恐怖日和 ~ホラー小説書いてます~

見よう見まねでホラー小説書いてます。
たまにグロ等閲覧注意あり

恐怖日和 第六十三話『サンマイバ』

2021-09-05 01:23:27 | 恐怖日和



  
  
「祥彦《ただひこ》、忘れ物ない? 制服は持った?」
「持ったよ」
「知世《ちせ》ちゃんは?」
「わたしも持った――ねえママ、お兄ちゃんとわたし、どうしても行かなくちゃダメ? ママとパパだけでいいんじゃない?」
「俺もそう思う」
「二人とも何言ってんの。小さい頃に田舎のお祖母ちゃんにはたくさんかわいがってもらったでしょ。行かなくなってからだって、毎年お年玉だのなんだのって送ってもらったのに、お別れに行かないなんてそんな悲しいこと言わないで」
 祥彦と知世は顔を見合わせ、しゅんとうつむいた。 
 W県の田舎町に住む母方の祖母が急死し、祥彦たち一家は葬儀のため久しぶりに赴くこととなった。
 長い間帰省しておらず臨終にも立ち会えなかった母、知美の気持ちを考えれば自分たちの言葉はちょっと、いやかなり、思いやりのないものだと祥彦は反省し、その後、重々しい空気のまま父親の運転する車は知美の実家がある桃川町へと向かった。

 街中の喧騒が消えてくると遠くに山々の稜線が見え始め、田んぼの景色が拡がり始めた。
 青々と成長した風に揺れる稲波を車窓からぼんやり眺めていた祥彦の脳裏に当時のことが思い出されてくる。
 小学時代の夏休み、毎年母に連れられて知世とともに山麓にある町と呼ぶには田舎すぎる町へと遊びに行っていた。
 あの事件が起きるまでは――
「な、あの頃のこと覚えてる?」
「覚えてない」
 祥彦は後部座席に並ぶ知世に小声で訊いたが、スマホをいじるばかりで返事は素っ気ない。
「俺はたまに哲平のこと思い出す」
 あの田舎町で初めて友だちになったのは久保哲平という同年齢の男子だった。母親同士が幼なじみだったので仲良くなるのが早かった。
「哲平? 覚えてないなぁ、あっ」
 知世が顔を上げ「あいつを思い出してしまった。あのクソガキ――名前なんだったっけ――鼻たれ小僧を連れてた――」
「広司?」
「そう、そいつ」
「お前、あいつにいじめられてたからな。だから印象に残ってんのかも。でもあいつお前のこと好きだったんだぞ」
「うわ~やめてよ。なんかいろいろ厭なこと思い出してきたじゃん。あ~ホントやだ」
 知世はイヤホンを装着し、そっぽを向いてしまった。
 祥彦も再び車窓の景色に目を戻す。
 哲平を思い出すと必然的に思い出されるのが、彼が教えてくれたサンマイバのことだ。
 サンマイバは三昧場と書き、墓地や火葬場を指す言葉だった。
 だが、哲平の教えてくれた小高い山の中腹にあるサンマイバは当時すでに遺物と化していた。
 国道沿いに移転した現火葬場や共同墓地は斎場を併設された立派な施設になっていて、今晩の通夜や明日の葬儀はそこで行われるのだろう。
 祥彦は哲平に教えてもらった禁忌を思い出していた。
 サンマイバへむやみに行ってはならない――祟られる
 もし行ってもかくれんぼして遊んではならない――あの世へ隠される。
 もし行ってかくれんぼ以外で遊んでも帰る時は家に着くまで後ろを振り返ってはならない――あの世へ引っ張っていかれる。
 なのに祥彦たちは禁忌を無視し、あそこでかくれんぼして遊んでしまった。
 そして哲平はあのかくれんぼで永遠に見つからなくなってしまったのだ。

               *

「よし、みな集まったな?」
 四年生で一番年上の藤田広司がリーダー気取りで滑り台の上から祥彦、哲平、やす坊を見下ろす。
 公園を囲む桜の樹々からは蝉の声がしきりに降っていた。
「はいっ、たいちょう」
 鼻を垂らしたやす坊だけ敬礼した。広司の弟だから何でも言うことを聞かなければいけないらしい。
「よしっ――って、ちょっと待てっ、おい祥彦、知世が来てへんやないか」
「う、うん――僕らと遊びたくないんだって」
「ちせちゃんおにいちゃんのこときらいいうてたし」
 祥彦の返事に被せ気味にやす坊が笑う。
「な、なんやとっ」
 急いで滑り降りて来た広司がやす坊の頭をはたいた。
「いたいよ」
「お前今なん言うた?」
「ちせちゃん、おにいちゃんのこときらいやて――っ、いたいよ」
 再びはたかれたやす坊が頭を押さえ、
「そやかておにいちゃん、このまえおかあちゃんにおこられてめちゃめちゃないてたやん。ちせちゃんそれみてよわむしきらいやいうてたもん」
「ほんまか?」
 広司がそう問いながら祥彦を振り返ったが、答えに困って曖昧に首をひねるしかなかった。
 確かに知世はそう言ってはいたが、それを今はっきり広司に伝えることなどできない。
「ようしっ、オレが弱虫やないことわからしたる。な、祥彦よう見とけ、で、知世に弱虫やない言うてくれ」
「なにすんの?」
 やす坊が鼻水をすする。
「サンマイバに行くんや。あそこでかくれんぼしよ」
 どや顔で広司がにたりと笑った。
「あそこに行ったらあかんよ。かくれんぼら、よけあかんよ」
 それまでいつになく静かだった哲平が口を開いた。
「ああ? お前また良い子ぶるんか。高橋先生に気に入られてる思て。そんなほめられたいか? オレお前のそんなとこ腹立つんやっ」
 勝手に憤り喚いている広司を無視して、祥彦はサンマイバとは何か哲平に聞いた。
 そして、そこが昔の火葬場と墓地の呼び名だということ、いまだ捨て置かれたままの煉瓦造りの建物と古い墓石の立ち並ぶその場所の禁忌も教えてもらった。
「そんなん、子供らが行かんように言うてるだけやろ」
 反論する広司だったが、
「そうかもしれんけど、危ないから行ったらあかん、遊んだらあかんってこと違うん?」
 哲平の指摘に下唇を噛む。
 だが、夏休みの自由研究が頭に浮かんだ祥彦は「おもしろそうだね。行ってみたいな」と思わずつぶやいていた。
 サンマイバという奇妙な名称がとても魅力的で、課題として成功するような気がしたのだ。見てみるだけでも損はない。
「ふふーん。な、祥彦も行きたい言うてるやん。こいつはオレの味方や」
「え? あ、そういうわけじゃないけど――」
「なんやとっ? ま、どうでもええわ。なっ行こや。オレがビビりやない証明したいんや」
 広司の言葉に哲平が「うーん」と唸りながら、祥彦の顔を窺った。
「いいじゃん」
 祥彦が笑って促すと哲平が決心したようにうなずいたが、
「そやけど帰る時は家の玄関入るまで後ろ振り返ったらあかんで。みんなこれだけは守れよ」
「わ、わかっとるわっ。
 ほな出発や」
 やす坊を従えて広司が先頭を行く。
 近くの枝に留まっていた蝉が一匹、ジジっと鳴き声を上げて飛び立った。

