今日、小泉首相が靖国神社を参拝した。
この人は政治家としてどういうバランス感覚をしているのだろうか?
なぜ、千鳥ヶ淵の戦没者墓苑ではいけないのだろうか?
そもそも、靖国神社は先の大戦を自衛の為の戦争といまだに位置づけている。
すなわち大東亜戦争という考え方。
たしかに、日中戦争の行き詰まりから日本の孤立化、そして追い詰められての対米戦争へという考えからするとそういう考え方もできるかもしれない。
開戦を決定した当時の政府首脳も戦争へは踏み切りたくなかっただろうし、日本は5.15事件、2.26事件以来軍部の独走へとつながり、満州事変や盧溝橋事件などは関東軍の独断で行なわれ政府も軍幹部も事後容認という形で了承してしまっていると僕は考える。
しかし、それは戦没者の方々や戦争で犠牲になったアジア各国の方々には関係のない話である。
関東軍が独断で行なおうが、真珠湾攻撃の開戦証書の到着が遅れようが日本が戦争を起こしたのであり、奇襲攻撃という事実は残る。
戦没者の方を慰霊したくないという日本人などいないと思うし、せめてこの時期には若い人にも戦争について考えてほしいとも思う。
しかし、靖国に首相が行くのは全く違う話である。
東京裁判について異議を言う人も多いだろう。
戦勝国が敗戦国を裁くというのも納得できない部分もある。
しかし、あれを受け入れたからこそサンフランシスコ講和条約締結にもなった。
それでは、戦犯の人たち、特にA級戦犯といわれる戦争を指導した人々は犠牲者なのか?
A級戦犯という言い方が気に入らない人でも、戦争責任者という言い方は納得できるだろう。
開戦を決めた戦争責任者。
その人たちと、戦争で命を落とした人々を同じに祭るというのはどうなのだろうか?
そもそも、靖国は戦争で犠牲になった人が神として祭られるのであって、絞首刑になった人を戦争犠牲者と位置づけるのはどうかとも思う。
見方を変えて中国から靖国を見てみると中国政府が騒ぐのもうなづけるところもある。
中国は日中国交正常化の際、日本からの賠償を受けていない。
それは日本政府と中国政府との間で取り交わされた事実である。
その時、当時の周恩来首相の「日本国民も中国国民も戦争の犠牲者である。戦争責任は一部の戦争を先導した指導者(いわゆるA級戦犯)にある」という内容の演説をした。
中国は一部指導者の責任として賠償を受けなかったのに、その戦争責任者であるいわゆるA級戦犯が合祀されているところに日本の指導者が参拝に訪れるというのは顔に泥を塗られたのと同じ感覚になるのもわかる。
(中国が賠償を受けなかった理由の本質は賠償という形で受けるよりも経済援助という形で長年受けた方が得策と考えたのではないだろうか?)
ただし、中国や韓国の若者が靖国参拝反対というのはどこまで靖国問題の本質が理解できているのか疑問ではある。
先日、びっくりしたことがある。
読売新聞社主筆の渡辺恒雄会長も実はほとんど僕と同じ考えだったことである。
読売はてっきり首相の靖国参拝には賛成の論調かと思っていたのだが、渡辺会長も戦争責任者を合祀した靖国に首相が参拝するのは反対の立場であった。
戦争は起こしてはならないし、あの悲劇を二度と繰り返してはいけないと誰もが思い、終戦の日を迎えただろう。
硫黄島での玉砕(先日NHKで見てとてもショックを受けてしまいました)、沖縄戦、そして本土への空襲、広島・長崎への原爆投下。
本土決戦では女性も子供も竹やりを持ってB29と戦うつもりだったのか?
もっと早く終わらせることができたではないだろうか?
そもそも、戦争は回避できなかったのだろうか?
それも全て戦争を指導した人たちの判断で行なわれ、日本が受け入れた東京裁判でA級戦犯と言われる人々の責任ということが言えるのではないだろうか?
責任と一口言うとなんとも軽いような気がするが、何百万人もの人命を奪った戦争の責任者、罪もない人々の命を奪った責任者と考えるといいのではないだろうか。
最後にこれは聞いた話であるが靖国神社は戦死した方を神として祭っているという建て前だが、被差別出身者は国のために命を落としたにもかかわらず、英霊として靖国に祭られることはないという。
それなのに、戦争責任者は合祀されているという現実・・・・・・。
この人は政治家としてどういうバランス感覚をしているのだろうか?
