恐怖日和 ~ホラー小説書いてます~

見よう見まねでホラー小説書いてます。
たまにグロ等閲覧注意あり

霊滓鬼

2019-04-25 14:26:38 | 霊滓鬼

供の花

 深い山間の細い道を黒い軽自動車が走っていく。
 秋とは名ばかりの暑い日々だが、畦には彼岸花の赤が鮮やかに際立っていた。
 ラジオから流れる天気予報が台風の接近を知らせた。直撃は免れるが大雨への注意が必要だという。
 佐和は助手席から空を見上げた。
 まだ荒れる気配はないが、雲の層が厚く重くなっている。
「疲れた? もうすぐ着くからね。
 ふふ、すっごい田舎でびっくりしたろ?」
 運転中の義徳が前を見たまま笑った。
「全然だいじょうぶ。それにこういうところ大好きよ」
 佐和はその横顔に微笑んだ。
 でも、気力が持つかな――
 確かに身体の疲れはそれほどでもない。
 だが数日前から不安感がつきまとい、ずっと心がざわついている。
 それを悟られないよう佐和は再び窓外に目を向けた。

 義徳と交際を始めたのは美容師の先輩として指導を受け持ったことがきっかけだった。
 七つ年上の佐和はこの恋愛はすぐ破綻すると予想していた。義徳は田舎から出て来た心細さをただ埋めているだけなのだと。
 幼い頃に両親を亡くしたお祖母ちゃん子だから、わたしを母親か姉のように感じているのだ。
 きっと華やかな街に慣れ、若い女子に囲まれれば、やがて――
 だが、いつまでたっても義徳から別れを切り出されることはなく、もう五年が経つ。
 ようやくこの幸せを噛みしめてもいいのだと思うようになった頃、幼なじみだという少女が義徳を慕って店を訪ねてきた。数か月前のことだ。
 香子という少女は田舎から遊びに来たのではなく家出していた。まだ高校も卒業していないらしい。
 義徳は祖母にすぐ連絡を取り、知らせを受けた彼女の両親が慌てて迎えに来た。
 生真面目そうな両親は義徳を垢抜けたと褒めちぎり迷惑を詫びた後、反抗する娘を無理やり引っ張って帰った。
 佐和たちの仲を知る菜摘が、
「強敵あらわる! 佐和、しっかり義くんつかんどかないと盗られるわよ。あの子地味だけど、ちょっと磨けばすごい美人になるわ」
 応援してくれているようで、なぜか嬉しそうな同僚に辟易しながら一応「大丈夫よ」と微笑んだ。
 だが香子は何度も家出を繰り返し、そのたびに両親、もしくはどちらか一方が迎えに来た。
 幸せを味わい始めていた分、佐和の落胆は大きかった。 
 わたしよりきっと香子のほうがお似合いよね。
 義徳が彼女に惹かれていくのなら潔く身を引くつもりの佐和だったが、彼は香子を面倒な幼なじみとしか思っていなかった。
 そのことが佐和には嬉しかった。あまりに嬉しくて自分が少女に嫉妬していたことを今更ながら気付いた。
 義徳は香子が来る度に彼女の行動を謝り、自分には無関係だと言い訳した。
 佐和が何度うなずいても謝罪と弁解をやめない。
 結果、愛の証にとプロポーズされた。
 それは菜摘が面白がって、香子が来る度に佐和がかんかんに怒っていると義徳に嘘をついていたのだ。
 婚約の報告に「わたしのおかげだからね」と笑った。
 佐和は改めて幸せを噛みしめた。
 だがその後も香子の家出は続いた。
 必ず店に立ち寄り、客ならば叱られないと考えたのか義徳を指名し、終わったら連絡されないうちに出て行く。
 義徳は仕方なく接客しながら会話の中にさりげなく恋人の存在をアピールした。
 その度に佐和の両頬は緩み、鏡越しに香子から挑戦的な視線を送られた。
 義徳が研修でいない時は菜摘を指名する。先日は義徳なら決して許さない真っ赤で髪を染めた。
 佐和にとやかく言う権利はないが、まだ高校生なのよと菜摘を咎めると、
「わたしがお勧めしたんじゃないし。客が赤に染めてって頼むんだから仕方ないでしょ」
 と唇を尖らせた。
 義徳に叱られると思ったのか、その日から香子は来店しない。
 一安心する恋人とは反対になぜか佐和の心は晴れなかった。

