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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

(大江)俊泰  九里館へ  近衛家と北小路家(大江氏)

2024-03-25 | 大江氏
永正元年(1504年)
近衛政家 後法興院記 下巻 10月16日 【俊泰差下江州 九里館】とある。
義澄が水茎岡山城に来るのは1508年であるため、それ以前にも近衛氏とはつながりがあったと思われる一行である。
 
この大江俊泰の養女となった女性が北小路俊子で、近衛政家に嫁ぎ、尚通を産んでいる。
この大江俊泰は北小路俊泰ともいう。(近衛家の家司である大江姓北小路家 )

何かしら用事を受けて九里館に来たような気がする。

政家は1505年迄しか生きていなかったので、足利義澄のその後(水茎岡山城の件)には関りはない。

政家の息である尚通の時代となって、足利義澄の件で深く九里と関わるようになるのである。
                        


蔵人・上北面や近衛家諸大夫を務めた北小路家である。




俊子は北小路俊泰の養女で、実は越前国の武士加治能登入道の娘。という事である。

*****

前記事では、日野家のことを取り上げたが、日野家と近衛家との関係はどのような物であったのだろう。

中世文人貴族の家と職—名家日野家を中心として—(申 美那)によると、

【兼光は長男資実と長親を九条家に入れ、日野家の将来を九条家に託する選択をした。兼光がこのような選択をしたのは、日野家が代々領家職を知行する若山庄など皇嘉門院領が九条良通に譲られたことに起因するところが多い。】

兼光は五男頼資を近衛家に入れたが、頼資から勘解由小路と号する新しい家が分かれる。 】

この「入れる」は、どうも家司として務めさせる‥‥の様な意味合いなのだろうか。

広橋兼仲の例を見ると、家司・執事となって鷹司家と近衛家の家のことに携わっている。

広橋 兼仲   (1244-1308)
広橋 兼仲(ひろはし かねなか)は鎌倉時代後期の公卿。 『民経記』の著者広橋経光の次男。 勘解由小路 兼仲(かでのこうじ かねなか)の名で知られている。 日記『勘仲記』の著者。 建長4年(1252年)に元服、正嘉2年(1257年)に叙爵し、紀伝道(文章道)を学ぶ。 正元元年(1259年)に民部少輔に任じられ、近衛家・鷹司家の家司となり弘安元年(1278年)より鷹司兼平・近衛家基の執事を務めた。 弘安3年(1280年)に兄兼頼が没すると嫡子として扱われ、弘安7年(1284年)に蔵人に任ぜられ、同10年に右少弁、正応元年(1288年)に左少弁、翌年には右中弁、左中弁に、その翌年には右大弁、左大弁..となる。


つまり、日野家を通じて、九里氏は近衛家にも出入りをするようになったのであろうと思う。

以前記事にしたように、その他にも「後法興院記」に九里の記載が出てくるのである。





「三好と一味シ」の三好氏はどなたのことだろうか? 他、細川藤孝は佐々木大原氏系であるという説。

2023-03-15 | 雑記

時期的に見て【三好之長】か、または息の【三好長秀】ではないかと思われるが、どうだろうか。

足利義澄を擁立させたのが細川政元であり、その細川政元の家臣の中に、三好之長・長秀がいたことになる。

九里も三好氏の指示を仰いでいたかもしれないし、あるいは、また九里に近衛氏とのつながりもあることから(足利義輝の母は近衛氏)その紹介で桜本坊に住んでいたのかもしれない。

彼女は、三好三人衆に義輝とともに殺されている。

九里氏もそこで三好氏と別れたかもしれない。何といっても足利将軍を守る側であったと思う。

 

文亀二年(1502年)の『近衛政家の日記(後法興院記)』にも記載があった。(九里四郎次郎とある)

後法興院記と九里の接点

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%BE%8C%E6%B3%95%E8%88%88%E9%99%A2%E8%A8%98

 

この後、足利義昭の門番として九里が登場する。(一乗谷にて)

【足利義昭】の人物叢書 奥野高広著 吉川弘文館 にも九里氏が登場している。

この本は明日以降とする。

 

今日調べていて、以下と前野長康とが重なってくるのである。

細川藤孝の母は清原宣賢の娘であった。

清原宣賢(1475-1550)
①父:吉田兼倶 母:不明
②子供:良雄・等貴・妙佐・宣賢女
③清原宗賢の養子となる。
④戦国時代随一の学者。
⑤宣賢娘は12代将軍足利義晴の側室となり続いて三淵晴員の妻となり、間に産まれたのが、山城国勝竜寺城城主となった「細川藤孝(幽斎)」(1543-1610)である。その息子「忠興」の正妻が明智光秀の娘お玉(後の細川ガラシャ)である。

