きゃはは。
はしゃぐ子供の声が聞こえたような気がして、子供部屋を出ようとしていた恵子は思わず中を振り返った。
たったいま照明を消したばかりの薄暗い部屋からは子供たちの寝息しか聞こえてこない。
訝《いぶか》し気に眉を寄せ、恵子はそっと部屋に戻って幼い姉妹の眠る布団に近付いた。
希美も香苗も頭を枕に埋めて深く眠っている。
寝言?
訝しげに眉を寄せ、子供たちの寝顔をもう一度確かめにベッドに近づく。
幼い姉妹は枕に頭をうずめ、すやすやと寝息を立てていた。
彼女はほっと溜息をつくと、今度こそ部屋を出てジーンズのポケットに入れた携帯電話を取り出し操作した。
「お待たせー。今から行くから」
近所の居酒屋で待つ友人にそう伝える。電話の向こうから仲間たちの楽しげに騒ぐ声が聞こえてきた。
夫の出張日には子供たちを早めに寝かしつけ、友人たちと居酒屋で呑むことが彼女の楽しみになっていた。もちろん夫には内緒である。
こんな楽しみでもなけりゃ、忙しい毎日やってけないわ。
心中でつぶやき、玄関に鍵をかけた。
彼女が自転車に乗り、いそいそと居酒屋に向かっている頃、子供部屋の片隅に置いたテディベアが動いた。まるで誰かが手に取ったかのように宙に浮いたそのぬいぐるみからぽっと赤い炎が灯った――
*
一軒の家を燃やす烈しい炎が目の前で揺らいでいた。
無数の火の粉が幻想的な舞いを踊りながら離れて消えていく。
遠巻きに眺める野次馬たちの顔が炎に照らされ、好奇心に満ちた瞳がオレンジ色にきらめく。
「人なんてみんなそんなものだ。自分に火の粉がかからなければ火事はただの座興だ」
女は渦巻く火の粉をまとい、野次馬や消火活動する消防隊員たちをじっと見つめていた。
髪をふり乱した若い女が燃える家に走り込もうと、野次馬を掻き分けながら飛び出してきた。野次馬の整理していた警官が慌てて押しとどめる。
「子供たちが中にいるのおお。誰か助けて、子供たちがあああーのぞみぃぃぃかなえぇぇぇ」
屈強な警官をものともせず、若い母親は叫びながら燃え盛る家に近づこうとし手を伸ばした。
その瞬間、屋根が音を立てて崩れた。
大量の火の粉がばっと吹き出す。
「いやああああああっ」
喉がつぶれるほどの凄まじい悲鳴を上げて若い女は警官の腕の中で崩れ落ちた。
「お前たちの母親か」
火の粉をまとう女が傍らに佇む黒焦げた幼女二人に問うた。
炭の塊になった二つの頭がこくりと頷く。
「そうか。さぞかし悲しいであろう、そして己の愚かさを憎むであろう。哀れだ――
だが、お前たちの母親はこうなる前に気づくべきだったのだ。
子供だけ置いて留守にすべきではないことを。
お前たちの母親はお前たち二人を殺したも同然なのだよ」
二人の黒い体の内部からめらめらと赤い火が熾《おこ》り始めた。
他にも数人の黒い子供たちが女の周囲にいた。どの子も身体の中心に赤い熾火を抱え、火の粉の舞う中、楽しそうに輪になって踊っている。
黒い子供たちは新しく仲間入りした姉妹の手を取り輪に入れて踊り続けた。
消防隊の決死の努力もむなしく火の消える気配はない。
きゃはは。
それどころか、子供たちが火の粉を舞散らしてはしゃぐたびに火の勢いは増した。
興奮気味の野次馬や赤い炎を映した消防隊員、救急車に運ばれていくぐったりした母親を見ながら、女は人だった頃の自分を思い出していた。
*
「娘が、娘がいるんですっ助けてくださいっお願いっ誰かっっ」
あの時わたしは声の限りに叫んだ。
人々はわたしを無視して燃え盛る炎に見入っていた。笑いながらスマホを向けている若者たちもいた。
消防士たちは消火活動に夢中で、わたしの叫びを聞いてくれる者は誰一人いなかった。
ならば自分で。娘が助かるなら自分の命など惜しくない。
燃え落ちそうなハイツに飛び込もうとしたが、それも制止された。
「もう、手遅れだから」
派出所の顔なじみの警官がわたしに言った。
あの子を助けられないならわたしも一緒に死にたかった。だが、わたしの幼い娘は一人ぼっちで焼け死んだ。
深夜、眠っていた娘を置いて、少しだけ、ほんの少しの時間だけ、と買い忘れた食材を求めて近くのコンビニへ出かけた。こんなことは初めてだった。
ほんの少しなら、娘も目を覚ますことはないだろう。もし目覚めても、母親がいない恐怖を感じる間もないぐらいだろう。
わたしは財布を片手にサンダル履きで急いで外出した。
それが永遠の別れになろうとは思いもせずに。
失火の原因は隣の部屋の住人だった。灰皿に溜めた吸殻の山から火が出てのだという。スマホゲームに夢中で、気づいた時は周囲に燃え拡がり、なす術がなかったらしい。
とはいえ、当人は消火活動の努力を一切せず、いち早く逃げ出してかすり傷一つ負わなかった。
何の罪もないわたしの娘は焼け死んだというのに。
娘はわたしの宝物だった。
なぜあの時、あの子を一人にしたのだろう。
身体を絞るような悲しみの中、自責の念に苛まれた。
気が狂いそうだった。いっそ狂ってしまえと思った。
どんなに後悔しても時間はもとに戻せない。あの子は元に戻らない。泣いても、泣いても、悔やんでも、悔やんでも、どうにもならない。
出張から帰って来た夫に責められた。夫の両親にも責められた。実の両親からも責められた。
床に頭を擦りつけて謝っても夫も両親たちも許してはくれなかった。それは仕方のないこと。
あの子にもずっと謝り続けていたが、けっして許してくれないだろうとわかっている。
わたしは近隣の住人たちからも白い目で見られた。
なんてひどい母親だと。
ひどい母親?