 車窓を流れる山の稜線を見つめながら左手首に巻く数珠を撫でた。それは祖母からもらった黒水晶のお守りで佐和は肌身離さず着けている。
「なんか心配事?」
「えっ」
「浮かない顔してるしさ、心配事あるといつもそれに触るだろ。
 もしうちのことなら、ばあちゃんはそんな気難しい人じゃないから心配しなくていいよ」
 微笑んで佐和はうなずいた。
 きょう初めて義徳の祖母に会うのも気がかりの一つではある。
 大切な孫を奪う年上の女をどう思っているのだろう。
 緊張して昨夜はほとんど眠っていない。
 眠気もあったが、カーブの多い山道に入った途端、目が冴えてしまった。
 整備されているが片方は山の斜面で、もう一方のガードレールの下は険しい崖だ。
 義徳は安全運転だが、他の車に巻き込まれて事故が起きる可能性もある。
 カーブの向こうから対向車線ぎりぎりでダンプカーが現れた。
 佐和の悲鳴に、「ここはこんなもんだよ」と義徳は笑う。
「笑いごとじゃないわよぉ」
 佐和は涙目になり、姑のことは会ってから対処しようと決めた。
 カーブの上り下りを繰り返し、雑木林に囲まれたトンネルのような峠道を抜ける。
 はるか右下に集落が見え始めた。
「あそこだよ。あとはもう下るだけだ」
「そう」
 ほっとしながら視線を前に戻す。
 ガードレールの下に花が供えられているのが見えた。
 曇空に映えるほどそこだけ白いのは防護柵が新しくなっているからだ。
 ほらね。笑いごとじゃない。こんなところから落ちたらひとたまりもないでしょ。
 佐和は心の中でつぶやいた。 
 朽ちかけた供花の前を通り過ぎる。
 佐和はすっと心を無にした。
 気にかけていることを悟られてはいけない。同情心など以ての外だ。
 道端の死骸や無縁仏など供養されないものに憐れみをかけてはいけない――幼い頃から祖母にそう教えられた。
「かわいそう思たらあかん。憑いて来て災いを成す。
 そやかい知らんふりや。
 けどな、知らんふりせなあかんって、必死に考えてもあかんのやで」
 それは今のような供花に対してもらしい。その場で死人が出たために供えられたものだから。
 ちゃんと供養されればいいが、自分の死が理解できず地縛霊となる者もいる。
 だが。それより厄介なのはごくまれに未練や恨み、執着などが『かす』だけになって留まっているものだという。
 それを霊滓鬼と呼ぶそうだ。
 祖母は生まれ育った土地の呼び名で「でーさい」と呼んでいた。
 こういう場所にはでーさいがいる可能性がある。
 軽はずみに思いを寄せればこちらに気づき、引き寄せてしまうかもしれない。
 だから、心を無にする。
 佐和は山の斜面に揺れる草花を眺めた。
「ここは危ない場所なんだよなあ」
 ふいに義徳が大きな溜息をついて「交通の便が悪いからさ、よぼよぼになってもお年寄りが免許の返納しないんだよ。この村はそんな老人ばかりだ」
 止める間もなかった。
「今の花見たろ。あそこで誰か事故ったんだよ。かわいそうに、じいさんかばあさんか――まだまだ生きたかっただろうに」
「そんな話、やめて」
「あ、ごめん、ごめん。
 大丈夫だよ、怖がらなくても。ぼくは安全運転だから」
 そう言うと、義徳はカーステレオのボタンを押した。軽快な曲が流れ、それに合わせてハミングする。
 ちがう。そういう意味じゃない。
 佐和はサイドミラーを見た。
 カマドウマのような四肢を跳躍させて、白い何かが追いかけてきていた。
 でーさい――
 白髪を振り乱し、死人に掛ける白い布を顔に張り付かせている。
 初めて見たが祖母の教えてくれた姿形そのままだ。
 義徳には見えておらず、機嫌よくリズムを取ったままだ。だが、祖母の血を継ぐ佐和にははっきりと見えていた。
 でーさいがぐんぐん追いついてくる。
 佐和はそっと数珠を外した。
 かちゃりと石のぶつかる音がしたが、義徳は音楽に夢中で気にも留めていない。
 窓ガラスを少し下ろして素早く数珠を放した。
 白布の顔にぎゅっと皺が寄る。
 黒水晶が空中でぱんっと弾け、すべての石がでーさいの身体を撃ち抜いた。
 地面に崩れ落ちたのを確認して窓を閉める。
「なに? どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
 そう言いながら佐和はサイドミラーをもう一度確認した。
 ついて来るものはもう何もいなかった。