 サンマイバへと続く山道の入り口は孟宗竹の藪に囲まれて鬱蒼としていた。
 広司たちの後について足を踏み入れると竹藪から一斉に蚊が飛び立ち顔のあたりを飛び回った。
 まとわりつく蚊群を手で払い除けながら、丈高い雑草に挟まれた細い地道の坂を進んだ。道に草が茂っていないのは頻繁でなくても人が往来しているということだろう。
 その証拠にサンマイバの入り口であろう付近に鎮座する大人の背丈ほどの巨大な六地蔵の前掛けにはまだ赤い色が残り、花筒の枯れた供花にも白や黄色の色が見えている。
 巨大な地蔵など目にしたことのない祥彦はただただ圧倒された。
 六地蔵の周囲以外はすべて雑草に埋もれていた。
 サンマイバに門はなかったが、錆びたドラム缶が門のように配置され、その間を重そうな鎖で渡して封鎖していた。たるんだ鎖の中心にぶら下がった札が風に揺れている。立ち入り禁止の赤文字が辛うじて読めた。
 広司が楽々と札の上を跨ぎ越え、続いてやす坊が難渋しながら同じように跨いだ。
 祥彦、哲平の順に鎖を跨いで二人の後に続く。
 雑草の生い茂る野っ原と化した敷地の奥に煉瓦造りの小屋が見えた。あれが火葬場なのだろう。正面にある観音開きの入り口は閂で閉ざされ、見える範囲の壁の窓も木製の雨戸が閉め切られていた。
 煉瓦製の角煙突が屋根から青空に向かってそびえ立つ様に祥彦の首筋がぞわりと泡立った。
 だが、それよりも好奇心が勝り、うきうきしている自分がいるのも確かだ。
 先頭を行く広司がしばらく立ち止まって火葬場に目を向けていたが、そちらに足を向けることはしなかった。
 なんだかんだ言って怖いんだなと祥彦は可笑しくなり、哲平を見ると同じくにやりと口角を上げた。
 反対側の奥には雑草から頭だけ出した墓石群があった。
 廃れ具合に薄気味悪さを感じていると哲平が、
「古い墓石が置かれたままなんや。砂岩でできてる墓が多て砕けかけてて危ないよって、はたへ行ったらあかんで」
「なんか怖そうだね」
「お性根抜いて中は引っ越ししてるかい、ただの石や。怖あるか」
 広司が平気な顔を装って話に割り込んでくる。
 一番怖がっているのは自分なくせに――そう言いたいが祥彦は黙っていた。
「オレ先に鬼やるからみな隠れろや。ほな百数えるで」
 右の前腕で目隠しして「いち、にい」といきなり数え始める広司からやす坊がいち早く逃げ出し、少し離れたところの荒れた植え込みの間に身を潜ませた。丈高い雑草と繁茂した植え込みの枝でやす坊はすっぽり隠れてしまった。
「――きゅう、じゅう、じゅういち、じゅうに」
 数え続けている広司を尻目に、祥彦は哲平に指で合図を送り、火葬場のほうへと雑草を踏み分けて進んだ。
 塗装の剥げた木製の扉は閂がかかっているも、鍵のようなものは見当たらない。
「この中見れるかな」
「ええ? 見んほうがええ思うけど」
 哲平の困惑の声を無視して祥彦は閂に手をかけた。引いてみると驚くほど簡単にスライドする。
「ちょっとだけ見てみたいんだ。自由研究の課題にしたくて――」
「こんなん自由研究になる?」
 苦笑を浮かべる哲平を置いて、祥彦は完全に閂を外すとそれを横に立てかけ両手で扉を押した。
 ひんやりした空気が身体を撫でながら流れ、熱い外気と混ざっていく。
 内部は凝るような暗闇が拡がっていて一瞬何も見えなかったが、瞳が順応してくると中の様子がぼんやりと浮かび上がってきた。背後からの外光を受けて埃がきらきら舞う中、目の前には一基の火葬炉が鎮座していた。
 外壁と同じ煉瓦造りでアーチ形の両開きの扉は重々しく閉ざされている。
 見た事のない光景は祥彦を圧倒した。背筋に怖気が走るもやはり好奇心のほうが勝る。
 炉の扉も開けて中を窺いたかったが、ところどころ煉瓦が砕けかけているので危険だと判断してやめた。
 ぼんやりと炉を見上げている哲平を置いたまま祥彦は周囲を回ってみたが何も残っておらず、興味をそそるものは炉以外他になかった。
「ここで死体を焼いていたと思うとなんだか怖いね」
 そう言うと哲平は一応うなずいていたものの、心ここにあらずだ。
「どうしたの? きょうはなんか変だよ。ちょっと元気ないっていうか――」
「う、うん――」
 哲平が口を開きかけた時、
「あー、こんなとこにいてたぁ、おにいちゃあん、ここやでぇ」
 入口から覗き込んでいたやす坊が後方を振り返るも、広司の姿はいっこうに見えず「さっさと出てこいっ」と怒鳴り声だけが聞こえてくる。
「戻ろうか」
 祥彦はくすくす笑って哲平を見遣った。
 困った表情で哲平がうなずく。
「はよせなおにいちゃんおこってるで」
「わかったよ。今行くから」
 先に戻っていくやす坊に返事する祥彦の後ろで、かさりと紙の音がした。
 哲平がズボンのポケットから茶色い封筒を出していた。事務で使うような縦長のやつだ。半分に折られたそれを祥彦に差し出す。
「何回も相談しよ思たんやけど――あいつらいてたらできんかい手紙書いてきたんや。帰ったら一人で読んでな――あいつらには内緒やし、誰にも見せたらあかんで」
 念押しして封筒を祥彦に渡すと「はよポケットに入れて。落としたらあかんで」と急かした。
「はよ来いやっ」
 広司の怒鳴り声が再び聞こえ、祥彦は哲平にうなずきながら封筒をズボンのポケット深く押し込んだ。
 外に出ると白い日差しと草いきれに一気に包み込まれた。
「ほな、かくれんぼ再開や。いーち、にー、さーん――」
 広司が意気揚々と数を数え始める。が、五まで数えたところで、祥彦は呼び止められた。
「おい祥彦。オレが弱虫やないて、ここでかくれんぼしたんやて、ちゃんと知世に言えよ」
「わかったよ」
 祥彦は笑いを噛みしめてそう返事をし、先に行く哲平の背中を追いかけた。