宣賢の書いた【業賢記】のなかにも九里氏が登場するが以前から不思議だったのだが、この接点があったからだ。

そして清原宣賢と九里氏他が連絡を取り合っていたようなのである。

 

さらに、細川藤孝の息が忠興という事は、

藤孝氏の孫娘が前野長康の妻となり、こどもとともに洛北の岡田氏の許に逃げたその人である。

 

佐々木哲学校の記事に藤孝の近年の研究に関しての記事があった。

https://satetsu.seesaa.net/article/201312article_3.html

 

 

藤孝の養家は和泉上守護家ではなく将軍近臣の細川氏(奉公衆近江源氏佐々木大原氏出身で8代将軍義政期に入名字で細川を称する)であったという見方が有力となっている(←wikipedia↓)。

宇多源氏佐々木大原氏系

8代将軍足利義政瑞渓周鳳に仕える喝食 の寿文房を寵愛し、淡路守護細川家の養子という形で細川政誠と名乗らせ御部屋衆に取り立てた

これは入り名字といって将軍が側近などに足利一門の苗字を与えて序列を引き上げるもので、寿文房六角氏京極氏と同族の宇多源氏佐々木大原氏の子だった。入り名字は将軍との個人的な関係に基づくもので一代で終わる場合もあったが、細川一族からの異論がありながらも、名字は子孫に受け継がれた。

政誠は大内義興が上洛して足利義稙が将軍に復帰した時に出家して霊芳と名乗り、子とみられる細川高久が後を継いで足利義晴の時代に将軍の諮問に与る内談衆に任じられた。

その後は高久の子の細川晴広が継いだことが知られている。この晴広が細川藤孝(幽斎)の養父であったとする見解が近年出され、研究者の間では有力になっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%B0%8F#%E5%92%8C%E6%B3%89%E4%B8%8A%E5%AE%88%E8%AD%B7%E5%AE%B6%EF%BC%88%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%88%91%E9%83%A8%E5%AE%B6%EF%BC%89

 

九里氏とともに鹿苑日録に登場していたのも、大原氏でもあった。

これはびっくり情報であった。

 


九里四郎次郎員秀 文亀元年・二年の文書有。

2022-04-23 | 九里バラバラ情報

文亀二年に、保内商人は、高島南市で高島南市商人に荷物を押収されたが、守護六角氏に訴え、守護の意をうけた九里員秀によって同年保内商人の権益が保証されて、荷物変換の命が下っている 。(web情報)

文亀二年(1502年)といえば、近衛政家の日記(後法興院記)にも記載があった。(九里四郎次郎とある)

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/d60533bc79defd65e0293777ce692193

 

だが、文亀二年(1502)十月、第一次伊庭の乱勃発の年でもある。

 

この辺りから、九里は戦いに巻き込まれ、やがて叩かれて、衰退するのである。

せっかく好調であったはずなのだが、、、、

 

 

 

 

 


佐々木小三郎 後法興院記より

2021-03-21 | 九里【まとめ】

「佐々木小三郎」のことである。

「後法興院記」に何度も記載がある。

この人物、よく近衛政家の家に顔を出す。ちょくちょく…と云ってもよいほど。ご近所さんだったのだろうか?

 

調べてみると、佐々木小三郎=山内政綱の息=山内就綱 であった。

 

この二行目に「山内宮内大輔之内者、クノリ方ヨリ内々所望

この山内宮内大輔は、政綱のことであり、先の小三郎の父である。

つまり、山内氏の許で働いていたようなのだ。

 

六角氏一族の群像 著者: 川村一彦 より ↓

山内就綱

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%B0%B1%E7%B6%B1

 

父の山内政綱のwikipediaには以下のようにあった。

「就綱は、明応2年(1493年)4月の明応の政変時に足利義澄により六角氏惣領に任じられている。」

 

という事は、足利義澄は、やはり水茎岡山城を頼ってくる以前から、九里のことを知っていたのだ。

ますます、そう思う。

 

 

   

 

近衛氏とも、延徳三年1491年あたりからつながりがあったのではないだろうか?