掌中恐怖 第二十五話『ミスではないミス』

2019-04-24 11:35:19 | 掌中恐怖

ミスではないミス

「いえ、けっして医療ミスではありません」
「でも、ただの盲腸炎だとおっしゃったじゃないですか。ちょっとお腹を切って一週間もすれば退院できるって」
「ええ、そうでした。あなたに説明した時は確かにそうでした」
「では、検査で見誤ったと? 盲腸ではなく重篤な疾患だったとか?」
「だからそうではありません。
 検査で見誤りもしていないし、手術中にミスをしたわけでもありません」
「だったら、なんなんですか。こんなひどいことになるなんて」
「あなたの恋人のせいですよ」
「恋人? わたしの恋人がなんで関係あるんですか? 
 いえ確かに関係なくはないですよ。もうすぐ結婚する相手なんですから。わたしをすごく心配していました。
 でも、それと先生のミスとの関係がわかりません。へんな言いがかりをつけないでください」
「だから、医療ミスではありませんって。あなたもしつこいですね。
 実はあなたの恋人は昔僕の彼女を奪った男なのです。
 ショックでした。食事も喉を通らないくらい。初めて愛した女性でしたし、結婚しようと誓っていましたからね。
 奪われて以降、僕は彼女以上の女性に出会いませんでした。だから僕は今でも独り身です」
「知りませんよ、そんなこと。先生の過去なんてわたしには関係ないし。
 それに奪われたなんておっしゃいますけど、恋人を引き付けておく魅力が足りなかっただけのことでしょう?」
「そうですね。あなたの言う通りです。
 僕もそう思いました。奴に敵わなかっただけのことだと。それだけなら長い時間がかかっても、まだあきらめがつきました。
 ですが、奴は、あなたの恋人は、僕の彼女を手に入れた途端すぐに飽きて捨てたんですよ。
 まるで汚いゴミのように。
 そのために彼女は電車に飛び込んで自殺しました。美しい彼女が見るも無残な姿になって――」
「ち、ちょっと待って。
 診断を見誤ったのでもなく、医療ミスでもないって、もしかしてわたしを彼への復讐の道具に使ったんですか?
 先生たちの因縁にわたしはただ巻き込まれただけ?」
「まあ、そういうことです。あなたにはお気の毒でしたが。
 僕も名医としてのプライドがありますから、ただの盲腸炎を死に至らしめるのは結構大変だったんですよ。
 おかげで医療ミスをしたわけでもないのに、ヤブ医者のレッテルを張られてしまいました。
 ですが、これで本望を遂げました。同じ苦しみを奴に味わわせてやれて嬉しいです。
 ただし、僕も奴に殺されてしまいましたがね」
「ひどいわっ、何の関係もないのにっ。
 わたしの命を返してっ」
「冥途で文句言っても仕方ないですよ。今度生まれ変わったら恨みを買うような男を好きにならないことです」

掌中恐怖 第二十四話『食品スーパーレジ係』

2019-04-22 11:31:22 | 掌中恐怖

食品スーパーレジ係

 ピッピッとバーコードを読み取る音を聞きながら、阿紗子は目の前の客から目を逸らせた。
 無口なその男の後ろに恨めしそうな表情をした女が三人立っていたからだ。どれも半透明をしている。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ。
 いらっしゃいませ、こんにちは」
 視線を逸らせたまま事務的に次の客へ挨拶する。
 だが、客はじっと立ったままで手には何も商品を持っていない。そっと目を上げると頭がかち割れ、砕けた脳みそを垂らせた男が立っていた。
 しまった。
 確かに目が合った。が、阿紗子は見えないふうを装ってすっと目を逸らせた。
「おまえ視えてるだろ」
 そう言いながら男は血のこびりついた顔を阿紗子に近づけてきたが、
「こんちわっ!」
 買い物かごをどんっと台に置いた常連のおばさんの出っ腹に押し消されてしまった。
 おばさん、グッジョブ!
 心の中で感謝する。

