気ままな生活 一枚の写真

一枚の写真からプログが始まればと思っています。

はまなすの丘

2009-06-15 05:53:08 | 写真
よく行く石狩浜を北へ走ると
石狩灯台がありそこから石狩川河口までの地域は
石狩川の流れが運ぶ土砂と日本海からの波が運ぶ砂とが堆積してつくられた
砂嘴(さし)があります
この地域は、強風のため背丈を低くしたハマナスが、砂丘を覆う光景が見られ、「はまなすの丘」と言われていました。
6月いよいよ「はまなすの丘」の名のとうりの時期を迎えました
6月に入り天候が悪く晴れた日が続きませんが一度はと思い行ってみました~
  
ハマナス
  
イソスミレ???
遊歩道を歩いていると突然
  
鳥が飛び立ち逃げるわけでもなく上空で羽ばたいています
しばらく動かないでいると疲れたのか
  
降下してきて目の前に 思わずシャッタ-を切りました!
鳥の名前は判りませんが、仲間を逃がす為の行為らしいです??
  
ノビキタ も見られました~
鳥類は目こらして草木をよく観察しないと撮影はできないのですが今回

形状の違うものが微かに動いているのを見つけシャッタを切りました
拡大してみると

遊歩道からの撮影ですので位置関係に限度があり裏側から
撮影できませんでしたが、鳥類でなさそうです???
しばらくして降りていきました
なんだったのでしょうか?(動物???)
画像 2009-06-13 はまなすの丘





エゾリスを追って 6月

2009-06-12 00:26:27 | 写真(動物)
久々に訪問
  
神宮内は夏祭りの準備        小川では小鳥が水浴び
しばらく天候が悪い日々が続いていましたが朝天気がよく日差しが強い!
と9時ごろ出かけて見ました
  
人馴れした子リス 人の手にある餌を狙っています
  
一方円山遊歩道では
  
シマリス君登場
  
画像 2009-06-09 円山

道南ドライブ記⑤~夷王山墳墓群~

2009-06-04 17:10:10 | 写真(風景)

夷王山の麓
勝山館跡の調査では、偶然だったそうで、その初期にごみ捨て場を掘り
その中から大量に骨角器が出てきたそうです。
勝山館跡の後方、夷王山の麓に、6カ所にわたって650
余りのお墓があり、「夷王山墳墓群」と呼んでいます。
墓の作り方にいくつかの違いのあることが分ってきたそうです
 
Ⅱ‐125号                 Ⅱ-136 号
Ⅱ‐125号
墓は浅い丸い穴の中で遺体の入った棺を焼いて、そのまま骨ごと埋めたのだろう。
Ⅱ-136 号
墓というのは十文字に浅い溝を掘って、その上に薪を積んでさらに棺を置き、火葬したらしい。
径30 ㎝ほどの穴の中から火葬骨がまとまって出てくるお墓がありました。
今と同じように火葬をした後で骨を拾い集めて埋葬する、そういうようなこともやっていたようです。

 
Ⅱ-5号墓、14 号墓          ガイダンス施設周り墳墓
これらはみな、体を折り曲げて棺の中に入れて、北枕にして葬った土葬のお墓です。
中に赤い漆塗りのお椀や皿、お金を添えております。
中には硯が入っていたり、釣り針、毛抜き、あるいは数珠が入っていたりするものもあります。
副葬品はさまざまですが、基本的にはお金と漆器を添え火葬ないしは体を折り曲げて
北枕で埋葬するという、仏教を信仰する人たちのお墓であると考えられます。
これらの墳墓群は勝山館を築き道南地区の統一を目指した一族や中世の上の国の人たちでしょ
 
Ⅰ‐98 号墓                     Ⅱ-3号墓
Ⅰ‐98 号墓
太刀が2本、小刀が真ん中と南西隅の方に一本ずつ、それから漆器が2つありました。
それから、二人分の歯が残っていました。北側の方は残っていたのは歯だけでしたが、
南側の方は、土の違いから頭や顔の形を掘り分けることができました。
ちょうど耳のあたりに丸い輪がある。
玉がついていて、いわゆるニンカリと呼ばれる耳飾りをつけていることがわかります。
これらはどうもアイヌの人の墓、少なくとも江戸時代のアイヌの墓と作り方としては
全く同じだと言った方がいいと思われるそうです。
Ⅱ-3号墓
体を折り曲
げて棺の中に入れて、北枕にして葬った土葬のお墓です。
ここでは
函館の近郊に駒ヶ岳という山があり、この山は1640 年に噴火して降灰がありました。
ここ上ノ国にも、記録があり、遺跡などを発掘した時に、それが下から出てきので、
この墓は1640 年という噴火の年よりも前のものとわかります。