 鬱蒼とした植え込みの陰にしゃがみ込んでいた祥彦はポケットの上から手紙に触れ、なにが書かれているのか考えていた。
 まさか知世へのラブレターじゃないよね? ああ今すぐ見たいな。でも――もし広司たちに知られたら、哲平に口きいてもらえなくなるだろうし――
 頬を茅の葉にくすぐられながら考えていると目の端に白いものがすっと移動した。思わずそっちに目を向ける。
 あのままどこに隠れたのか哲平の姿を見失っていた祥彦は哲平が自分を見つけて近付いてきたのだと思ったが、重なり合う緑が風に揺れるばかりでそこには何もない。
「どこに隠れたんだろ」
 独り言ちてみたが、じゃ今のはなに? という疑問が沸き上がり、ふとサンマイバの禁忌を思い出す。
 かくれんぼなどして遊んではならない――
 もし破ったらどうなるんだろう。火葬場まで覗いてしまったし――もしかしてお化けが出てくるとか?
 祥彦の想像が大きく膨らみ、さっきほんの一瞬見えた白いものが恐ろしいものへと変化していく。
 さわっと頬に何かが触れ「ひっ」と声を上げてしまった。茅の葉がさっきと同じくただ揺れているだけだったが、祥彦は我慢できずに立ち上がってしまった。
「あ、めーっけ」
 ほんの数メートル離れた場所から弾んだ声が聞こえた。どや顔で立つ広司を見てほっと胸を撫で下ろす。
 広司がこんなに頼もしく思えたのは初めてだ。
 背後には先に見つかったやす坊がくっついている。だが、哲平の姿は見当たらない。
「哲平は?」
 祥彦の質問に「まだ見つけてない」と広司が忌々しそうに口をへの字に曲げた。やす坊を見ても首を傾げるばかりだ。きっと広司の命令で探したのだろうが、やす坊でも見つけられない場所に隠れているようだ。
「もう降参したら?」
 祥彦の提案に広司が首を横に振る。
「てっぺーい、鬼が降参だってー」
 それを無視して呼んでみた。
「ちょ、まだしてへんやろっ」
 広司が大慌てで止める。
 ふつうならここで面白がって哲平が出てくるはずだ。だがやはり姿を現さない。
 三人は顔を見合わせた。
「哲平? 広司、もう降参するって」
 祥彦は大声で再度呼んでみた。
 どこを見渡しても草陰から哲平の姿は出てこない。
「わかった、降参や。そやけ出てこぉい」
 広司も四方に呼びかけるが結果は変わらず、祥彦の背筋にぞぞぞと何かが這い上がってきた。
 広司も同じだったのだろう。やす坊の手を引きながら祥彦にしがみついてくる。
「ここでかくれんぼしたさけ、あのよへかくされてもたんかな?」
 のんきに辺りを見渡すやす坊の頭を「そんなん迷信やっ」と広司がはたいた。
「き、きっと、いたずらしてるだけだよ」
 祥彦は自分に言い聞かせるつもりで二人に笑いかけるも、頬が引きつり笑顔にならなかった。
「哲平ぇぇ、もういいから出てきてよぉぉ」
 叫ぶように三度《みたび》呼んでみたが、夕方の風に揺れる草の波が見えるばかりで、哲平の姿は現れることはなかった。