だから、九里(三郎)の討死も記載されていたのであろうと思う。

 

 

 

 


間違い訂正!  後法興院記より

2021-03-21 | 九里【まとめ】

さて、後法興院記の記載から様々な想像を展開したが、間違いがあったので訂正を入れて置きたい。

 

この、後ろから二行目に登場する「九里四郎次郎」(員秀の事と思われる)、

私のコメントでは「座布団」の関係のことか?と書いていたが、これは大きな誤りであったと思う。笑

 

「有蹴鞠、飛鳥井宰相、左小辨伊長、極臈資直、藤蔵人、興基僧都等来、九里四郎次郎進圓座、廿枚先日便宜時令所望了」

と、全部が関係あったようで、コメントに詳しく自閑様が書いてくださった!

 

それを基に、書かせていただくと、

この蹴鞠のメンバーは

飛鳥井雅俊 1498 参議(宰相の事)
勧修寺尚顕 1501 左少弁 確定
甘露寺伊長 1501 右少弁 確定
富小路資直 文明16年(1484年)六位蔵人兼左近衛将監に任官。蹴鞠・医学にも通じたとwikiにあるのでほぼ確定

となる。

 

こんなすごいメンバーに誘われた九里四郎次郎、どうやら近衛政家に何か便宜をはかり、その時に何か欲しいものはないか(仮)と聞かれ、蹴鞠がしたいと答えたようである。

彼は、無事に蹴鞠は出来たのだろうか。

飛鳥井雅康に頂いた「蹴鞠五部抄」を読んでいたはず。

是も興味(憧れ)があって、何かの折に所望した物だったのかもしれない。

 

極臈資直の「極臈」は、↓

六位の蔵人(くろうど)で、最も年功を積んだ人。一﨟。ごくろう。(コトバンクより)

 

また、もう一つは和漢会、私の想像では漢方に関する記述がいくつか見られたため「和漢方の会」だったのだが、

 

実は下記のようである。

月次和漢会とは、漢詩と和歌の会だと思います。」

漢方ではなく漢詩と和歌。

そういえば、医師の名が見えないかも。(笑)

===*===

近衛政家と丹波親康のことが書かれていた小論があったので、ココに載せておこうと思う。

 

http://jsmh.umin.jp/journal/45-2/168-169.pdf

 

 

 

 

 

 

 

 

 


足利義政と日野富子との娘 光山聖俊(1462-1505) - 景愛寺・大慈院・宝鏡寺の住持  後法興院記 より

2021-03-19 | 九里【まとめ】

 

三月二日 佐々木小三郎の行に「廿九日寶鏡寺殿入滅云々」とある。

この方は、下記の方とは別人なのだろうか? 明応4年なので1495年に歿したことになる。

足利義政と日野富子との娘 光山聖俊(1462-1505) - 景愛寺・大慈院・宝鏡寺の住持

 

代々同じ「寶鏡寺殿」と呼ばれる方が出てくるため、よくわからないが、

寶鏡寺殿と九里はともに同じ文書に顔を出す。すぐ近くで。

 

宝鏡寺 理豊宮 理豊女王(りほう じょおう)1672-1745年

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E8%B1%8A%E5%A5%B3%E7%8E%8B

 

 

 

 

 

最後の九里対馬と共に出てくる方は、1532年以降の「宝鏡寺殿」となる。

宝鏡寺理源(足利義晴の娘だが、この方は義輝が1536年生まれなので1540年以降に生まれていると思う。

とすればその先代の鏡寺殿が鹿苑日録に九里対馬と共に出てくる人物と成るのではないだろうか。

 

「恵照以後、足利将軍家の女子は、将来の住持として幼少期から比丘尼御所に入室することが多くなった。」とある。(wikipedia 恵照より)」応永29年4月27日(1422年5月17日)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E7%85%A7

http://hokyoji.net/history

 

九里九郎左衛門と宝鏡寺殿・九里対馬と宝鏡寺殿 の関係がわかれば嬉しいのだが。

 


延徳四年 1492年 後法興院記 より

2021-03-18 | 九里【まとめ】

四月の三行目に九里、三井以下…とある。

延徳4年(1492年)3月、安富元家が六角軍に奇襲されて金剛寺から敗走した。足利義材は赤松政則、武田元信、斯波義寛に出撃を命じ、浦上則宗、逸見弾正、織田敏定が送り込まれ、3月29日、安富元家と合流して簗瀬河原で六角勢4000人を打ち破った。義材は浦上らに感状と太刀を与えている。同年5月、義材は安富元家に替えて斯波義寛を先鋒に任じ、赤松氏、武田氏と共に甲賀に送り込んだ。さらに10月17日には自ら出陣して金剛寺に本陣を置き六角征伐を進めたため、六角軍は甲賀を捨てて伊勢に逃亡したが北畠氏の軍勢に迎え撃たれ潰走した[3]