勝山館が機能していたのはおよそ1470 年から1600 年ですが、
それより前の時代のアイヌの墓ありまた
勝山館の中にいた人たちを葬った墓地の中にも、アイヌの墓がある。
、寛文9年のシャクシャインの蜂起のことを記録した津軽藩の記録に、
上ノ国には家が140~150 軒あるが、蝦夷もいた。つまりアイヌも一緒にいたと
いうことになります。
*上記の写真は勝山館ガイダンス設備内の展示物
ガイダンス施設の真下にある墓をそのまま型取りしたレプリカです
時間があればゆっくり見学が出来るころでしたが・・・・・・

追記 2009-06-04 17:00
「和人地」に見るアイヌ文化として 上ノ国町教育委員会のかたが
発掘内容の発表をおこなっております
アイヌ文化振興・研究推進機構 平成18年度セミナ-
もしくは 「和人地」に見るアイヌ文化 で検索していただくと出てきます

画像 2009-05-05 上の国


道南ドライブ記 ④  ~上ノ国~

2009-06-02 21:07:54 | 写真(風景)

道南ドライブも目的だった江差、観光も終わりましたがまだ昼前!
もっと南下しようと車を走らせました
 
道の駅 「もんじゅ」 でトイレタイム
 
                       上の国町
道の駅で「上の国町」の観光情報を入手
 
夷王山(いおうざん)標高159m       上ノ国町市街地
山頂には鳥居が置かれており、1457年のコシャマインの戦いでコシャマインを討ったことで
知られる武田信広を祀る「夷王山神社」がある

 
勝山館跡ガイダンス施設                上ノ国三館
 
勝山館の模型                道南12館
ここで歴史に時間となりました時代はなんと中世時代へ.遡ります~

上ノ国は北海道で最も早い時期に和人が定住した地であるとされる。
1189年、源頼朝が奥州の藤原氏を攻めた際に、糠部や津軽の人々が上ノ国付近まで逃れた
そのころの蝦夷は
渡党、日の本、唐子の三種に分かれ、渡党は髭が濃く多毛であるが和人に似ており
言葉が通じ、本州との交易に従事したと記載されている。
また津軽地方を中心に西は出羽国秋田郡から東は下北半島までを領した豪族安東氏)である。
鎌倉中期頃から北条氏宗家(得宗)の被官(御内人)として
蝦夷の統括者(蝦夷沙汰代官職)に任ぜられ、鎌倉時代末期から南北朝時代を通し
津軽十三湊を本拠地とし栄えたが
 室町時代に入ると下国(しものくに)と上国(かみのくに)の二家に分かれ対立したと見られ
上国家は出羽小鹿島や出羽湊(現秋田県秋田市)を領し、後に秋田郡を制して秋田城介を称し
下国家は津軽十三湊を領したが11443年に南部義政にせめられて蝦夷地に逃げ込んだ
又一部は出羽に移り檜山(現秋田県能代市)を中心に出羽最北部西半から蝦夷地南部を領
 安東政季は1456年までに12の部下を道南各地の小領主として砦を築いて配置
この砦は「館」(たて)と呼ばれ、これが一般に「道南12館」と呼ぶ

このとき函館の周辺は「下之国」、上ノ国や江差の周辺は「上之国」と称された。
これが町名の由来である。
457年にアイヌのコシャマインが館を次々と襲って攻め落としていったのです。
道南にあった12ほどとされる館は陥落していったものの、最後に残った2つのうち一つ、
それが花沢館でした。
そこで若狭国からやってきていた武田信広はコシャマインを討って反乱を抑えました。
この功績により、蛎崎家の婿になり新居として、洲崎館を築きました。
 武田信広は徐々に権力を握り、北海道西海岸の交易権を手に入れたことで、
新しく拠点として「勝山館」を築きます。   *館の位置関係は上記上ノ国三館参照
勝山館跡ガイダンス施設 で中世の歴史を再度見直すこことなりましたが
もう一つありました! 「夷王山墳墓群」
これは 次回に
画像 2009-05-05 上の国町