 きょうは外が曇っていた。
 こんな日は黒い人影のようなものがたくさん駐車場を徘徊する。
 帰る時にぶつからないように注意しないと。
 それに触れると怪我が増える。包丁で指を切ったり、鍋の縁で火傷をしたりと小さなものだが気持ちのいいものではない。
 やがてぽつぽつと雨が降り始め、客足が少なくなった。
 ぼんやり突っ立っていると入り口近くで小さな女の子が泣いているのに気付いた。
「あらあら迷子? お母さんは?」
 阿紗子はすぐさま女の子に駆け寄って聞いてみたが首を振って泣くばかり。
 一緒に通路を覗きながら探していると、「ちょっと何さぼってんのよ」と後ろからチーフにどやされた。
「あのぉ、迷子が」
 阿紗子が言い訳しようとしたその時、「あ、おかあちゃんだ」と少女が嬉しそうに駆け出した。
 その先にはカートにもたれゆっくり歩く寂しそうな老女がいた。
 ああそういうことか――
 レジに戻った阿紗子の前に置かれた老女のかごには苺とおまけ付きのお菓子が入っていた。
「娘の命日でな」
 支払いをする老女の横で女の子が嬉しそうに笑う。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
 女の子が振り返って手を振った。

恐怖日和 第十五話『ゆきちゃん』

2019-04-21 18:36:21 | 恐怖日和

ゆきちゃん

 みなさんは『ゆきちゃん』という怖い都市伝説を知っていますか。
 ゆきちゃんは赤い首輪のよく似合う真っ白なトイプードルなのですが飼い主もなく住む家もありません。
 その犬が新しい家族を探し求めている話です。
 いい話じゃないかって?
 でも、あまりの可愛さにゆきちゃんを連れ帰った家族は必ず不幸になってしまうんですよ。
 ね、怖いでしょ。
 ゆきちゃんは次々新しい家族を見つけては不幸にしていく。
 どうしてそんなことになったのでしょう。
 それにはこんな理由があるのです。

          *

 ゆきちゃんの一番初めの飼い主は村上家の家族でした。
 まじめで働き者のパパ良助。
 しっかり者のママ美佐子。
 八歳のお姉ちゃん美良(みら)に五歳の弟良実(よしみ)。
 ゆきちゃんと名付けたのは美良です。雪のように白かったからでみんな大賛成でした。
 美佐子は本当は犬を飼うことに反対していました。ちょうどマイホームを購入したばかりだったので、きれいな床や壁を汚されたくなかったからです。
 しっかり面倒みるからという美良や良実の約束にしぶしぶ許した美佐子でしたが、ご多分に漏れずゆきちゃんの世話はすべてママが担うようになってしまいました。
 子供たちは都合のいい時だけ遊んだりおやつを上げたりするだけです。当然ゆきちゃんはママの言うことだけ聞くようになり、話が違うわと小言を言いつつも、美佐子は甘えるゆきちゃんにメロメロでした。
 なんだかんだ言っても明るく楽しい幸せな村上家。
 でも、その幸せが長く続かないことをこの時まだ誰も知りませんでした。

 良助の部署に光代という派遣の若い女子社員が入ってきました。
 光代は理想の相手との結婚を夢見ていました。
 だからタイプの男性を見つけると妻や子供がいようが構わず突き進む女でした。
 仕事ができる上優しくてハンサムな良助にいち早く目をつけた光代は猛烈にアタックを開始しました。
 はじめは戸惑っていた良助でしたが、度重なる誘惑と飲み会での酔いに負けて一線を越えてしまいます。
 それでもまだその時は単なる気の迷いだと深い反省をしていました。
 ですが、誘惑はその後も続き、一回箍が外れた良助は次からは簡単に緩みました。
 数カ月が経ち、さすがにもうだめだと良助は拒絶し始めました。
 でも光代は「奥さんや子供を優先するし、月に一回でもいい、それで満足だから」と潤んだ瞳で囁きます。
 それを鵜呑みにし、約束通り浮気を続けていましたが、月一回が二回になり、週に一回が二回三回と変わっていくのは必然でした。
 なぜなら、光代は理想の結婚のため献身的でけなげな愛人を演じていたのですから。もちろん女性としての魅力にもより磨きをかけていました。
 逆に今までなかった残業がほぼ毎日あるということで不信感を抱き始めた美佐子の顔には険が立ってきました。
 子供が寝静まった後、遅い帰宅の良助を待ち構え、本当に残業なのか問いただし、シャンプーのにおいが違うだの香水の残香がするだのと良助を責め立てました。
 これはもちろん光代の策略です。香水やシャンプーだけでなくワイシャツの内側に擦り付けた口紅や下着の中に忍ばせた艶のある美しい髪の毛など、これで女の存在に気が付かなければバカだと言わんばかりの挑発でした。
 ふたりともそれに引っかかってしまったのです。
 良助は美佐子にうんざりしだし、光代をさらに愛しました。
 妊娠を知らされたのは付き合い始めて一年が来る頃でした。戸惑った良助でしたが産みたいと泣きながら願う光代を愛おしく思い、その願いに頷いてしまいました。