                  *

「知ちゃん、ようおかえり。ほんま久しぶりやなぁ」
「お姉ちゃん――」
 玄関先で現長埜《ながの》家家長、真知子の姿を見たとたん、知美はその胸で泣き崩れた。
「いややわ知ちゃん、祥彦ちゃんら見てるやろ。しゃんとしぃ」
「うんうんわかってる、そやけど――ごめんね、お姉ちゃん、お母ちゃんのこと一人で看取らせてしまって」
「なに言うてんの、仕方ないことや。さあ、はよ上がり。
 祥直さんも遠路はるばるすまんことで、運転疲れたですやろ。はよ上がって足伸ばしてください。
 祥彦ちゃんも知世ちゃんもはよはよ。あがってよう顔見せて。ほんま立派に大きうなって――」
 今度は真知子が涙ぐみ、細くて白い指で目頭を押さえた。
 あの頃とまったく変わらない人だな。
 祥彦は広い玄関土間に足を踏み入れながら、嬉しそうに妹に話しかける真知子の後姿を窺い、養子にと望むほど知世がお気に入りなのも変わってないなと苦笑を浮かべた。
「ばたばたしてるよって掃除行き届いてないけど――」
 真知子に案内された客間は子供の頃に寝泊まりした和室だった。
 祥彦たちはいったん荷物を置いて座り込み、久しぶりの畳に足を伸ばす。
「ちょっと知ちゃん――」
 真知子が母親を呼び、襖の外からひそひそと声が聞こえてくる。
「ごめんやで知ちゃん、先にお母ちゃんに会わせてあげたかったんやけど、もう斎場へ安置されてるんよ」
「うんうんわかってる。あとでゆっくり顔見させてもらうから――」
 涙で震える知美の声もした。
「それからな――久保さんら――|手伝《てた》いに――けど気にせんでええ――」
 耳打ちしているのかよく聞こえなくなったが、哲平や広司の母親たちが通夜振舞いの手伝いに来ているのだろう。田舎の互助は当たり前のことだが、祥彦は憂鬱になった。
「おい早く着替えろよ」
 顔を上げると父が喪服に着替え始めていた。少し離れた知世はすでに夏服のセーラーに着替え、スマホをいじっている。
 祥彦も自分の荷物からブレザーの制服一式を引っ張り出した。
 そう言えば――
 ふと哲平の手紙を思い出す。
 結局あれは読むことができなかった。あのまま消えた哲平の恐怖に開封することすらできなかったのだ。
 二つに折りたたんだあの茶色い封筒は――
 祥彦は制服に着替え終えると長押を見上げた。
 喪服に着替えた母親が慌ただしく客間を出て行く。その後を知世と父親がついていくのを目の端で捉え、素早く腕を伸ばして長押の隙間を探った。あの頃は椅子に乗ってでもしないと届かなかった手が今は背伸びしただけで届く。壁と長押の空間に折り入れた指にかさっと乾いた紙様のものが触れた。
 それを指先に挟んで取り出す。蜘蛛の巣と埃にまみれ、より茶色に変色した二つに折りの封筒が目の前に現れた。
「お兄ちゃん、なにやってんのっ。斎場に行くから早く来なさいって、ママが」
 突然、知世が襖の陰から現れ、手紙を落としそうになるも、見つからずにブレザーのポケットにねじ込んだ。埃汚れが不快だったが、どうすることもできず、あきらめて祥彦は玄関に向かった。

 通夜式が済み、祥彦は知世とともに斎場の中にある座敷で通夜ぶるまいの席についた。両親は真知子とともに明日の段取り等に忙しいのか、まだここには来ない。
 故人《そぼ》の供養やお清めのための酒盛りは賑やかで、たくさんの座卓の間を白い割烹着の女性たちが忙しく動き回っていた。地域住人の女性たちだろうが、ざっと見渡しても哲平の母親らしき人はおらず、祥彦は少しだけ緊張を解いた。
 盛大な式や参列した人数で長埜家のこの地域での立場が伺われる。だが、知美は嫁して家を出た身だからなのか、その子祥彦たちのことを気にするものはおらず、誰にも声をかけられることはなかった。
「すごく立派なお通夜だったね」
 知世が目の前に置かれていた大皿のお寿司をつまむ。
 あのサンマイバとは違い、今の火葬場は式場が併設されすべての設備が整っていた。きっと火葬場自体も近代化されたものに違いない。
「確かに」
 祥彦も寿司をつまんでうなずいた。
 割烹着を着用した知美がやってきて、二人の背後で膝をついた。
 それと同時に瓶ビールやグラスを盆に載せた哲平の母と広司たちの母が座敷に入ってきた。
 多少老けてはいたものの確かに二人とも彼らの母親だ。祥彦のいる席まで来なかったが、きつい視線はびんびん感じる。
「あんたは堂々としてていいんだからね」
 知美が祥彦の背中をそっと撫でる。
「う――ん――」
 だが、祥彦は哲平の母を直視することができなかった。

