「佐々木小三郎」のことである。
「後法興院記」に何度も記載がある。
この人物、よく近衛政家の家に顔を出す。ちょくちょく…と云ってもよいほど。ご近所さんだったのだろうか?
調べてみると、佐々木小三郎=山内政綱の息=山内就綱 であった。
この二行目に「山内宮内大輔之内者、クノリ方ヨリ内々所望」
この山内宮内大輔は、政綱のことであり、先の小三郎の父である。
つまり、山内氏の許で働いていたようなのだ。
山内就綱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%B0%B1%E7%B6%B1
父の山内政綱のwikipediaには以下のようにあった。
「就綱は、明応2年(1493年)4月の明応の政変時に足利義澄により六角氏惣領に任じられている。」
という事は、足利義澄は、やはり水茎岡山城を頼ってくる以前から、九里のことを知っていたのだ。
ますます、そう思う。
近衛氏とも、延徳三年1491年あたりからつながりがあったのではないだろうか?
だから、九里(三郎)の討死も記載されていたのであろうと思う。