 いまだ見えない女の宣戦布告に負けるわけにはいかない。
 毎晩遅くとも必ず帰ってくる夫の良心を信じ、美佐子はまだ強気でいました。
 子供達に悟られないよう何事もないふりで毎日を過ごし、近頃パパは全然遊んでくれないと嘆く美良や良実にパパは一生懸命お仕事しているんだからと言い聞かせました。
 ゆきちゃんだけが良助が帰ってくる度に鼻をすんすんと鳴らしそばに寄りつこうとしませんでした。きっと何かを感じていたのでしょう。
 わたしと良助には子供たちがいる。
 それだけが美佐子の心のよりどころでした。
 寝取り癖のある女は男を自分のものにしたとたん、きっと飽きて『ぽいっ』だ。
 そう信じて、その日の来るのを待っていました。
 ですが、良助の態度が日に日に変化していくのを感じずにはいられませんでした。
 美佐子は自分を嘲笑う女の声が聞こえるような気がしました。
 ついに良助から離婚を言い渡される日がやってきました。相手の女に子供ができたというのです。
 美佐子の希望は完全に断たれました。
「家はお前にくれてやるよ」
 そう言って良助は茫然自失の美佐子に無理やり離婚届を書かせると「手続きは全部こっちでやっておくから」と冷たく言い放ち荷物を持って出て行きました。
 光代という女に壊されたのは家庭だけではありませんでした。美佐子の心も破壊されたのです。
 ゆるぎない幸福のもとにいると信じていたのに、いとも簡単に壊れてしまった。これからは何を信じて生きていけばいいのか。
 悲しすぎて悔しすぎて、子供たちを心の支えに生きていくという選択肢は頭の中に浮かびませんでした。
 美佐子の選んだ道は一つ。
 美良と良実に睡眠薬入りの食事を食べさせ、二人がソファーで眠ってしまうと延長コードを使って一人ずつ絞め殺しました。
 そして自分もドアノブを使って首を吊りました。
 残ったのはゆきちゃんだけでした。

 ゆきちゃんはすべて見ていました。
 ママがお姉ちゃんとお兄ちゃんと遊んでいる。
 最近ちっとも遊んでもらえてなかったので、わたしも遊びたいとくんくん甘えてみたけれど、ママがおおんおおんと叫びながら目からお水をいっぱい出してゆきちゃんのほうを見てくれません。
 首をかしげて見つめているとようやくママが気付き、ゆきちゃんににっこり微笑みました。
「ゆきちゃん、ママね、ほんとはこんなことしたくないんだよ。パパが悪いんだ。パパとあの女が」
 ママが何を言っているかゆきちゃんにはわからなかったけど、すごく悲しくてつらい気持ちはなぜか伝わってきます。ママのそばに行って頬のお水をなめてあげました。
「ありがとうね。ゆきちゃん。ゆきちゃんだけだよ。ママの気持ちわかってくれるの」
 そう言って頭をなでてくれました。手のひらには赤い線の痕が付いていました。
「ゆきちゃん。見て。美良も良実もこんなになって。悔しいね。かわいそうね。パパのせいなんだよ。あいつらがわたしたちをこんなにしたんだ。
 美良。良実。ママもすぐ行くからね」
 そう言った後、ママはまた目から水をいっぱい流し、遠吠えする隣のジョンみたいな声を出しました。
 ゆきちゃんはパパとパパからにおっていた嫌な臭いを思い出しました。
「ゆきちゃん、もしパパに会ったら恨みを晴らして。お願いよ。絶対パパとあの女を許さないで」
 ママはリビングの外側のノブに輪にしたコードを引っ掛け、上から通してドアを閉めました。
 そしてぶら下がったその輪に首をかけて座りました。
「ゆきちゃん、ごめんね、一人ぼっちに、して――」
 ママの顔が赤く染まり始め紫色に変わっていきます。ブランコをしながら足を激しくばたばた動かしています。
 遊んでくれるの? 
 ゆきちゃんはママの脚に合わせてジャンプしました。
 とても嬉しくて何度も飛びました。
 しばらくするとママがお漏らししました。
 おしっこを失敗するとゆきちゃんはこっぴどく叱られます。だからママを不思議そうな顔で見ました。
 でも、ママはブランコのままもう動きませんでした。
 ゆきちゃんは寝床に戻り、前足をそろえた上に顎を置いてため息をつきました。
 おなかすいたな。
 体を起こし、もう一度ママのそばに行きました。
 ママはまだブランコをしています。
 おなかすいたよ。おやつちょうだい。
 くーくー鼻を鳴らしても、ママの手を前足でかいてもママは動きませんでした。
 お姉ちゃんやお兄ちゃんのそばで鳴いてみましたが二人とも起きません。ゆきちゃんはあきらめて寝床に戻りました。
 しばらくじっと我慢していましたが、お腹が減ってたまりません。
 その時、はっとおやつのありかを思い出しました。
 あの棚のカゴだ。
 急いでキッチンまで走っていくと棚の上にカゴが見えました。
 自慢のジャンプ力で何回も飛びつき、やっとカゴをひっくり返すことに成功しました。
 ご褒美でしかもらえないおいしいおやつまで袋を引き裂いて全部食べてしまいました。
 満たされた後はゆっくり眠りました。

