白子
海に沈む夕日を眺め、優しく繰り返す穏やかな波の音を聞きながらあふれる涙を拭いた。
なぜ、わたしはふられたの?
もちろん魅力がないからに決まってる。でも、いきなり「別れよう」はないんじゃない?
突然過ぎる別れのショックで気付けば名前も知らない遠い海に来てしまっていた。
でも海に来たのは正解だった。傷ついた心が少しだけ癒された。
夕焼けの砂浜には他に誰もおらず、白い波も堤防も優しいオレンジ色に染まっている。
空と海を見つめて微笑み、もう大丈夫だと立ち上がった。
砂を払い、堤防の階段に戻ろうと振り返った時、視野の端に何か見えた。
視線を戻すと十数メートル先にいたのは、本当に『何か』としか言いようがないものだった。
よろよろと二本足でこちらに向かって歩いてくる。その様は人の姿に似ているが、どう見ても人には見えない。
風が吹き、えづくほどの腐敗臭が流れてきて思わず鼻を押さえた。
頭の中で逃げろと警告音が鳴り響いているのに目が離せず、足も動かない。
数メートルまで近付いて来てやっと足が弾けた。全速力でコンクリートの階段に向かう。
砂に足を取られつまずきながらも転ぶのだけは何とか避けた。
振り向いて追いかけてこないか確認したかったが、怖くてできない。
あれはいったいなんなのだろう。
青白くふやけていたが脚は確かに人のそれだった。
だが、太腿から上がまったく違う。
タラの白子のようなものがぽんっと乘っかっているのだ。うねった生白い身がてらてらと夕日に光っていた。
階段を上がり堤防を越え、道路に出たところで一息つきながら振り返った。
だが砂浜には何もいなかった。堤防を覗き込んでみたが階段にもいない。
何かを見間違えたのだろうか。
潮風にじめついた首筋を撫でながら堤防にもたれ、靴の中の砂を出した。
まだどきどきが治まらない。
水を飲みたいと思ったが、道路を挟んだ向かいにある寂れた食堂はガラス戸が閉まり、染みの浮いたカーテンが引かれている。見回しても自販機すらない。
幅員は狭いけどここって国道だよね? とため息をついていると微かな腐臭が漂ってきた。
その方向に首を向ける。そこには岩をくりぬいたトンネルがあった。
奥の暗がりから白子がゆっくり出てくる。
うねった白い身がもぞりと動く。一本また一本とほどけるのを見て、あれは白子などではなく絡まりあったたくさんの腕だと気付いた。
絡まった腕が花開くようにほどけたかと思うと再び絡みついて閉じる。それを繰り返しながらこっちに近づいてくる。
ほどける度、手の平が誘うようにひらひら揺れた。
「いやあああああ」
我を忘れ思いきり走って逃げた。カーブの向こうから走ってきたダンプカーに気付いた時はすでに撥ね飛ばされた後だった。
背中から地面に叩きつけられ、息ができない。
真上には夕闇の迫る美しい空が広がっていた。
その最後の空を白子が遮る。
絡まりあった腕の真ん中に指をそろえた手が見えた。
それが瞼のように開くと魚の目に似た丸い眼球がわたしを覗き込んだ。