恐怖日和 ~ホラー小説書いてます~

見よう見まねでホラー小説書いてます。
たまにグロ等閲覧注意あり

恐怖日和 第六十七話『焔~ほむら~』

2022-05-13 11:46:07 | 恐怖日和



 きゃはは。
 はしゃぐ子供の声が聞こえたような気がして、子供部屋を出ようとしていた恵子は思わず中を振り返った。
 たったいま照明を消したばかりの薄暗い部屋からは子供たちの寝息しか聞こえてこない。
 訝《いぶか》し気に眉を寄せ、恵子はそっと部屋に戻って幼い姉妹の眠る布団に近付いた。
 希美も香苗も頭を枕に埋めて深く眠っている。
 寝言?
 訝しげに眉を寄せ、子供たちの寝顔をもう一度確かめにベッドに近づく。
 幼い姉妹は枕に頭をうずめ、すやすやと寝息を立てていた。
 彼女はほっと溜息をつくと、今度こそ部屋を出てジーンズのポケットに入れた携帯電話を取り出し操作した。
「お待たせー。今から行くから」
 近所の居酒屋で待つ友人にそう伝える。電話の向こうから仲間たちの楽しげに騒ぐ声が聞こえてきた。 
 夫の出張日には子供たちを早めに寝かしつけ、友人たちと居酒屋で呑むことが彼女の楽しみになっていた。もちろん夫には内緒である。
 こんな楽しみでもなけりゃ、忙しい毎日やってけないわ。
 心中でつぶやき、玄関に鍵をかけた。
 彼女が自転車に乗り、いそいそと居酒屋に向かっている頃、子供部屋の片隅に置いたテディベアが動いた。まるで誰かが手に取ったかのように宙に浮いたそのぬいぐるみからぽっと赤い炎が灯った――

                 *

 一軒の家を燃やす烈しい炎が目の前で揺らいでいた。
 無数の火の粉が幻想的な舞いを踊りながら離れて消えていく。
 遠巻きに眺める野次馬たちの顔が炎に照らされ、好奇心に満ちた瞳がオレンジ色にきらめく。
「人なんてみんなそんなものだ。自分に火の粉がかからなければ火事はただの座興だ」
 女は渦巻く火の粉をまとい、野次馬や消火活動する消防隊員たちをじっと見つめていた。
 髪をふり乱した若い女が燃える家に走り込もうと、野次馬を掻き分けながら飛び出してきた。野次馬の整理していた警官が慌てて押しとどめる。
「子供たちが中にいるのおお。誰か助けて、子供たちがあああーのぞみぃぃぃかなえぇぇぇ」
 屈強な警官をものともせず、若い母親は叫びながら燃え盛る家に近づこうとし手を伸ばした。
 その瞬間、屋根が音を立てて崩れた。
 大量の火の粉がばっと吹き出す。
「いやああああああっ」
 喉がつぶれるほどの凄まじい悲鳴を上げて若い女は警官の腕の中で崩れ落ちた。
「お前たちの母親か」
 火の粉をまとう女が傍らに佇む黒焦げた幼女二人に問うた。
 炭の塊になった二つの頭がこくりと頷く。
「そうか。さぞかし悲しいであろう、そして己の愚かさを憎むであろう。哀れだ――
 だが、お前たちの母親はこうなる前に気づくべきだったのだ。
 子供だけ置いて留守にすべきではないことを。
 お前たちの母親はお前たち二人を殺したも同然なのだよ」
 二人の黒い体の内部からめらめらと赤い火が熾《おこ》り始めた。
 他にも数人の黒い子供たちが女の周囲にいた。どの子も身体の中心に赤い熾火を抱え、火の粉の舞う中、楽しそうに輪になって踊っている。
 黒い子供たちは新しく仲間入りした姉妹の手を取り輪に入れて踊り続けた。
 消防隊の決死の努力もむなしく火の消える気配はない。
 きゃはは。
 それどころか、子供たちが火の粉を舞散らしてはしゃぐたびに火の勢いは増した。
 興奮気味の野次馬や赤い炎を映した消防隊員、救急車に運ばれていくぐったりした母親を見ながら、女は人だった頃の自分を思い出していた。

