パソコンを開いて、インターネットを見てみると、ニュースの項目の中に「京アニ」関連のニュースが二つもありました。私はたぶん見ないので、世の中の人が見ているということなのかな。それとも、私向けのニュースなんだろうか(だったら、むかついちゃうな! まさかね……。)
私たちは、ネット社会の仕掛け人やネットの裏側のシステムから、巧みに誘導されて、自分たちの世界を広げるといううたい文句に載せられて、いつの間にか自分の世界を限定してしまっている気がします。どんどん広げているつもりが、どんどん狭くなっていくなんて、なかなか象徴的ではあります。
私は、もちろん、偏屈でつまらない世界の中に自然に閉じ込められています。私と同じように、世の中のかなりの人たちも、自分の「おもしろい」を追求していった先に、とんでもないつまらない世界にたどりつくのでしょうか。
できれば、そういう誘いから逃れ、もう少し幅の広い偏屈さを探していかなくてはなりません。なかなか難しいことではありますが、自分らしさをキープするために、ネットから距離を置いて、自分らしさを築かないといけないです。本を読んだり、映画館に行ったり、一人旅に出たり、家で昼寝したり、庭の草抜きをしたり、がむしゃらにネットを拒否しないといけないな。
どうしたらいいんでしょうね。とりあえず、ワナに陥らないようにしたいです。ワナだと気づいたら、すぐに飛びのくことにします!
私たちは、思い入れの中に閉じ込められていて、それはいつ暴発するのかわからない。そういう危なっかしさを抱えて生きていくのだ、というのを昨日書きました。
書いていて、実はそういうのを、高校生の時に習ったなと思っていました。でも、昨日は書きませんでしたけど、今日、ついでだから、書いてみます。本を取り出してみます。
中島敦さんの『山月記』に、そのセリフがありました。自らのもう一人の個性、コントロールできない、危なっかしい個性にについて、トラになった主人公が語っていました。
人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが、各人の性情だと言う。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これがおれを損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、はては、おれの外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。
トラは、自らでコントロールしかねる激しい気持ちを意識していました。自分を大切にするあまり、自らの気持ちをふくらませもするし、時には抑え、時には爆発させ、適当にガス抜きをしながら、自分というものの使い方みたいなのを覚えるのが、大人としての作業であったのです。でも、若い時は、たいていが暴走するのです。
主人公のトラになった男は、自分は、特に自己顕示欲が強い癖に、人から避難されるのが絶対に許せないプライドの塊でもありました。
自分の自慢作品を見てもらいたい。けれども、他人からの賛辞はいいけど、非難は受け付けられないし、非難されたら、プライドが許さない。かくして、人に知られたいのに、知られないままに悶々としていて、爆発したのだと語るのでした。
私たちは、誰もが自らの中に猛獣を抱えている。その猛獣をどんなふうにつきあい、どんなふうに他人にそれを見せていくのか、見せる場面があるのか、なるべくなら、「あらら、あの人なあんなことして」と時には後ろ指をさされることをしなくてはいけないのです。
それができない人は、いつか、どこかで爆発するのです。
自らの思い入れなんて、実につまらないものなのだというのを、他人に見せて、非難されてせいぜい挫折しなきゃいけないのでしょう。
今の若い人は、とりあえず、挫折は嫌いですね。親も、できたら、子どもは挫折させたくないと、安全な道ばかり通らせようとしているのかな。
昔から、人は、どんなふうにして自らの中にある危なっかしいものとどう付き合うのか、というのは作家さんたちも取り上げ、みんながそれを理解してきたのだと思います。
文学は、自らのとんでもないことをむき出しにして見せてくれるから、そこが大事だったんですけど、経済優先・効率第一・百歳勤労・終身労働という社会の中では、甘っちょろいことのように思われるのでしょう。そんなことに悩むより、金を稼げ、死ぬまで働け、ということなのかな。
これから、自らの猛獣を御しかねる人たちは、延々と続くでしょう。私たちはそれを許してしまう社会に生きているのですから。