足利義材は、細川政元に替えて六角虎千代六角政堯の養子)を守護に任命して兵を引き払い、12月14日に京に凱旋した。

===*===

ところが、その虎千代もすぐに没落したようである。

この時代は将軍家・六角・京極の佐々木氏さらに出雲の尼子経久までも入り乱れて、様々な戦いが繰り広げられている。

複雑なので、今はパス。

 

 

佐々成政は政堯の後裔と伝える。

 

 


後法興院記(近衛政家)の中 の 九里次郎(伊賀守息)久利五郎 久利治部大輔 も登場

2021-03-18 | 九里【まとめ】

後法興院記 第三巻 九里次郎(伊賀守息)が出ているそうである。

また、久利氏二人も、記載がある様で何とか探して読んでみたい。

後法興院記(下)が国立国会図書館デジタルにあった!

近衛政家の日記で、読んでいると恰もこの方とお知り合いのような気がしてくる。(笑)

今日は薬湯の日でしたね。猿楽も楽しゅうございましたね。

「梅見事」とあるので、今日は梅を愛でましたね!

・・・などなど、何かしら会話したくなってくる。

人さまの日記をこのように垣間見てしまってよいものか‥‥でも、その時代の生活をみる貴重な機会であり、一応人にも見られることを意識していたかもしれない(例えば、近衛一族の後裔に)

彼、近衛政家もまた【日記の家】であったのだろうか?

wikipediaには書かれていなかったが、政家と尚通は、日記を残している。

 

小野宮流藤原氏

桓武平氏高棟流

勧修寺流藤原氏

 

近衛政家の時代明応の大地震があった。

 

調べものついでにこのようなものが見つかった。

歴史における地震(の資料)が一目でわかる。

(明応の地震)明応地震と港湾都市・明応七年紀州における地震津波と和田浦 等…

1498年9月20日の事項を見ていくと出ている。マグニチュードは8.2-8.4 とある。

http://etna.seis.nagoya-u.ac.jp/HistEQMap/

 


【後法興院記】・【後法成寺関白記】の中の九里氏 【業賢記】の中の九里氏

2019-10-11 | 九里バラバラ情報

東京大学史料編纂所の詳細な解説を基に、他のweb情報をプラスしてみた。

【後法興院記】後法興院記(ごほうこういんき)は、室町時代後期から戦国時代初期にかけて関白・太政大臣を務めた公卿近衛政家の日記。
【後法成寺関白記】近衛尚通(一四七二〜一五四四)の日記
近衛尚通は、永正五年(1508年)四月十六日の条に細川政元の死後に跡目を争う細川澄元と細川高国の争いを中国の春秋戦国時代に例えて「戦国の世の時の如し」と書いているそうである。


尚通は、近衛政家を父とし、越前朝倉氏の被官加治氏の女を母として摂関家に生まれた。
尚通は延徳二年右大臣となり、明応二年二十一歳で関白・氏長者となって、同六年に辞し、永正十年再び関白・氏長者となり、翌十一年・十二年には太政大臣をつとめている。永正十六年には准三宮の宣下を受け、天文二年に落髪する。

日記は、父政家が永正二年(一五〇五)に亡くなったあとを受けて、同三年正月元旦より起筆し天文五年(一五三六)十二月に及んでいる。この間、永正十一年・十二年、大永二年・四年・五年・七年、天文三年・四年の計八年分は現存していない。本文が伝わっている部分はすべて自筆原本が現存し、その二十一冊は財団法人陽明文庫に架蔵されており、これを本書の底本とした。自筆原本の表紙すべてに記主自ら「永正三年記」等と年次のみを記しているが、本書には一般に通用しているところに従って『後法成寺関白記』の題名を用いた。後法成寺は、尚通の諡号である。本冊には永正三年正月より同九年十二月までを収めた。

…本冊には、足利義尹・義澄や細川澄元・同高國・同澄賢の抗争が詳しく記録され、細川政元被官赤沢朝経の入国に伴う大和の動静、香西元長による上賀茂社家への放火、といった混乱に対応して、尚通邸からも婦女子や重書類を避難させるなど、当時の世相が具体的に見られる。
 三条西実隆との詩懐紙の贈答を始めとする公家との交流はもとより、宗祇から古今伝授を受けた尚通邸には連歌師もさかんに来訪して文学的な関心の高さがうかがわれ、これをきっかけに接触をもとめる地方大名の記事も収められる。

