川越雑記帳2(川越見て歩き)

26-2 石川源五右衛門の墓



 「もとの道を南進する。三〇〇㍍ほど行くと「今福」の交差点だ。」
 神社前から少し平坦部があるが、すぐ下り坂になる。坂を下りたところの信号が「今福」の交差点である。



 「そこを左折するとすぐに砂久保橋がある。」
ガソリンスタンドの角を鋭角に左折する。
そのすぐ先が砂久保橋だが、柵があり右折する迂回路が出来ていた。
どうやら橋の架け替え工事が行われているらしい。



「近くに石川源五右衛門の墓がある。将棋の盤の上に墓石をのせた格好の一風変わったものだ。」
 柵の置くを見ると、重機の右側、木の手前に墓石のようなものが見えた。



 アップにして見ると、大きな四角い石の上に他の石が立っている。
元はどこにあったか分からないが、掘り出したらしく、綺麗な四角の下にコンクリートのようなものが付いている。
これが石川源五右衛門の墓かどうかは、立ち入り禁止なので確認できなかった。
架け替え工事の終了を待つしかないと思い諦めた。

 「慶応二年(1866)川越藩が農兵隊を設置しようとした時、砂久保村はじめ川越南部の村々一一ヵ村が反対して立ち上り、江戸赤坂溜池にあった川越藩主の屋敷へ直訴しようとしたところ、白子宿(和光市)で川越藩主に見つかり、連れ戻されて牢に入れられるという事件があった。いわゆる農兵反対一揆である。これによって川越藩は農兵隊設置をあきらめた。石川氏は砂久保村の総代だったが、罪を一身にひき受けてほかの仲間を釈放させた。しかし彼は、藩主松平大和守が前橋へ知行替になったので、その地に移されて幽閉、許されたのは明治元年(1868)のことである。後に訓導になって教鞭をとった。また将棋も得意だった。現在でも、自分を顧みず闘った石川氏の遺徳を偲んで墓を訪れる人が多い。」

 「散歩」の著者新井博氏は、今福の沿革史を書いているので、他の地区に比べて、解説が格段に詳しい。

 ・「川越市今福の沿革史」

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