                *

「娘が、娘がいるんですっ助けてくださいっお願いっ誰かっっ」
 あの時わたしは声の限りに叫んだ。
 人々はわたしを無視して燃え盛る炎に見入っていた。笑いながらスマホを向けている若者たちもいた。
 消防士たちは消火活動に夢中で、わたしの叫びを聞いてくれる者は誰一人いなかった。
 ならば自分で。娘が助かるなら自分の命など惜しくない。
 燃え落ちそうなハイツに飛び込もうとしたが、それも制止された。
「もう、手遅れだから」
 派出所の顔なじみの警官がわたしに言った。

 あの子を助けられないならわたしも一緒に死にたかった。だが、わたしの幼い娘は一人ぼっちで焼け死んだ。
 深夜、眠っていた娘を置いて、少しだけ、ほんの少しの時間だけ、と買い忘れた食材を求めて近くのコンビニへ出かけた。こんなことは初めてだった。
 ほんの少しなら、娘も目を覚ますことはないだろう。もし目覚めても、母親がいない恐怖を感じる間もないぐらいだろう。
 わたしは財布を片手にサンダル履きで急いで外出した。
 それが永遠の別れになろうとは思いもせずに。

 失火の原因は隣の部屋の住人だった。灰皿に溜めた吸殻の山から火が出てのだという。スマホゲームに夢中で、気づいた時は周囲に燃え拡がり、なす術がなかったらしい。
 とはいえ、当人は消火活動の努力を一切せず、いち早く逃げ出してかすり傷一つ負わなかった。
 何の罪もないわたしの娘は焼け死んだというのに。
 娘はわたしの宝物だった。
 なぜあの時、あの子を一人にしたのだろう。
 身体を絞るような悲しみの中、自責の念に苛まれた。
 気が狂いそうだった。いっそ狂ってしまえと思った。
 どんなに後悔しても時間はもとに戻せない。あの子は元に戻らない。泣いても、泣いても、悔やんでも、悔やんでも、どうにもならない。
 出張から帰って来た夫に責められた。夫の両親にも責められた。実の両親からも責められた。
 床に頭を擦りつけて謝っても夫も両親たちも許してはくれなかった。それは仕方のないこと。
 あの子にもずっと謝り続けていたが、けっして許してくれないだろうとわかっている。
 わたしは近隣の住人たちからも白い目で見られた。
 なんてひどい母親だと。
 ひどい母親?
 確かにそうかもしれない。しれないが――
 ずっと下を向いたままだったわたしは涙が枯れ果て乾いた目を上げた。
 もっとひどい母親が他にもたくさんいるじゃないか。
 言い逃れするつもりはない。自分を正当化するつもりもない。わたしはあの子にとって本当にひどい母親だから。
 でも――
 娘が焼け死んでまだひと月も経っていないある夜、わたしはハイツの焼け跡で自分の身を焼いた。
 ただ焼いただけではない。愚かな母親への悲しみと憎しみと怒りを呪力に自らを焔に変えたのだ。
 わたしは焔だ。
 子供だけを置いて出かけた部屋に出《い》でる焔――
 ひどい母親に同じ思いをさせるための焔――
 泣くがいい。わめくがいい。どんなに悔やんでももう遅い。
 これからもわたしの焔は燃え続ける。