               *

 いったん祖母の家に帰宅した祥彦たちの通報で、すでに日の暮れたサンマイバには桃川町六松地区駐在所の警官、消防団や住民の男たちが集合し哲平の捜索を開始していた。哲平の両親、担任の高橋、知美に広司たちの母親藤田公子も捜索に加わっている。
 六地蔵のそばで祥彦は広司たちとベソをかいて待機していたが哲平が見つかったという報は聞こえてこない。
 今にもくずおれそうな久保美紀恵を連れ、知美と公子が祥彦たちの元に戻って来た。
「哲平の行方ほんまにここでわからんくなったん?」
 目を腫らした久保美紀恵が祥彦に縋りついてくる。
 恐る恐るうなずくと、「なんでこんなとこへ来たん?」
とつぶやいて広司を振り返った。
「なんや美紀恵さん、うちの広司が悪い言うんか?」
 公子が項垂れる広司とやす坊を自分の大きな尻で隠して鼻息を荒くする。
 サンマイバに来た経緯は大人たちに事情を聞かれた時にやす坊がすべて白状していた。
「いったん行かんってなったんを、この子が行く言うたんやさけ、この子が悪いんやろが」
 公子があからさまに祥彦を指さす。
「ちょっと公子さんっ――」
 今度は知美が我が子を庇った。
 そこへ駐在の安本が近づいてくる。
「なにもめとんのや。今はそれどころやないで」
 消防団の団長も団員を数人連れ、安本のもとへと集まってきた。
「おう団長、高橋先生見んかったか?」
「高橋先生なら火葬場のほうへ見に行ってくれましたわ」
 と、名札に村井と書かれた団員の一人が報告し「あんなとこへよう一人で見に行きますわ、怖ないんかいな」と苦笑し、団長に頭をはたかれた。
「あほかっ、何で一緒について行ったらんのや」
「そやけど怖いですやん」
「先生は他所から来た人やよって、サンマイバのことよう知らんのやろ」
 安本がそう言うと同時に高橋が小走りで戻ってきた。
「あ、駐在さん、ここにいましたか。
 久保君、火葬場のほうにもいませんでした」
「まさか炉の中まで確認できてへんわな? かくれんぼしてた言うてたよって――」
「いえ見ましたよ。炉の扉も開けてちゃんと確認しました」
「ひえっ」
 村井が怯えた声を上げ、再び団長に頭をはたかれる。
 それを見て高橋が小首を傾げながら、
「炉の周囲も火葬場の周囲も隅々まで捜索しましたけど――」
 そこまで報告して美紀恵に気付いたのか口ごもった。母親の前では酷な話だと思ったのだろう。
 だが、そんな高橋の気遣いもむなしく、美紀恵が悲痛な叫びを上げて地道に倒れ込んだ。
「どこいったんよぉぉぉ、てっぺいぃぃぃ」
 知美がしゃがんで美紀恵の肩に手をかけたが、それを大きく払い除けた。
「おまえんとこの子のせいやっ」
 祥彦を指さし、睨みつける。
 大人の怒りと憎しみに狂った顔など見たことのなかった祥彦の心臓は縮み上がった。
「みっちゃん、それはないやろ。この子は関係ないわ」
「いいやおまえのせいやっ、哲平を返せぇぇぇっ」
「そうや、あんたのせいや。あんだけしょっちゅうてっちゃんにくっついてるくせに離れるからや」
 美紀恵の憎しみが広司たちに向かないためなのか、公子も応戦する。
「久保さんやめとき、この子らのせいやないで。
 おいお前ら、この人旦那さんのとこへ連れてたって」
 団長が団員たちに合図を送り、中の二人が美紀恵を抱え起こして連れていく。
 その背を見送った団長が「そや」と背負った荷物から鎖と大きな南京錠を取り出した。残っていた村井にそれを差し出す。
「なんですか?」
「火葬場の扉に付けてくるんや。もう誰も出入りできんように厳重にな」
「ええ? 俺、いやや」
「はよ行てこいっ」
「あ、じゃ私もついて行きます。まだ捜索も続けたいですし」
 高橋が率先して団長から鎖と鍵を預かり先を行く。その後を三度頭をはたかれた村井がいやいやついて行った。
「んまに情けないやっちゃで。
 な、安本はん、この際サンマイバ全体にフェンス張って封鎖しよか――」
「そやな――」
「そやけど、哲平どこ行ったんやろか、こんなけ捜しても見つからんて――哲夫はん出張でおらん時に――」
「裏側に下りたんかもしれんな――こんな山でも結構深いで迷ってんのやろ――かわいそうや思うけど、今夜はもう無理やな――」
「もっと早う封鎖しといたらよかったなあ――管理人のわしの責任や」
 その言葉にうなずいた安本が祥彦を見た。
「そやさけ君のせいちゃうよ。気にしたらあかんで」
 そう言うと祥彦の頭を優しくぽんぽんと叩いた。
「当たり前です。この子は何も悪くありません」
 涙声の知美が我が子をきつく抱きしめた。
 だが、庇われれば庇われるほど祥彦は自分が悪いのだと思った。あの時自分が行こうと言わなければこんなことにならなかったのに――
 祥彦は涙の溢れる目をぎゅっと閉じた。