なぜ、千鳥ヶ淵の戦没者墓苑ではいけないのだろうか?
そもそも、靖国神社は先の大戦を自衛の為の戦争といまだに位置づけている。
すなわち大東亜戦争という考え方。
たしかに、日中戦争の行き詰まりから日本の孤立化、そして追い詰められての対米戦争へという考えからするとそういう考え方もできるかもしれない。
開戦を決定した当時の政府首脳も戦争へは踏み切りたくなかっただろうし、日本は5.15事件、2.26事件以来軍部の独走へとつながり、満州事変や盧溝橋事件などは関東軍の独断で行なわれ政府も軍幹部も事後容認という形で了承してしまっていると僕は考える。
しかし、それは戦没者の方々や戦争で犠牲になったアジア各国の方々には関係のない話である。
関東軍が独断で行なおうが、真珠湾攻撃の開戦証書の到着が遅れようが日本が戦争を起こしたのであり、奇襲攻撃という事実は残る。
戦没者の方を慰霊したくないという日本人などいないと思うし、せめてこの時期には若い人にも戦争について考えてほしいとも思う。
しかし、靖国に首相が行くのは全く違う話である。
東京裁判について異議を言う人も多いだろう。
戦勝国が敗戦国を裁くというのも納得できない部分もある。
しかし、あれを受け入れたからこそサンフランシスコ講和条約締結にもなった。
それでは、戦犯の人たち、特にA級戦犯といわれる戦争を指導した人々は犠牲者なのか?
A級戦犯という言い方が気に入らない人でも、戦争責任者という言い方は納得できるだろう。
開戦を決めた戦争責任者。
その人たちと、戦争で命を落とした人々を同じに祭るというのはどうなのだろうか?
そもそも、靖国は戦争で犠牲になった人が神として祭られるのであって、絞首刑になった人を戦争犠牲者と位置づけるのはどうかとも思う。
見方を変えて中国から靖国を見てみると中国政府が騒ぐのもうなづけるところもある。
中国は日中国交正常化の際、日本からの賠償を受けていない。
それは日本政府と中国政府との間で取り交わされた事実である。
その時、当時の周恩来首相の「日本国民も中国国民も戦争の犠牲者である。戦争責任は一部の戦争を先導した指導者(いわゆるA級戦犯)にある」という内容の演説をした。
中国は一部指導者の責任として賠償を受けなかったのに、その戦争責任者であるいわゆるA級戦犯が合祀されているところに日本の指導者が参拝に訪れるというのは顔に泥を塗られたのと同じ感覚になるのもわかる。
(中国が賠償を受けなかった理由の本質は賠償という形で受けるよりも経済援助という形で長年受けた方が得策と考えたのではないだろうか?)
ただし、中国や韓国の若者が靖国参拝反対というのはどこまで靖国問題の本質が理解できているのか疑問ではある。
先日、びっくりしたことがある。
読売新聞社主筆の渡辺恒雄会長も実はほとんど僕と同じ考えだったことである。
読売はてっきり首相の靖国参拝には賛成の論調かと思っていたのだが、渡辺会長も戦争責任者を合祀した靖国に首相が参拝するのは反対の立場であった。
戦争は起こしてはならないし、あの悲劇を二度と繰り返してはいけないと誰もが思い、終戦の日を迎えただろう。
硫黄島での玉砕(先日NHKで見てとてもショックを受けてしまいました)、沖縄戦、そして本土への空襲、広島・長崎への原爆投下。
本土決戦では女性も子供も竹やりを持ってB29と戦うつもりだったのか?
もっと早く終わらせることができたではないだろうか?
そもそも、戦争は回避できなかったのだろうか?
それも全て戦争を指導した人たちの判断で行なわれ、日本が受け入れた東京裁判でA級戦犯と言われる人々の責任ということが言えるのではないだろうか?
責任と一口言うとなんとも軽いような気がするが、何百万人もの人命を奪った戦争の責任者、罪もない人々の命を奪った責任者と考えるといいのではないだろうか。
最後にこれは聞いた話であるが靖国神社は戦死した方を神として祭っているという建て前だが、被差別出身者は国のために命を落としたにもかかわらず、英霊として靖国に祭られることはないという。
それなのに、戦争責任者は合祀されているという現実・・・・・・。