                 *   

 ようやく鎮火し、水浸しの焼け跡に湯気が立ち上り始めると黒い子供たちは踊りを止《や》めた。
「さあ、もう行《ゆ》こう」
 黒い子供たちが駆け寄ってくる。
 火の粉を散らしながら焔の腕を伸ばし、子供たちを抱えた。
「いやあああっいやあああっ」
 救急隊員の手を振りほどいて母親が戻ってきた。
「のぞみぃぃぃかなえぇぇぇ」
 煙のくすぶっている焼け跡の前に座り込み、涙と鼻水で濡れた顔を流れ出た煤だらけの地面に擦りつける。
 女は熾火の宿る目で冷ややかに母親を見ていた。
 警官と隊員が地面から引き剥がすように母親を立たせてその場から連れ出そうとした。
 だが、母親は途中で子供の名を繰り返し呼んで泣き崩れ、地面に伏した。
 黒い子供が二人、女の腕から離れて母親に駆け寄った。『ママ』『ママ』と泣きながら寄り添い抱きしめる。
 母親に二人は見えない。
 だが「ごめんなさい。ごめんなさい」と二人がそこにいるのを知っているかのように土下座し続けた。
 二人の黒い身体の奥から熾火が消えた。ぽろぽろと煤を落としながら、隊員に起こされ連れられて行く母親の後を手をつないでついて行く。
 他の子供たちがそれを見て『ママ』『ママ』と泣きだした。
「泣くのはおやめっ、お前たちの母親はわたしなのだよ」
 女の内から焔が激しく燃え、火の粉が噴き出した。
 だが子供たちはいっこうに泣き止まず、母を求めながら一人また一人と女のもとから消えていく。
「待ちなさい。待って――」
 女の目から二度と浮かぶことのなかった涙が滲み出た。それは頬を伝うことなく、自らの焔ですぐ蒸発した。
「なぜお前たちは愚かな母親を慕うのだ。なぜっ」
 女の中で火が爆ぜ、全身が燃え盛る焔となる。
 だが、燃える手にそっと何かが触れたことに気づいた女はうつむいて自分の手を見た。
 一人残った黒い子供が女の手を握りしめていた。
 その子の目が女をじっと見つめている。
 炭の奥の瞳が輝いていた。赤い熾火ではなく、無邪気な光だ。
 女はそれに見覚えがあった。
 握られた手から焔が消えていく。
「ずっとわたしのそばにいたの?」
 子供がこくりとうなずいた。
「ママを許してくれるの?」
 もう一度こくりとうなずく。
 女の目から涙が溢れた。
 それは蒸発することなく頬を伝い流れ、燃え盛っていたすべての焔を消していった。