               *

「だから来たくなかったのよね」
 その声に閉じた目を開くと、知世が祥彦の顔を覗き込み「今更こんな雰囲気味わうの嫌だったから――」と、サーモンを一口で頬張った。
 知美はすでにその場を離れ、割烹着を着用してビールや日本酒を弔問客に振る舞っている。もちろん美紀恵たちとは距離を取っていた。
「俺もそう――忘れてしまってた時間のほうが多いけど、やっぱ心のどこかチクチクする時があったし、ここに来れば否が応でも思い出してしまうし――」
「でもお母さんは――たぶんだけど――もし来なかったらお兄ちゃんが悪かったって認めてるみたいで嫌だったんだろうね」
「う――ん、そうかもな」
 あれからきょうまで実家に二度と顔を出さなかった母親の気持ちを考えると罪悪感に苛まれる。
 やっぱ来たのは正解かも。あの視線を母さんだけに背負わせるのはいくら何でも――
「お兄ちゃんのせいじゃないからね」
 優しい声音に知世を見ると知らんぷりしてサーモンを頬張るところだった。
「ふふ、お前はいい妹だな――って、それっいくつ食う気? 俺の分なくなるだろっ」
「いいじゃん。お兄ちゃんはカッパでも食え」
「ちょっ、俺がキュウリきらいなの知ってんだろ――」
 寿司で揉めている二人の傍らに誰かが立った。
「こんばんは」
 その挨拶に二人は顔を上げ、同時に声を上げた。
「こ、広司?」
 あの頃と寸分違わぬ広司が知世の隣に座した。
「い、いや違うな――お前やす坊か?」
 祥彦の問いに成長したやす坊が照れたようにうなずいた。
「広司は?」
 辺りを窺ったが広司らしき若者は見えない。
「あー、兄ちゃん来てへんよ」
 やす坊がちらりと知世を見てから「実は兄ちゃん引きこもりなんよ」とささやいた。
「なぜ――あんなやんちゃ系だったのに――」
 絶句する祥彦にやす坊が自嘲気味にほほ笑む。
「あの時祥彦君のこと庇わんかったけど、ほんとは自分が悪いんやって、兄ちゃん一番わかってた。なんせ言い出しっぺやったかい。
 兄ちゃん超ビビりやったやん? あそこで消えた哲平のこと怖ぁてたまらんかってん、そやけ外《おもて》へ出られんくなったんよ――」
「泰央《やすお》っ、そんなとこいかんとこっち来《き》っ」
 怒鳴り声がやす坊の話を断ち切った。公子が鬼の形相で祥彦たちを睨んでいる。
 そこにいる弔問客全員の視線が集中した。そのせいで祥彦のことに気付いたのか、「ほら知美さんの――」や「あの久保さんとこの――」など、ひそひそ耳打ちし合いながら白い目を向けてくる。禁忌が残っているような田舎町だから仕方がないのだろうが視線は痛い。救いなのは知美の姿が今ここにないことだった。もしこの場にいたなら、あの時のような険悪なムードが漂い、祖母の通夜が台無しになりかねなかったので祥彦はほっとした。
「ごめん、おかん呼んでるよって行くわ――
 祥彦君もしんどかった思うけど、あれから兄ちゃんも苦しんでるんわかって欲しかったんよ」
 憂いを瞳に宿して立ち上がったやす坊を見上げ、祥彦はうなずいた。
 やす坊が母親のもとに行ってしまうと知世が大きなため息をついた。
「わたしのせいだ――」
「なぜ? 知世関係ないじゃん」
「あの事件の後ママとお兄ちゃん、お祖母ちゃんちに帰って来たでしょ。ママがみんなにあらまし話してるの聞いてて、お兄ちゃんのせいになってることに頭に来てさ、見つからないように家抜け出してあのクソガキんちまで行ったのよ。
 まだおばさんだけ帰ってなくて――で、やす坊にあいつを呼び出させて『お兄ちゃんのせいにしてるけど、本当に悪いのはお前だからサンマイバから哲平が迎えに来るぞ』って脅してやったのよ。
 あいつ――ほんとバカよね。自分で迷信だって言ってたんでしょ? しかも超ビビりだし――」
 鼻で嗤ってはいるものの、目や口元にほんの少しだけ反省の色が窺えた。だが、黙って見つめていた祥彦に気付き「後悔はしてないよ。だって原因はほんとにあいつだもん」と知世が笑った。
「――ところでお兄ちゃん、アレなんだったの?」
「アレって?」
「ほら客間の長押のあたり探ってたじゃない?」
「あ――別になんもないよ」
「なんもない? ウソつけっ、茶色い封筒をポケットにつっこんでたでしょっ」
「うわっ怖っ、お前、俺をどこまで見てんだよ」
「気持ち悪いこと言わないでよ。お兄ちゃんのことなんか見てないわっ。
 で、いったいなんなの?」
 祥彦はあきらめてブレザーのポケットから半分に折った封筒を出した。
「これは哲平からの手紙――」
 少しだけ湿り気を帯びて埃っぽさは消えていたが、封筒にはまだ灰色の蜘蛛の糸がところどころへばり付いていた。それを指で擦り取りながら折り目を広げる。
 受け取ってから今までまったく気づかなかったが、表面には鉛筆で『望月祥彦くんへ』と書かれていた。
 哲平の拙い文字に胸が詰まった。
「うわ怖っ、どういうこと?」
 覗き込んできた知世が顔を歪めた。
「あの日、読んでくれって哲平に渡されたんだ。内緒の相談があるって言ってたんだけど――でもあんなことになっただろ? 怖くて読めなくてさ、と言って捨てるのもなんだか怖くてさ――だからあの長押の隙間に隠したんだ。ここに来るまですっかり忘れてたけど――」
「ふーん、今までよく残ってたね――で、内容は何だったの?」
「まだ読んでないよ。そんな間なかったろ」
 祥彦は苦笑しながら、
「ま、俺はお前へのラブレターみたいなものじゃないかと思ってる。たぶん広司にばれたくなかったんだろうな。ライバルだと知れたら何されるかわかんないし――」
「わ~キモいわ~小学生が手紙で相談って――しかも行方不明の子からってますますキモ怖っ」
「まあまあそう言わずに読んでやろうぜ。俺もこの際けじめつけたいし」
「うーん、わかった――」
 知世がうなずくのを見てから、祥彦は注意深く封を切り中の手紙を出して広げた。
 紙は漢字ノートを破いたものだった。封筒よりも変色は免れていたが埃臭いような黴臭いようなにおいが立ち上っている。
「どれどれ――『祥彦君へ。ここに書いた話は絶対内緒にしてな。実はぼく見――」
 祥彦は全身の血が足元に落ちていくのを感じ、読み上げを止めた。
「やだこれ? どういうこと?」
 横から覗いていた知世も声を詰まらせる。
「いや、わからん――え? これは――え? まさか――」
 頭が混乱するも祥彦は哲平の文章から目を離すことができない。
「みなさん、すみませーん、ちょっと聞いてもらえますかぁ、ここに久保哲平君の手紙があるんですけどぉ――」
 知世が立ち上がり、飲み食いしながら思い出話に花を咲かせている弔問客たちに向かって大声を上げた。
「お、おいやめろよ」
 祥彦は妹を座らせようとセーラーの裾を引っ張る。だが知世はその手を払った。
「まさか内緒だっていう約束守るつもり? これは黙ってちゃだめなやつだよ。ちゃんと大人の意見聞かないと」
 そう言うと手紙を祥彦の手から奪い取り、みなに見えるよう掲げた。
 手や口を止めた人々が訝し気に知世と祥彦を交互に見ている。眉をひそめる者もいれば赤く染まった顔でのんきに笑っている者もいた。
「で、でも――」
「だってこのままじゃ、お兄ちゃんが悪者のままだもん。真実はわかんないけど、今ここにいる人だけでもこのこと教えなきゃ。でないとお祖母ちゃんも浮かばれない――」
「哲平の手紙?」
 突然男性の声がして、祥彦と知世は座敷の入り口に目を向けた。
 哲平の父、久保哲夫が困惑の表情で敷居の前に立っている。あの頃よりも髪が白くなり深い皺も刻まれていたが祥彦にはわかった。
 そこへようやく雑務から解放されたのか祥直も姿を見せた。肩越しに知美の姿もある。
「祥彦君へ。ここに書いた話は絶対内緒にしてな――」
 今だとばかりに知世が大きな声で読み上げ始めた。祥彦に止める間はなかった。
『祥彦君へ。ここに書いた話は絶対内緒にしてな。
 実はぼく見てもたんや。お母ちゃんと高橋先生がはだかで抱き合ってるとこ。ほら、この間遊んだ時サッカーボール取りに戻ったことあったやろ。あの時に。
 高橋先生がぼくに甘いんはこれが理由や思たよ。
 なあ、どうしたらええ? あの時、見つからんようにすぐ家から出たけど、ぼくが見たこと、お母ちゃん気ぃついてるみたいで、ぼくへの態度が変なんや。
 お父ちゃんに言うたほうがええんかな? 
 そやけどどう話したらええのかわからんのよ。二人がけんかするとこ見たないし、黙っててお母ちゃんと先生がこのままなんも絶対いややし。
 誰かに相談したいけど、この町の人には絶対できやん。あっという間に町中にうわさ広がってまうもん。
 でも祥彦君やったら口硬いし、他所の土地の子やし、ええやんな思て相談したんよ。
 なあ、ぼくどうしたらええ?
 お母ちゃんのこと怖いんよ。
 まさかお母ちゃんになんかされへんよな? ぼくのお母ちゃんやもん、大丈夫よな?
 そやけどものすごう怖ぁて、ほんまぼくどうしたらええんやろ。
 祥彦君、一緒に考えて。哲平より』
 座敷中がしんと静まり返った。
 青い顔の哲夫がつかつかと近づき、知世から手紙をひったくる。
「破かないでね。おじさん」
 警戒し先手を取る知世を無視し、食い入るように目を通している。
「た、祥彦、知世――それはいったい――」
 知美が夫にもたれながら我が子たちに問う。
 そこへ、
「ちょっとっ邪魔せんと退《ど》いてくれんか?」
 廊下から険のある声がした。
 振り返った知美と祥直が何も言わず通り道を開けると盆を持った美紀恵と公子が見えた。
「なんやの、親族や言うてぼうっと突っ立ってんと手伝《てと》たらええのに。都会の人はええ御身分やわ――」
 美紀恵が二人に嫌味を言いながらつかつか入ってくる。
「ほんま、ほんま。息子に事情あるからて長いこと実家にも顔出さんと、親の死に目にも会えんて情けな――っ美紀恵さんなにっ? 危ないやん」
 同じように嫌味を吐いてついて来ていた公子が急に立ち止まった美紀恵とぶつかりそうになり声を荒げた。
 だが、美紀恵は黙ったまま、祥彦たちの横に立ち憤怒の表情で手紙を突きつける夫を見つめていた。
「美紀恵っ、これどういうことやっ」
 哲夫が叫び、初めから手紙を読み上げた。
 美紀恵の手から盆が落ち、がしゃんと大きな音を立てた。徳利が割れ日本酒の香りが祥彦のもとにまで漂ってくる。
「どういうこと? 美紀恵さん――」
 わけもわからず震える公子が自分の盆を落とさないようそばの座卓に置いた。
「どういうことか、うちが聞きたいわ。なにそれ、哲夫さん?」
「哲平の手紙や」
「そんなんあるわけないわ。あの子はこの子のせいでサンマイバ行って行方不明のままなんやから」
 美紀恵の人差し指が祥彦に突き付けられる。
 それに受けて立つように知世が美紀恵に食って掛かった。
「これはあの日、お兄ちゃんが哲平君からもらったものよ。怖かったお兄ちゃんはそのまま手紙をお祖母ちゃんちに隠してたのをきょう見つけたのっ」
「哲夫さんやすやすと騙されたらあかんで。全部こいつらの作り話や、自分の罪消そう思て、ご丁寧にそんな小道具まで作って――こまっしゃくれた妹までグルやなんて――」
「美紀恵っ」
 哲夫が血を吐くほど激しく妻の名を叫ぶ。
 美紀恵の喉がひゅっと鳴って一瞬呼吸が止まった。
「みっちゃん――」
 親友だった頃の呼び名で知美が呼ぶと美紀恵の目から大粒の涙がこぼれ落ち、その場にくずおれた。
「あの子――うちを汚いもん見る眼つきで見てたから――哲夫さんに、町のみんなにばらされる思たから――」
「お前がやったんか?」
 激しい嗚咽にかぶって哲夫が訊くと、美紀恵が何度も縦に横に首を振る。
「はっきりせえっ、お前がやったんかっっ」
 哲夫の怒声に美紀恵がゆっくり深くうなずく。
 哲平は実の母親に殺されていた。