 目が覚めると部屋は真っ暗なままでした。
 電気つけないとだめだよ。
 ゆきちゃんはママに伝えに行きましたが、相変わらずブランコのままです。
 またお腹が空いたゆきちゃんは転がったカゴの中身を探りに行きました。
 さっきたくさん食べたので、もう少ししか残っていません。
 それを食べてしまうと給水機の水を飲んで空腹を紛らわせました。
 ですがやはりそれだけでは足りません。
 ママのそばに走り寄り甘えた声で鳴いてみましたが、どれだけ鳴いても動いてくれません。
 明るくなって暗くなってが何回繰り返されたでしょう。
 ゆきちゃんは数えきれないくらい寝床とママの間を行ったり来たりしました。時々、お姉ちゃんお兄ちゃんにも催促してみました。
 おなかすいた。おなかすいた。おなかすいた。
 ママには何度も何度も飛びついて訴えました。
 すると首がぐらりと動き、ママがゆきちゃんのほうを見ました。
「ゆきちゃんいい子ね。おなかすいたの? じゃ、これを食べるといいわ。
 ほんとにいい子。全部食べていいからね。
 だからわたしたちの恨み、けっして忘れないでね」
 そう言ってにっこり笑いました。

 一週間以上経ち、村上家に異常を感じた近隣の住人らが警察に通報しました。
 ドアを開けた警官たちは奥から流れてくる異臭に家の中で起きていることを瞬時に悟りました。
 リビングには三体の白骨死体がありました。
 ドアにぶら下がった大人の遺体、ソファーには二人の子供の遺体。ほんのわずかに残っている肉から腐敗臭が漂っています。
 ですが、腐敗して溶けたにしては床やソファーの染みが少な過ぎます。
 警官たちは不思議に思い、顔を見合わせました。
 その時、一人の警官の耳に唸り声が聞こえました。
 声のするキッチンに目を向けると、奥の暗がりに小さな生き物がうずくまっているのが見えました。
 一瞬驚いたのですが、白い犬だとわかり警官たちは捕獲しようとしました。
 ですが、犬はすばしこく、手を伸ばした警官の足元をすり抜けて外に逃げ出してしまいました。
 人に懐いた小型犬でも状況が状況だけに人々に危害を加えるかもしれない。
 警官たちは近所中探し回りましたが、どこを探しても村上家の白い犬は見つかりませんでした。

          *

 これが『ゆきちゃん』の真相です。
 新しい家族を見つけては次々不幸にしていくのはママとの約束を守ろうとしているのかもしれません。
 パパを見つけ恨みを晴らすという約束。
 だからパパとその新しい家族にたどり着くまでは関係のない家族が巻き添えになることは終わらないでしょう。