恐怖日和 第六十六話『兄想い』

2022-05-12 00:37:09 | 恐怖日和



 永瀬晋也は職場の先輩、渡辺の住むハイツの二階を見上げた。
 まじめな渡辺が三日も無断欠勤したので、上司から見て来てくれと頼まれたのだ。
 連絡するのも無理なやむを得ない急用でも出来たのか。そう様子を窺っていたが、さすがに三日も連絡がないのはちょっとおかしい。
 一人暮らしの身で病気か事故などの不測の事態に陥っているのではないか、と上司ともどもみな不安になった。
「若いから大丈夫だと思うが――」
 もごもごと言葉を濁しているのは最悪の場合を考えているのかもしれない。
 そんな状況の中へ一人で行かされるなんて、と晋也はふと思ったが、自分を可愛がり何かと助けてくれる先輩だ。少しでも恩返ししなければ――
 外階段を上って『渡辺』と書かれたプレートの下にある小さなインターホンを押す。
 ドアの向こうには何の気配もない。もう一度押し、ドアに耳を寄せて気配を窺うも同じだ。
「せんぱーい」
 ノックしながら呼びかけ、もう一度ドアに耳をつけた。
 かさこそと微かな音が聞こえた途端、ドアが開いて晋也は側頭部を打ち付けた。
「いったぁ」
「ご、ごめんなさい」
 顔を覗かせたのは先輩ではなく可憐な女性だった。
「え、あれ? 先輩の部屋――ですよね」
 晋也はしどろもどろになりつつ、ネームプレートを確認した。やはり渡辺と書かれているが、同性の部屋違いなのだろうか。
 いや以前、飲み会の後、二人で飲み直そうと連れて来てもらった部屋に間違いない。
 ということは、か、彼女ぉ?
 戸惑いから驚きに変わった晋也の表情を見て、女性はくすくすと可愛らしく笑い「わたし、妹です」と自己紹介し始めた。
「千弥子と言います。お兄ちゃんがいつもお世話になってありがとうございます」
 年齢は不明だが学生ではなさそうだ。衣服の雰囲気が瀟洒《しょうしゃ》で大人っぽい。すらりとした色白の美人で、黒目がちの大きな瞳は自分の好きな女優に似ているな、と自己紹介をしながら晋也は思った。
「僕のほうこそ、いつも先輩にお世話になってます」
「面倒見のいい兄ですから」
 うふふと口元に手を当てた笑顔を見て、マジ先輩の妹でよかったと心の中でガッツポーズをとる。
 だが、先輩が僕なんかと交際させてくれないだろうなとも思った。
 妹がいるなんて今まで教えてくれなかったのがその証拠だ。きっと先輩にとって僕は出来の悪い後輩なんだ。
 少々失望しながら、
「あの――先輩は? この間から無断欠勤してるんで様子を見に来たんですが――」
 千弥子の肩越しに奥を覗く。確か玄関入ってすぐはダイニングキッチン、右手に浴室やトイレがあり、奥には六畳の和室があったはずだ。
「わざわざすみません――ずっと動けないくらい具合が悪かったらしくて。少しマシになったんでって、わたしに連絡が来て――念のため、今病院に行ってるんですけど――申し訳なかったです。会社に連絡してなかったんですね。知っていたら先に連絡させたんですが」
 千弥子が深々と頭を下げた。
「いえいえ。でも水臭いなぁ先輩。いくら動けなくても電話くらいくれてもよさそうなのに――僕ならすっとんで来れるのに――で、病状は?」
「まだ連絡来ないんですよ。でもだいぶ良くなってたみたいですから大丈夫だと思います。永瀬さんもお忙しいでしょうから、もうお帰りになって下さい。帰宅したら連絡させますので――」
「きょうはこのまま直帰してもいいって上司が許可くれてるんで、僕このまま先輩待ちます。心配ですから」
「でも――いつ戻るかわかりませんし――」
「大丈夫です。ぼくひとり暮らしで、遅くなっても大丈夫なんで」
 ちらりと千弥子に対する迷惑を考えたが、先輩のいない間に自分をアピールをしておこうと、いつになく積極的になった。
「――じゃ、どうぞ」
 ようやく千弥子に招かれ靴を脱いだ晋也はダイニングに上がった。きれいに掃除され、前は開けっ放しだった和室の襖も浴室のガラスドアもきちんと閉められている。
 ピカピカに磨かれたシンクや整理整頓されたテーブルの上を見て感嘆の声を上げた。