 快晴の空の下、祖母の葬儀は滞りなく進行し、火葬も骨上げも無事に済んだ。
 もちろん哲平の両親は葬儀に参列しなかった。今頃警察とともにサンマイバにいるだろう。
 知世とともにロビーのベンチでぼんやり座っていた祥彦の耳に女性のすすり泣きと「もういいのよ」という知美の声が聞こえて来た。振り返ると公子が知美に頭を下げて謝っている。
 知美の傍らに立つ祥直が祥彦たちに気づいて近づいてきた。
「父さんたちはまだ事務的な処理があるから真知子さんと一緒にここに残ってるよ。だからお前たちは先に戻ってなさい」
「わかった――」
「今日中に帰るから、ちゃんと荷物まとめておくんだぞ」
「はーい」
 知世が立ち上がり、祥彦も腰を上げて玄関に向かった。
 自動ドアを出るとむっとした夏の空気に包まれた。
「祥彦君、知世ちゃん」
 広い駐車場の片隅でやす坊が手を振っている。
「お、おうっ」
 知世と顔を見合わせてから祥彦も手を振った。
 やす坊が小走りに近寄って来ると、
「今からサンマイバへ行かへん? まだ警察いてる思うし。どうなったんか僕ら知る権利あるやん、当事者やもん」
「まあそうだけど――」
「そうよ、お兄ちゃん、行こっ。どうなったかちゃんと知ったほうがすっきりして帰れるじゃない」
 迷う祥彦の手を知世が引っ張る。
「そう――だな」
 哲平のためにもそれがいいと考え、祥彦はサンマイバに向けて歩き出した。

