日日の幻燈

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【note】服部半蔵の墓から壮大な妄想へ

2015-04-12 | 江戸の面影

【西念寺山門】

黒装束に身を包み、闇に紛れて江戸をゆく…伊賀忍者・服部半蔵。
その半蔵の墓があるということで、行ってきました。
東京・新宿の西念寺(浄土宗)。
ここは半蔵が開いた寺なので、そのままそこに葬られたということですね(半蔵が亡くなったときは今とは別の地にありました)。そもそもは、徳川家康の長男・信康の供養のために1594年に建てた庵がはじまりなのだそうです。
西念寺一帯は、江戸時代には伊賀町と呼ばれ、伊賀衆の組屋敷があったのだとか。忍者のにおい濃厚ですね。その辺の路地から見張られていたりして。

【西念寺本堂】

住宅地の中なので、於岩稲荷みたいに狭いのかなと想像していましたが、思っていたよりも広い境内でした。半蔵は信康の菩提を弔うため出家し西念と号しました。西念寺とはこの法号からとったそうです。
寺が江戸城拡張のため、それまであった麹町からこの地に移されたのは1634年。その後、太平洋戦争で戦災にあい、本堂は戦後に再建されたものだそうです。
境内には徳川信康の供養塔があるとのことでしたが、たどり着けませんでした。そうそう、半蔵が使っていた槍も保存されているのだとか。お願いすれば見学させてくれるのかな?

【服部半蔵の墓】

そして目指す半蔵の墓。
山門から本堂を左手に奥へ進んでいくとすぐ。案内板も建てられているのでわかりやすいです。


【服部半蔵肖像画】

さて、服部半蔵と言えば忍者の代名詞みたいな存在。
でも、なんか実際は違ったみたいですね。肖像画だって忍者らしくないし。調べてみると、忍者というよりもれっきとした武将。家康に仕え徳川十六神将のひとりに数えられているほど。
「半蔵」とは、服部家の当主が代々受け継いで名乗った通称のようなもの。普通、私たちが服部半蔵といってイメージしているのは、この家康に仕えた服部半蔵正成のことです(たぶん、みんなそうだと思います)。
彼は伊賀者からなる同心(伊賀同心)の差配を任せられています。江戸の治安を守る警察の長って感じでしょうか?
この半蔵正成、江戸時代に入る前の1596年に亡くなっています。服部半蔵…江戸時代のイメージだけど、やはりそこは史実とは違うんだ。それとも、私は誰かと混同しているのかな?


そして正成亡き後、服部家はどうなったか?

正成の後を継いで半蔵を名乗った長男の正就(まさなり)は、伊賀同心に対しての尊大な振る舞いが彼らの反感を買い、同心支配を罷免されたそうです。伊賀者たちにクーデターを起こされ失脚したと。さらに大坂の陣で行方不明に。

正就が江戸を去った後、あとを継いだのは弟の正重(まさしげ)。
しかし、これまた大久保長安事件に巻き込まれて失脚。各地を転々として、最終的には桑名藩(今の三重県桑名市)の松平家に仕え、子孫は幕末まで代々家老職にあったとか。

兄・正就は伊賀者にそっぽを向かれ、挙句の果てに行方不明。弟・正重はわけのわからない大久保長安事件で失脚し桑名へ。
う~ん…ほんとうに行き方知れずや失脚だったのかな?

さあ、壮大でいい加減な歴史妄想スタートです。

正就は戦死を装って、実は隠密として各地の情報を密かに探る役目を与えられていたりして。お、なんか父半蔵より忍者っぽいぞ。
正重は徳川一門の桑名藩で西国の動きに目を光らせていた。
伊賀者の反逆も偽装。
大久保長安事件での失脚も偽装。
桑名と伊賀は地理的にも近いし…。

なんていうのは、どうでしょう?
服部半蔵隠密大作戦が、勝手に頭の中をグルグルしているのでした。


【半蔵門】

半蔵門。
服部半蔵の屋敷が門前にあったから名付けられたとか。江戸城の城門で個人名が城門についているのは、もちろんこの半蔵門だけです。
日本橋を起点にする甲州街道は、江戸城を半周してこの半蔵門に至り、ここから一路、新宿~八王子~甲府へと向かいます。江戸に危機が迫ったときは、将軍はこの甲州街道を甲府へ向かうことになっていたとか。

【甲州街道】

そして、この街道沿いに伊賀同心の屋敷地があり、半蔵の墓所・西念寺があります。家康の伊賀越えの案内役を務めた伊賀者たちに、いざという時、同じような働きを期待したのでしょうかね。

ニンニン。





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