「この前来た時はすっごい汚かったのに、いいなあ先輩はできる妹さんがいて」
「永瀬さんったらお上手ですね。確かに兄は片づけが下手だけど」
 くすくす笑うと千弥子は「どうぞおかけになって」とダイニングチェアを勧め、流し台で飲み物の準備に取り掛かる。
「あ、お構いなく。うわ、こんなことなら菓子折りの一つでも持って来るべきだった。先輩甘いものきらいだし、大好きなビールっていうのも遊びに行くんじゃないしと思って――」
 気の利かないやつだと思われたくなくて、饒舌に言いわけを並べ立てていた晋也は、マグカップを持ったままじっと見つめる千弥子に気づいて口を閉じた。
 うわっ、急に緊張してきた。
「インスタントコーヒーしかないですけど、どうぞ。こんなコップでごめんなさい」
 ことっとテーブルに黒いコーヒーのマグカップを置くと向かい側に座る。
「いえ、ありがとうございます」
 晋也はカフェオレが好きだが、先輩はブラック派だからミルクはないだろうなとあきらめて口をつけた。せっかく千弥子が入れてくれたのだからここは我慢しないと。
「わたしね、兄のこと大好きなんです」
「へ?」
 唐突な千弥子の告白に晋也は素っ頓狂な声を上げてしまった。
 ああ兄妹愛ねと思い直し、
「かっこいいですもんね、先輩。その割に彼女いないんだよな」
 しまった、一言多かったと思ったが、出してしまったものは仕方ない。悪口に聞こえまいか、どう言いわけしようか、晋也は思案した。
「わたしのせいなんです。兄に恋人が出来ても邪魔しちゃうから」
「ええ?」
「だってあんな素敵な兄なのに、彼女はみんな嫌ぁな女ばかりなんだもの」
「へ、へえ。僕まだ先輩と付き合ってる女性誰も見たことないんでわからないですけど」
 コーヒーが苦くてテーブルに戻す。
「やっぱり兄とつり合う人でないとって思うの。だからわたし、つい邪魔しちゃって」
 しなやかな指を口元に当て、くすくすと千弥子は笑った。
「彼女なんかいなくても妹さんがいてくれたらいいですよね。こうやって身の回りの世話してくれるんですから。僕はすごくうらやましいです――って、あれ?」
 千弥子を褒めて自分に好意を持ってもらいたいのに、これじゃ兄妹愛が強まる一方じゃないか? 僕はいったい何を言ってるんだ?
 慣れない体験に緊張し過ぎて、彼女に振り向いてもらうにはどう言えばいいのか、わからなくなってきた。
「そうですよね。わたしがいれば彼女なんていりませんよね。さすが永瀬さん。わかってくれて嬉しいわ」
 さすが? 嬉しいわ? これって僕に好意を示してくれてるのか? いやいやなんか違うな。どうすればうまく伝わるんだろう。
 頭の中が整理できない。しかもさっきから閉じられた和室のほうから聞こえるどんどんという音が邪魔をして、よけいに考えがまとまらない。
 うるさいなあ、静かにしてよ、と心の中で舌打ちした。
 焦る晋也に気づきもせず千弥子は、
「ほんと、そう。秀匡《ひでまさ》さんにはわたしがいればいいのよ」
 夢見心地な表情で笑みを浮かべている。
「秀匡さん? どうして先輩を名前で呼ぶんですか。ああ、兄妹でも名前で呼び合うタイプなんだ」
 晋也が一人で納得している間も、「そう、わたしがいれば――うふふ」と、こちらの言葉など聞いていない。
「えっとぉ――千弥子さん?」
 晋也の呼びかけにも反応せず、視線を遠くに向けたままだ。
 どんどん。
 また奥から音が聞こえてきて、それでやっと晋也は冷静になった。
 何の音なんだ?
 ちらっと千弥子を窺うも聞こえた様子はなく、笑みを浮かべたままずっと心ここにあらずな様子だ。
 晋也は全神経を耳に集中させ、考えを巡らせた。
 以前、先輩からテレビの音量で隣人からクレームが入りトラブったという話を聞いたことがある。でもあれは言い掛かりで、先輩が正論で打ち負かしたと言っていた。
 それに、その隣人はとっくに引っ越したとも言っていた。だからこれはクレームの壁どんどんではない。
 しかも、壁というより襖を叩いている音に近いような――
 ふと目を上げると、千弥子が吸い込まれそうな真っ黒い瞳で晋也を見ていた。
「秀匡さんからわたしのこと聞いたことあります?」
「え? いえ。聞いた事ないです」