確かにそうかもしれない。しれないが――
ずっと下を向いたままだったわたしは涙が枯れ果て乾いた目を上げた。
もっとひどい母親が他にもたくさんいるじゃないか。
言い逃れするつもりはない。自分を正当化するつもりもない。わたしはあの子にとって本当にひどい母親だから。
でも――
娘が焼け死んでまだひと月も経っていないある夜、わたしはハイツの焼け跡で自分の身を焼いた。
ただ焼いただけではない。愚かな母親への悲しみと憎しみと怒りを呪力に自らを焔に変えたのだ。
わたしは焔だ。
子供だけを置いて出かけた部屋に出《い》でる焔――
ひどい母親に同じ思いをさせるための焔――
泣くがいい。わめくがいい。どんなに悔やんでももう遅い。
これからもわたしの焔は燃え続ける。
*
ようやく鎮火し、水浸しの焼け跡に湯気が立ち上り始めると黒い子供たちは踊りを止《や》めた。
「さあ、もう行《ゆ》こう」
黒い子供たちが駆け寄ってくる。
火の粉を散らしながら焔の腕を伸ばし、子供たちを抱えた。
「いやあああっいやあああっ」
救急隊員の手を振りほどいて母親が戻ってきた。
「のぞみぃぃぃかなえぇぇぇ」
煙のくすぶっている焼け跡の前に座り込み、涙と鼻水で濡れた顔を流れ出た煤だらけの地面に擦りつける。
女は熾火の宿る目で冷ややかに母親を見ていた。
警官と隊員が地面から引き剥がすように母親を立たせてその場から連れ出そうとした。
だが、母親は途中で子供の名を繰り返し呼んで泣き崩れ、地面に伏した。
黒い子供が二人、女の腕から離れて母親に駆け寄った。『ママ』『ママ』と泣きながら寄り添い抱きしめる。
母親に二人は見えない。
だが「ごめんなさい。ごめんなさい」と二人がそこにいるのを知っているかのように土下座し続けた。
二人の黒い身体の奥から熾火が消えた。ぽろぽろと煤を落としながら、隊員に起こされ連れられて行く母親の後を手をつないでついて行く。
他の子供たちがそれを見て『ママ』『ママ』と泣きだした。
「泣くのはおやめっ、お前たちの母親はわたしなのだよ」
女の内から焔が激しく燃え、火の粉が噴き出した。
だが子供たちはいっこうに泣き止まず、母を求めながら一人また一人と女のもとから消えていく。
「待ちなさい。待って――」
女の目から二度と浮かぶことのなかった涙が滲み出た。それは頬を伝うことなく、自らの焔ですぐ蒸発した。
「なぜお前たちは愚かな母親を慕うのだ。なぜっ」
女の中で火が爆ぜ、全身が燃え盛る焔となる。
だが、燃える手にそっと何かが触れたことに気づいた女はうつむいて自分の手を見た。
一人残った黒い子供が女の手を握りしめていた。
その子の目が女をじっと見つめている。
炭の奥の瞳が輝いていた。赤い熾火ではなく、無邪気な光だ。
女はそれに見覚えがあった。
握られた手から焔が消えていく。
「ずっとわたしのそばにいたの?」
子供がこくりとうなずいた。
「ママを許してくれるの?」
もう一度こくりとうなずく。
女の目から涙が溢れた。
それは蒸発することなく頬を伝い流れ、燃え盛っていたすべての焔を消していった。
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