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気ままな生活 一枚の写真

一枚の写真からプログが始まればと思っています。

札幌建設

2008-07-23 06:10:59 | 昔話
ブログの更新もせずひたすら札幌の歴史にのめり込み
気がつくと北海道(石狩平野)の地形まで行き着いてしまいました。
小出しながらもUPしていきます~
1868年明治維新 江戸時代から新たな時代へと変わるころ
北方政策で北海道(まだこのころ蝦夷と呼ばれていました)が
はっきりと日本の領土であることを示すためにたくさんの人を定住させる必要性から
北海道開拓時代が始まりました。
1869年(明治2年)7月8日開拓使を設置します。
(そのころは札幌はありません~)当然私の田舎もそうですが
そして初代長官に鍋島直正、判官に島義勇・岩村通俊らが任命され、
石狩辺に本府を置くことになった。(正確な位置もまだ未決定)
この時・蝦夷を北海道と改め(名付親は松浦武四郎)、
11カ国85郡を置くことにしたそうです。


北海道十二カ国八十六郡明細図(明治2年) 12ヶ国? 青森が記載だから?
このころの石狩平野の川は左側
 
明治初めのころを描いた図を見つけました~
今と違い直線に流れるの場所がほとんどありません~
創成川は1865年(慶応2)大友亀太郎は堀を開削したのが始まりですから
元々は右の図になります

豊平川は、アイヌ人にサッポロ・ペツと呼ばれ、これが札幌の語源である。
江戸時代まで、札幌中心部付近で北に折れて現在の伏籠川の川筋をたどり、
石狩川に注いでいたが、洪水で流路を東に転じたそうです。
札幌の中心部は、豊平川が暴れまわった結果できた扇状地です。

扇状地は札幌駅があるあたりが、扇端(せんたん)で標高20メートル、
真駒内の豊平川さけ科学館が標高80メートル。
この間の直線距離が8キロメートル。

札幌駅や大通公園のある扇端部分は、扇状地が終わり、氾濫原につながるところ
この辺りで、先住者のアイヌたちが「メム」と呼んだ、湧水が至るところにありました。
この様子を見て
松浦武四郎も安政三年に時の函館奉行の竹内、堀、村垣の三名に意見書を呈し
札幌豊平付近が首都の適地であると述べている。
次回につづく