川越雑記帳2(川越見て歩き)

舟運の賑わいいずこ河岸場跡/伊勢安ながめ往時を思う(新河岸川河岸場跡)

東武東上線の新河岸駅から新河岸川へ向うと、旭橋の手前右側にヤナギなどが植えられている。


右手に上が三角形の木の立札があり「贈 新河岸 河岸場跡」と書かれている。
その下に「川越中央ライオンズクラブ 二十五周年記念植樹」とある。


その脇に石柱で囲われた中に、石碑と説明板が建てられている。
説明板にはつぎのように書かれている。

市指定・史跡
 新河岸川河岸場跡
 新河岸川舟運の歴史は、寛永十五年(一六三八)
川越仙波にあった東照宮が火災で焼け川越藩がそ
の再建用資材を江戸から運ぶのに新河岸川を利用
したことに始まるといわれる。
 翌寛永十六年、川越城主となった松平信綱は、
もと内川といった荒川の支流、新河岸川を本格的
に改修、水量を確保して川越―江戸間の舟運体制
を整えた。旭橋を中心に、上新河岸、下新河岸、
扇河岸、牛子河岸、寺尾河岸の五河岸沿には船問
屋商家が軒を並べ、さらに下流には古市場、福岡、
百目木、伊佐島、本河岸、前河岸、志木河岸、宮
戸河岸などが開設され明治維新まで繁栄が続いた。
当初は川越藩の年貢米運搬が主だったが、後一般
商品も多く運ばれるようになり(江戸行―醤油・
綿実・炭・材木、川越行―油・反物・砂糖・塩・
荒物・干鰯等)舟運を更に発展させた。
 現在も周辺には元禄年間の「そうめん蔵」や水
上宮、また明治三年建造の船問屋伊勢安の店構え
などがあり、往時を偲ばせている。
 昭和五十五年十一月
              川越市教育委員会

旭橋は直ぐ傍にある。
片側1車線で両側に歩道がある広い橋である。


橋の上から下流側を見ると、蛇行しながら流れている。


少し駅の方へ戻り左折すると、右手に船問屋伊勢安の建物がある。
以前はここに火の見櫓があり分かりやすかった。
これは往き過ぎてから、振り向いて撮った。
NHKのブラタモリでも紹介された建物である。
何年か前、ある会に参加していたとき、内部を見学させて頂いたこともある。


伊勢安の前から新河岸川が見える。
道路の下は石垣があり落ち込んでいるが、その先を見ると土手の石段が見える。


久しぶりに来てみたが、ほとんど景色は変っていないように感じる。
変っていたのは、石碑と説明板の周囲の木が大きくなっていたこと位である。

川越舟運(新河岸川舟運)

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