湯のたび

のんびりと全国の温泉廻を楽しみたいものです

塩浸温泉

2007-10-11 17:45:23 | 国内旅行
天降川沿に龍馬・お竜が入ったという露天風呂が川べりに今も残っている


お竜の生涯

龍馬は慶応元(1865)年9月9日、乙女とおやべ宛てに長文の手紙を書いている。禁門の変が起き、京都は焼かれ弟妹は四散、売られようとした妹を救出するお竜の雄婦ぶりを描き、「右女ハまことにおもしろき女」「私のあよふき時よくすくい候事どもあり」「名はお竜と申、私しニにており候」と知らせ、「乙大姉の名諸国ニあらハれおり候」と乙女を持ちあげて帯や着物をつかわして下さい、とねだっている。慶応2(1868)年1月、薩長同盟成立後に起きた伏見寺田屋事件では、入浴中のお竜は風呂から飛び出して注進し、薩摩屋敷にも急を知らせるなど、龍馬の危機を救う働きしている。
同年3月、小松・西郷らの勧めにより、薩摩へ新婚旅行に出発し、霧島温泉や高千穂の峰に遊び、負傷の治療をかねて日本人初の新婚旅行を味わう。
美人で花を生け香をきき茶の湯を致す教養を持ち、気丈な男勝りの京女は、海援隊士らに「姉さん」と呼ばれたが、土佐藩大監察佐々木高行は日記に「有名ナル美人ノ事ナレ共、賢婦人ヤ否ヤハ知ラズ、善悪共ニ為シ兼ネル様ニ思ヒタリ」と表している。
龍馬の没後しばらくは、三吉慎蔵の世話になり、明治元年、龍馬の高知の実家に迎えられた。
だた、一年ほどで京都に戻り、龍馬の墓のかたわらに庵室を結んだ。お竜が土佐を去るとき、たくさんあった龍馬からの手紙は、この手紙は人に見せたくないからと、すっかり焼いてしまったようだ。
やがて西郷らを頼って東京に出、明治8年に旧知の大道商人西村松兵衛と再婚し、西村つると名乗り、晩年は横須賀三浦郡豊島村の観念寺裏長屋で夫とくらし、貧窮の中で、明治39(1906)年に没している。享年66歳。
墓は(龍馬の有志人々により)神奈川県横須賀市大津3丁目信楽寺(しんぎょうじ)門前に「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とある。


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4 コメント

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アムロィきます!!! (ェロアムロ)
2007-10-15 00:44:10
ガンオタの性処理は今や此れ!!!

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ぶっかけるだけで… (ざーめん)
2007-10-22 04:18:55
ココぶっかけるだけで喜んでくれるって嬉しくね?wwしかも大量だったから今後も含めて5まんの上乗せwww

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あっちっちっ (ちゃっち)
2007-11-04 22:47:51
あちゃ~!!セックス3発したら18万もらえたw一発6万計算www71
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うほっww (小次郎)
2007-11-11 23:47:31
昨日筆下ろししたけど、まじクリ○リスってすごいよwwち○んこと同じだwww29万のところ30万にしてもらえたし今おれ絶頂期!?ww

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