歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈





■黄金の日日
■城山三郎
■1978年
■新潮社

戦国・安土桃山時代の堺の商人・呂宋助左衛門が主人公。

「戦国の争乱期、南蛮貿易によって栄える堺は、今井宗久。千利休ら不羈奔放な人材によって自治が守られ、信長や秀吉たちもその豊かな富に手を出すことができなかった。今井家の小僧、助左衛門は危ない仕事を何でも引きうけることで戦国武将たちの知遇を得、大船を仕立てて幾度か呂宋(ルソン=フィリピン)に渡り巨利をなす。-財力をもって為政者と対峙し、海外に雄飛していった男の気概と夢」(背表紙解説より)


大河ドラマ「黄金の日日」の原作。この大河で三成に出会った私にとって原点ともいうべき1冊です。
今回、久しぶりに読み返してみましたが、大河版と城山版で随分と人物設定に違いがあるのに驚きました。前に読んだときは気にならなかったのかどうか…そこまでは覚えていないのですが。
主人公助左衛門はまぁ良いとして、その脇を固める登場人物。

いつも助左衛門とつるんでいた鉄砲の名手・善住坊。
大河では、気が弱くて、お人好しで、愛嬌たっぷりで、癒し系って感じ。騙されて信長を狙撃し鋸引きの刑に処せられますが、その最期の場面の助左衛門とのやりとりは、涙を誘う物語前半のクライマックスのひとつでした。
ところが城山版では、無口な狙撃手。ハリウッド映画に出てきそうな大物を狙うスナイパー。そんな描かれ方。しかもとくに活躍の場が描かれるでもなく、序盤に早々に退場。助左衛門も人伝に善住坊の処刑を聞いたにすぎないのでした。

助左衛門と行動を共にするもうひとり、石川五右衛門。
大河では、ダンディで、ニヒルで、冷酷で、でも心の奥には自ら殺めた恋人モニカのことなど、苦悩を背負って生きている。伏見城に押し入り釜茹での刑に処せられる最期の場面。モニカに導かれるように青い空に解放される五右衛門の表情には、幼いながらもぞくぞくしたのを覚えています。
そんな五右衛門が城山版では…戦場へ金目のものを略奪に行っては腰を抜かして動けなくなり、その都度助左衛門に助けられるというていたらく。人を信じないというのは大河と同じですが、城山版では威勢のいいことを言う割には肝心な時に役に立たない、どこか愛嬌のある町のチンピラ風な描かれ方。ああ、五右衛門のイメージが…。

大河と城山版で最も人物設定が違うのが今井兼久(宗薫)。
大河では、ことあるごとに助左衛門と対立し、邪魔立てをし、ネチネチと虐め抜く、陰険な憎まれ役。偉大な父・今井宗久の子としての重荷と反抗心からグレてしまう人間ぽさもあったものの、物語の中では完全な敵役。
そんな彼なのですが、城山版では助左衛門の旧主としていろいろと相談に乗ってやりアドバイスしてやるという、仲間うちといった設定。これはあまりにもギャップが大きすぎる。
きっと大河では秀吉以外にも敵役を探す必要があったのでしょうね。しかも、秀吉は前半は好人物で、天下人になるにつれてイヤ~なじいさんになっていくという設定から、物語前半の敵役が他に必要だったのかと。そして白羽の矢が立ったのが兼久。損な役割を与えられてしまったわけですね。あくまで想像ですけど。

さて我が三成。
大河での颯爽とした三成と、ほぼ同じような描かれ方をしています。主人公の暴走ぶりをあえて見逃してやり、ピンチになると密かにバックアップして救ってやるという、物語には欠かせない保護者的な存在。大河もほぼこの設定に沿いつつも、ガラシャとの叶わぬ淡い恋などオリジナルを加えて、さらに三成の人間ぽさを出しています。どちらかというと無感情的な描かれ方をすることが多い三成なので、こういう色恋沙汰の味付けも新鮮だったりします。


原作とドラマと、そのギャップからどっちが好きだとか嫌いだとか、よく論争になっていたりしますが、この「黄金の日日」に関しては人物設定に違いがあっても、両方ともOK!的な私なのでした。


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