであったり、八百屋さんであったり、パン屋さんだったり、経営者が変わったり、権利を他の人に譲ったり、いろんな変遷があったでしょう。
停留所に止まってバスを降りるとき月面なのかもしれず
バスを降りるとき、当然そちらに用事があるから、そこで降りるのです。自分の家があるかもしれず、友だちの家、何かの用事、遊びに来た、いろんな事情がある。
でも、そこは本当に地球なのか。知ってる場所なのか。全く誰もいない、空気のない、ものすごく暑い、宇宙空間なのかもしれない。
たぶん、バスが走っているんだから、宇宙空間ではないだろうけど、気分としては月面に降り立つ宇宙飛行士の気分なのかもしれない。危険はいっぱいなのです。
そんなことを考えてたんですね。降りる口は、あんなに狭くしてありますもんね。あそこだけは宇宙船のハッチみたいな気がしてもおかしくなかったんだ。