          *

 ある家に一匹の白い犬が迷いこんできました。
 あまりのかわいらしさにその家の坊やはたいへん喜びました。
 両親は犬――特に白い犬――があまり好きではありませんでしたが、坊やの喜びように免じて飼ってあげることにしました。
 でもそれから坊やの言動がおかしくなり始めたのです。
 急に奇声を上げて暴れ出したり、息ができないくらい泣き喚くようになりました。
 不思議なことにそれはパパに対してだけでした。
 それまではパパが大好きだったのに――
 しばらくしてママもおかしくなっていきました。パパを必要以上に疑い始めたのです。
 毎日毎日、あらぬ疑惑を作り出しては責め立てました。もちろんパパに身に覚えはありません。
 白い犬が来るまで親子三人で幸せに暮らしていたのに、ママと坊やの顔は鬼面のように面変わりし、二人してパパを冷たい目でじっと見つめるようになりました。
 母子の間にも会話はありません。ただ顔を見合わせて、に~っと不気味な笑顔を浮かべるだけです。
 そのそばには必ず白い犬もいてパパを見つめていました。
 辛くて苦しくて我慢できなくなったパパは電車に飛び込んで自殺しました。
 家にはママと坊やが首を絞められて殺されていました。
 テーブルに白い犬と家族がどうのこうの書かれた意味不明の遺書が残されていましたが、捜査のため家中くまなく調べても犬など飼っていた形跡がなく、警察は心を病んだ父親の無理心中と判断しました。

          *

 この父親が良助だったのかどうかわかりませんが、これを境にゆきちゃんは現れなくなったとも言われています。
 でも、幸福なあなたを不幸のどん底に陥れようといつか目の前に現れるかもしれません。
 だって幸せを手に入れられなかった可哀想なママのことをゆきちゃんはとても大好きだったのですから。

掌中恐怖 第二十三話『お兄ちゃん』

2019-04-20 12:21:11 | 掌中恐怖

お兄ちゃん

「お兄ちゃんどうしたの?」
 学校から帰ってきた恭子は驚いて、具合悪そうにソファにもたれる悟志のそばに走り寄った。
「いや、何でもない大丈夫」
 悟志は目をつぶったまま片手を上げて恭子の心配を制した。
「でも、具合が悪いから会社を早退したんでしょ」
「きょうは休んだんだ」
 そう返して悟志は咳き込んだ。
 空気が侵されていきそうな不快な咳だった。
 深夜だというのにリビングでスマホゲームに興じていた兄を恭子は思い返す。
 もう社会人だというのに母に注意されるまで夢中になっている姿に呆れたが、試験勉強の息抜きにココアを作りすぐ自室に戻ったので、恭子はその後の悟志を知らない。
 朝は朝で寝坊して慌てて出かけたので、やはり兄がどうしていたのか知る由もなかった。
「お兄ちゃんゲームのやりすぎよ。ママが帰ってきたら、うんと叱られるわよ」
 母は早朝ばたばた急いでパートに出かけるから、悟志が休んでいることに気付いてないだろう。
「ああ、ほんとにゲームのやりすぎかもしれな――」
 げぼりと悟志が嘔吐した。
「きゃあっ」
 恭子はかばんを放り出し、悟志のそばにしゃがみ込んだ。
「大丈夫っ、お兄ちゃんっ、お兄ちゃんっ」
 顔面蒼白の悟志は恭子を少し見上げてすぐうつむいた。
「え――」
 兄の顔が縦横に伸びたり縮んだりでいるように恭子には見えた。
 一瞬だったので錯覚だろう。またはそれほど苦痛に顔を歪めたか。
 悟志はげぼりげぼりと何度も嘔吐した。
 恭子は兄の背中を擦り続けた。
 嘔吐物から動物園で嗅ぐようなにおいがする。
「お兄ちゃん、何食べたの?」
「きょうは何にも食べてない」
 悟志はうつむいたまま、苦しそうな声で答える。
 兄の背中がでこぼこ蠢いているのが手のひらに伝わってきた。空嘔吐きを繰り返しているが、そのせいでそうなっているわけではなさそうだ。
 身体が見る見る変化していく。
「お兄ちゃん、なに? なんなの?」
 恭子は震えながら悟志から離れた。
 目の前にはソファにもたれるアルパカがいた。
「お兄ちゃん――
 お兄ちゃん、いったい何のゲームしたの?」