 山の麓にはパトカーや警察関係車が数台駐車されていた。その脇を通り、山道の入り口に立つ。あの時と同じく丈高い雑草が蔓延っていたが、黄色い規制線が張られ、進入路が見えるよう草が刈り取られていた。
 警戒しながら進んでいくと六地蔵が見えてきた。
 サンマイバはあの頃と同じまま――ではなかった。周囲が高い金網で囲まれている。
 六地蔵だけは金網の外にあって供花やお供えの痕跡があった。
 ドラム缶で鎖を渡していた辺りに鍵のついた金網のドアがあったが、今は規制線が張られてはいるものの鍵が外され全開になっている。
 忙《せわ》しないたくさんの声が中から聞こえていたが、入口周辺には誰もおらず、祥彦たちは見咎められることなくテープをくぐり侵入できた。
 捜査に関係ないからなのか、かくれんぼした場所や廃墓地は雑草まみれだったが、入口から火葬場の周囲まで入念な草刈りがされ、警官たちが作業している姿が広く見渡せた。
 祥彦たちは伸び放題に荒れた植え込みの陰に隠れて徐々に近づき、しゃがんで様子を窺った。
 二人の警官が立ち話している。一人の顔に見覚えがあった。
 安本だ。
 あの頃より少し老けた安本の会話の端々が聞こえ、祥彦は耳を澄ませた。知世ややす坊も息を潜める。
 哲平の白骨化した遺体は火葬炉の中に隠されていたということが聞き取れた。首の骨が折れていたという。
 祥彦は唇を噛み締め目を閉じた。
 あの時見えた白いものは自分たちをつけてきた哲平の母だったのだと得心した。
 だが――いつもそばにいた哲平。ほんの少し目を離しただけなのに――草むらの中で背中を追いかけていたのに――なぜちゃんとそばにいてやらなかったのか。なぜもっとよく探さなかったのか――
 悪いのは美紀恵だ。そう判明しても罪悪感が消えることはなかった。
 安本たちの会話は続いている。
「首絞めたいうて自供したらしいけど、実の母親が骨折れるほど首絞めるてな――」
「浮気がばれんのよっぽど怖かったんやろ。もちろん高橋いうあの先生もグルやろな。遺体あんの知っててなんもない言うたんやから」
「そういやあの日の捜索、率先して火葬場へ行ってたわ。消防団員でも怖がるとこ、炉の中まで確かめた言うてな、生徒のため言うてもようやるわ思て感心してたのに――
 あの時みなでちゃんと確かめっとたらなあ。今頃言うても遅いけど――」
「高橋今どこに赴任してんのやろな」
「どこにおってもすぐ見つかる。逃げる前に逮捕されるわ。
 それにしても美紀恵はん、よう今まで平気な顔でみなを騙しとったな――哲平も哲夫はんもほんまかわいそうや――そやけどな、もっとかわいそうなんは今まで罪なすりつけられてたあの子やで」
「ああ、知美ちゃんの息子な。それと公ちゃんの上の子もや――」
 それを聞いたやす坊が鼻をすすり上げた。
「誰やっ」
「――」
 嗚咽を押さえながらやす坊が立ち上がる。祥彦も知世とともに立ち上がって安本に頭を下げた。
「泰央っ――それから――祥彦君と妹さんか? お通夜で見かけたわ。あたりまえやけど大きいなったな」
 安本が感慨深げにほほ笑んだ。
「何してんや君ら。こんなとこにいてたらあかんで」
 もう一人の警官が咎めたが、
「まあええやないか、沢村はん。
 その代わり他の警官に見つからんようにせな――」
 安本が声を潜めた。
「仕方ないな――あ、来た。はよ隠れ」
 苦笑する沢村巡査が、急に顔色を変えて合図を送る。
 三人は慌てて植え込みの陰に隠れた。
 枝の隙間から覗くと火葬場から出てくる美紀恵が見えた。婦警に連行され、草刈りの道を打ちひしがれたように歩き、金網のドアを出て行く。
 その姿が見えなくなるまで目で追いかけ、祥彦は無意識に立ち上がっていた。
「お兄ぃちゃん」
 知世がそっとブレザーの裾を引っ張る。
「え? ああ」
 再びしゃがみ込もうとしたが、火葬場の前に立っていた哲夫に気付かれた。
 周囲を確認して小走りで駆けてくる。その姿に知世とやす坊も戸惑いながら立ち上がった。
「会えてよかった。君らに謝らなあかん思てたんよ。長いこと辛い思いさせてすまんかったなあ。あいつは自分の罪隠すためにわざと祥彦君を責めとった。知美さんにも嫌な思いさせたし、広司君や公子さんにも辛い思いさせた――ほんまに、ほんまにすまんかった――
 後で広司君にも謝んに行くさけな」
 赤く腫らした目で祥彦と知世、そしてやす坊を見てそう言うと火葬場にいる警官たちのもとに再び戻っていった。
「哲夫はんもこれからしんどいな――」
 後姿を見送る沢村巡査の言葉に安本がうなずき、そして祥彦を振り返る。
「君らもきょう帰るんやろ? はよ行かなお父さんら待ってるんとちゃうか? 来年――また来年遊びにおいで。絶対やで」
 満面の笑みで祥彦の肩をぽんと叩き「ほなな」と沢村巡査とともにその場を離れていく。
「わたしも広司に謝らなくっちゃ――やす坊一緒について来て――というわけで、お兄ちゃん、また少し遅くなるけどパパとママにうまく言っておいて」
「ああ、わかった。なるべく早く戻ってこいよ」

 麓に下りるとパトカーが一台いなくなっていた。美紀恵を乗せてすでに去ったようだ。
 広大な田んぼに囲まれた分かれ道で、知世とやす坊が藤田家のほうへ向かい、祥彦は伯母の家へと歩を進めた。
 まだまっすぐに立つ稲穂があの日見たサンマイバの草波のように夕刻の生ぬるい風になびいている。
「かくれんぼからようやく解放されたな、哲平」
 目をしばたかせ、夕焼けに染まる青空を見上げた。
 一本の雲を伸ばしながら飛行機が飛んでくる。
 祥彦は頭上を過ぎていく飛行機雲を追って後ろを振り返った。
 あははははははは――
 楽しそうな笑い声を上げ、折れた首を揺らして哲平が走ってきた。