 千弥子の眉間に少しだけ皺が寄る。
 それにどんな感情が含まれているのか、晋也には知る由もないが、妹が想うほど兄は想ってはいないなどの寂しさを感じているのだろうか。
「たぶん僕に話すと自慢の妹さんにちょっかいかけられると思ったんじゃないですか――あ、ぼ、僕そんなすぐちょっかいかける人間じゃないですけど、あの、その――」
 そんな晋也の慰めも言い訳も千弥子の耳には届いておらず、
「ひどいわっ。こんなに愛しているのにっ」
 いきなり激昂し怒鳴り始めた。
「え、え、千弥子さん?」
 どんっ、どんっ!
 怒鳴り声に呼応したように奥の音も大きく響く。
「いつもっいつもっ! わたしを無視してっ! しょうもない女ばっかり彼女にしてっ!」
 どんっ、どんっ!
「こんなにこんなにこんなに思っているのにっ!」
 どんっ、どんっ! どんっ!
 怒りを露わにした千弥子が腕を振り回した瞬間、手に当たったマグカップが床に落ちて割れた。
「ち、千弥子さん、落ち着いてっ!
 なんなんだよぉ、もう」
 振り回している腕を止めようと近づいた晋也は、居酒屋で飲んでいた時の先輩の言葉をふと思い出した。
「俺一人っ子でさ、ずっと弟が欲しかったんだよ。お前まだまだ半人前で頼りないけどさ、弟みたいでなんか嬉しいよ。なんでも相談してくれよ。兄貴が守ってやるから、なんつってな」
 一人っ子。先輩は確かにそう言った。
 じゃ、この女は誰?
 手を伸ばしかけたまま固まった晋也は恐る恐る目だけ動かし、千弥子の様子を窺った。
 何事もなかったように静かになった千弥子が光のない大きな黒目でじっと晋也を見ている。
 やばい――妹じゃないのわかったって気づかれないようにしなきゃ。もしかして先輩、奥の部屋に監禁されているのか? あ、そっか、あの音は助けてくれの合図だっ。
 晋也は平静を装い、
「えっとぉ――やっぱ帰って来そうもないから、僕もうお暇します」
「もっといてくださいよ。コーヒー淹れ直しますから――あらやだ、カップが割れてるわ」
 イスから降りた千弥子はしゃがんでマグカップの欠片を拾い始めた。撒き散らしたコーヒーをテーブルの箱ティシュを取って丁寧に拭いている。
 それを見ながら晋也は後ろ手で襖に手をかけた。
「あー、えーと、先輩にゲーム貸してたんだけど、ついでに返してもらっとこうかな。確か奥の部屋にあったよね」
 千弥子は床を拭くのに夢中でこっちを気にしてもいない。
 そっと襖を開け、千弥子に注意しながら中を窺った。
 和室は突き当りの窓に遮光カーテンが引かれていて薄暗かった。
 右側に押し入れ、その横の壁際に26型のテレビが置かれ、先輩の大事にしているゲーム機が台の前に出しっ放しにされている。
 和室に先輩の姿はなかったが、
 どんっ!
 音とともに押し入れの襖が揺れた。
 晋也はごくりと唾を飲み込んだ。
 先輩はここに押し込められているんだ。
 一歩畳に足を踏み入れた時、
「ここは見ちゃあだめよぉぉぉ」
 叫びながら千弥子が突進してきた。いつの間にか手には包丁が握りしめられている。
 晋也は中に逃げ込んだ。
 どんどんどんどんどん!
 押し入れが揺れる。
「やっと秀匡さんと一緒に慣れたのになんで邪魔するのぉぉ!」
 千弥子が包丁を振り上げた。
 どどどどどん!
 わかってます、先輩。今助けますってっ。
 晋也は切っ先を避けてしゃがみ込み、とっさにゲーム機を両手でつかむと「先輩、ごめんっ」と、千弥子めがけて振り回した。
 赤や黄色の配線が外れ落ち、ゲーム機の角が千弥子の顔面にヒットした。千弥子は倒れ込み、握っていた包丁を畳の上に落とした。
 晋也は慌ててそれを拾い、ポケットから携帯を出して110番に通報した。
 顔面を血だらけにして悶える千弥子に起き上がってくる気配はない。
 晋也は急いで押し入れを開けた。
「もう大丈夫ですよ、先輩――先輩?」
 先輩――渡辺秀匡は下段の荷物の間に押し込まれていた。とっくに息絶えているのが見開いた白く濁った目でもわかる。
 近付いてくるパトカーの音を聞きながら、晋也は泣いた。
 先輩は助けを求めていたのではなかった。晋也に逃げろと警告してくれていたのだ。