家中では後に慈照寺住持となる明岳瑞昭、一乗院門跡となる覚誉、聖護院門跡となる道増といった子息や、継孝院、智園寺に入室した息女をはじめ、弟一乗院良誉や妹大祥院尊永・御霊殿、叔父景陽軒、叔母大祥院春渓との密接な連絡があり、父政家の後室(大上様)との縁からその父飛鳥井雅親や同雅俊と頻繁な交際、自身の室維子との縁からその父徳大寺実淳一家との交流が見られる。
 家領支配の様相、近衛家書札礼など興味深い記事に富む。

担当者 田中博美


本冊には、大永三年(一五二三)から享禄四年(一五三一)に至る九ヶ年のうち、原本が残存する六ヶ年分(大永三年・六年・享禄元年・二年・三年・四年)の本文ならびに紙背文書を収めた。記主近衛尚通の五二歳より六〇歳に至る記録である。前冊と同様、陽明文庫所蔵の原本を底本とした。
今回収録した期間には、政局に大きな変化があり、武家を中心として登場人物に大幅な変動が見られる。記事を欠く年次であるが、永正十八年(一五二一)三月、将軍足利義稙は細川高国と対立して京都を去り、同年十二月には高国によって足利義晴が擁立されている。また大永六年冬、高国政権内部の対立から政情が流動化すると、翌七年春には将軍義晴・高国勢が京都を退き、代わって細川晴元勢が入洛するなど、情勢は目まぐるしく変動し続けた。こうした混乱は、享禄四年六月に高国が敗死するまで続いており、まさに本冊の収録範囲に対応している。高国と懇意であった尚通にとって、同勢力の衰退・滅亡は大きな衝撃であり、その動静が詳く書き留められている。なお朝廷においても、大永六年四月に後柏原天皇が崩じ後奈良天皇が践祚しており、情勢に変化が見られた。

中央の混乱が深まるのと平行して、尚通は遠隔の戦国大名と交流を重ねている。周防の大内氏・越後の長尾氏・能登の畠山氏とはもとより密接な関係を有していたが、加えて薩摩の島津勝久・北関東の上杉朝興・相模の北条氏綱などとの往来が頻繁に確認されるようになる。紙背にもこうした大名に充てた書状案が多数残されている。とりわけ口絵図版として掲出した享禄三年十一月二八日付の島津勝久充書状案(享禄四年冊第十一丁紙背)は、その正文が本所所蔵島津家文書に残されており(『大日本古文書島津家文書』二ノ六五五号)、注目に値する。また都鄙間を往来する山伏・連歌師・商人などもしばしば記事に見え、尚通を取り巻く人脈の一端を窺い知ることができる

次に大永・享禄年間における尚通の近親者の動向についてふれておきたい。嫡子稙家は大永三年三月に二一歳で右大臣に任じられ、さらに大永五年四月には関白となり、以降本冊収録の期間、その地位を保っている。尚通は若い稙家の後見として、様々な助言を与えていたことが垣間見える。大覚寺に入っていた息の禅意(後の義俊)は、大永八年三月に「新門主」と記されるようになるが、門跡譲与をめぐって前門主性守との間になんらかの軋轢があったと見られ、正式な譲与状を得るには翌享禄二年八月を待たねばならなかった。なお享禄三年十一月、隠居所に移った性守は盗人に殺害されてしまう。

最後に、尚通息の一人が享禄四年十一月に久我通言の養子となり、同家に移ったことに触れておきたい。これは通言の嫡子邦通が同年六月に死去したこと受けたものである。この息は永正末年の生まれで、後に久我晴通を名乗ることになる。通言室は尚通室維子と同じく徳大寺実淳の娘であり、尚通息は通言夫婦からみて甥にあたる。こうした関係から通言は養子に請うたのだろう。

担当者井上聡



「連成院記録」に、延徳四年四月条 「九里入道為大将千人ヤナ瀬庄若槻乃城寄之数々合戦」と記す

「後法興院記」に、若槻城 延徳4年3月26日の条「一両日以前江州敵蜂起、安富、若槻両城同時責之、及難儀云々」

https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/d942e7df3cd510482e6eeb5bc00034c4



【後法興院記】にも九里氏は登場する。


【後法成寺関白記】にも、登場している。
享禄元(1528)年7月3日条に「九里源兵衛が堺に下向するので、近衛尚通が近衛家領のことを源兵衛に申し付ける」という記述がある。

また、【鹿苑日録】にも同じ九里源兵衛がしばしば登場し、天文法華の乱の調停役になったり、対馬守を名乗ることとなったり、旅行の際に牛黄を買ってきたり。

【業賢記】は大外記清原業賢の日記。ここに管領細川高国と近江九里・高野瀬・蒲生らと連絡を取り合っていたことが記載されているそうである。

これら、生の声は実際に生きていた香も感じることができる。
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