![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/f5/8243ae14d6e28c453000957be85aa1fa.jpg)
右手に上が三角形の木の立札があり「贈 新河岸 河岸場跡」と書かれている。
その下に「川越中央ライオンズクラブ 二十五周年記念植樹」とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/d6/fdc5f63f8ec47653ffc7e8de70336bf3.jpg)
その脇に石柱で囲われた中に、石碑と説明板が建てられている。
説明板にはつぎのように書かれている。
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市指定・史跡
新河岸川河岸場跡
新河岸川舟運の歴史は、寛永十五年(一六三八)
川越仙波にあった東照宮が火災で焼け川越藩がそ
の再建用資材を江戸から運ぶのに新河岸川を利用
したことに始まるといわれる。
翌寛永十六年、川越城主となった松平信綱は、
もと内川といった荒川の支流、新河岸川を本格的
に改修、水量を確保して川越―江戸間の舟運体制
を整えた。旭橋を中心に、上新河岸、下新河岸、
扇河岸、牛子河岸、寺尾河岸の五河岸沿には船問
屋商家が軒を並べ、さらに下流には古市場、福岡、
百目木、伊佐島、本河岸、前河岸、志木河岸、宮
戸河岸などが開設され明治維新まで繁栄が続いた。
当初は川越藩の年貢米運搬が主だったが、後一般
商品も多く運ばれるようになり(江戸行―醤油・
綿実・炭・材木、川越行―油・反物・砂糖・塩・
荒物・干鰯等)舟運を更に発展させた。
現在も周辺には元禄年間の「そうめん蔵」や水
上宮、また明治三年建造の船問屋伊勢安の店構え
などがあり、往時を偲ばせている。
昭和五十五年十一月
川越市教育委員会
旭橋は直ぐ傍にある。
片側1車線で両側に歩道がある広い橋である。
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橋の上から下流側を見ると、蛇行しながら流れている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/9b/e98163b1c667a16aa40ecc40ea2a1aa8.jpg)
少し駅の方へ戻り左折すると、右手に船問屋伊勢安の建物がある。
以前はここに火の見櫓があり分かりやすかった。
これは往き過ぎてから、振り向いて撮った。
NHKのブラタモリでも紹介された建物である。
何年か前、ある会に参加していたとき、内部を見学させて頂いたこともある。
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伊勢安の前から新河岸川が見える。
道路の下は石垣があり落ち込んでいるが、その先を見ると土手の石段が見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/ac/94a4cc7dba0a1a5d01011cd101ca80a6.jpg)
久しぶりに来てみたが、ほとんど景色は変っていないように感じる。
変っていたのは、石碑と説明板の周囲の木が大きくなっていたこと位である。
→川越舟運(新河岸川舟運)