恐怖日和 第六十五話『告白』

2022-05-04 11:21:21 | 恐怖日和



 はい。確かにわたしは中学生の頃、ひどいいじめをしていました。主犯は美人で頭が良くて先生たちから一目置かれていた中山さんです。彼女と取り巻きの数人と一緒にやっていました。
 でないとわたしがいじめの対象にされるからです。
 はい。わかっています。いじめられていた佐代子ちゃんよりわたしのほうが何倍も劣っていたのに、ブスだのバカだの中山さんと同じことを言って、嗤っていました。
 カバンに泥や犬の糞を入れる。教科書を焼却炉に入れて燃やす。思いつくあらゆるいじめの方法をみんなで実行しました。
 体育で教室に誰もいない時、佐代子ちゃんの弁当に虫を入れて、中山さんに褒められてからはずっとわたしがその担当になりました。
 中山さんは自分の手を汚しませんでした。最初は取り巻きたちにやらせていましたが、わたしがグループから外されないよう嬉々としていじめの方法を考えてくるので、やがてわたし一人が実行し、みんなはそれを嗤って見ているだけになりました。
 わたしは彼女たちを喜ばせるために、よりひどいいじめを考えてきました。
 そうしないと今度はわたしが――
 一度、自分一人で実行するのが嫌で考えてこなかったことがありました。みんなに睨まれ無視され――あんな辛かったことはなかった。だからやるしかなかったんです。
 いえ、あれは――あれは中山さんが考えたことです。確かにわたしが手引きしましたが、あそこまでひどいこと考えません。あんな気持ち悪い先生を誘うなんて。
 はい。そのせいで佐代子ちゃんがどんな目にあったか知っています。だって隠れて見てたし、中山さんが写真に撮ったものをみんなで何度も見返したから。その後も先生に脅されて佐代子ちゃんが何度も相手させられていたのも知っています。何度も何度も何度も――毎日毎日毎日――変態教師に何を要求されてたのか、その都度覗き見しなくても知っていました。だって、中山さんが後で写真を見せてくれたから。
 中山さんは先生とグルだったのかもしれません。お金をもらっていたのかどうかはわからないけど、写真を男子生徒に高額で売っていたのは知っています。
 はい。もちろんわかってます。佐代子ちゃんが自殺したのはわたしたちのせいだと。
 校長先生や担任、その他の先生からは口止めされました。佐代子ちゃんが自殺した理由は勉強に悩んでいた、家庭に事情があった、だから君たちのせいじゃないので、いじめのことは絶対口外しないようにって。
 でも、わたしは自分がひどい人間だったってわかってます。反省もしてます。
 だからこうやって何度も告白して、あなたが怒りや怨みを忘れないよう、復讐の決意を新たにするよう役目を担ってる――
 ねえ、佐代子ちゃん。わたしあなたのこと恨んでないよ。ええ、ええ、そうね、恨まれる筋合いなんてないわよね。恨まれるべきはわたしだもんね。
 だからあなたに呪い殺された後もこうやって何度も罪を告白してるし、憎い相手を呪い殺す手伝いもやってる。
 中山さんも取り巻きたちも変態教師も校長も教頭も担任もその他の隠ぺいに加担した教師たちもいじめを傍観していたクラスメートもみんなみんな呪い殺すのを手伝ったじゃない。
 みんなあなたに怯え恐怖に苦しんで死んでいった。
 でもここにはいない。みんな死をもって罪を償い消えていった。
 わたしだけなの。わたしだけがあなたに縛られて消えることができないの。
 お願い。もう許して。お願いします。わたしを許して――