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深栖光重とその周辺 + 牧宗親 牧の方 (2)

2019-05-27 | 雑記

前回は、深栖八郎蔵人泰長迄書けなかったので、続きを書いてみようと思う。

あくまでも頭の中を整理するために書いているので、間違っているかもしれない。

まず、深栖光重と頼重、そして源頼政の末っ子である「広綱」

広綱のことはwikipediaに詳しかったので、そのままコピーする。

源 広綱(みなもと の ひろつな、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。家系は清和源氏の一家系、摂津源氏の出である。源頼政の末子。長兄・仲綱の養子となる。官位は従五位下・駿河守。


頼政・仲綱らが以仁王と共に挙兵し討ち死にした時、仲綱の次子・有綱と共に知行国の伊豆におり、伊豆で挙兵した鎌倉の源頼朝の傘下で平氏追討軍に加わる。寿永3年(1184年)6月5日、小除目により一ノ谷の戦いの褒章として頼朝の推挙に基づいて従五位下駿河守に叙任される。頼朝は同じ清和源氏の一門には冷たく当たる傾向があったが、その一方でこの広綱や足利義兼、平賀義信などは厚遇し、あえて格差をつけるようなことも行った。

義弟の有綱は源義経の婿となって終始義経と行動を共にしたため、頼朝によって自害に追い込まれた。広綱はこの事件に連座せず、文治5年(1189年)奥州合戦に従軍。さらに建久元年(1190年)11月に頼朝の上洛に随行するが、翌月頼朝が関東に下向するその日の朝、家人にも行方を知らせずに突然逐電した

翌年6月、神護寺の文覚によって広綱が遁世して上醍醐にあることを鎌倉に報じた。逐電の理由は、頼朝の右大将拝賀の際に供奉人に選ばれなかったこと、駿河国の国務について希望がかなえられなかったことだという。

子孫は太田氏として繁栄し、戦国時代初期には著名な太田道灌を出している。
系譜

父:源頼政 - 源三位
養父:源仲綱 - 以仁王の挙兵で自害
母:不詳
妻:不詳
男子:源隆綱 - 丹波国五箇庄を領す、仕土御門天皇、子孫は太田氏

===*===

ここから想像である。

この頼朝の恋人であった「亀の前」をかくまっていた「伏見広綱」は本当に遠江国佐野郡の豪族で、同郡掛河出身なのだろうか?

何故「伏見」なのだろうか? 
この人物は、イコール源広綱であると思うのだが…。

広綱が逐電し、文覚が見つけた場所は「上醍醐」であった。つまりは伏見なのである。
この周辺に、父頼政が最後に逃げながらたどった道の跡が残っているのである。

そうなので、私はこの伏見広綱は源広綱であり、頼政の息と考える。




そして、深栖光重は叔父、頼重は従兄弟である。
共に東国にいたのである。

源頼政は紀氏とつながっている。頼政の義理の兄弟(さらに義理ではあるが深栖光重の兄弟でもある)に池田奉政に養子になった弟がいる。

この池田氏は後に池田恒興や輝政にまでつながっていくようである。
そこは突っこまない。。。

紀氏と関係があるという事は、石清水八幡宮とも関係があるという事になる。
その石清水の荘園は美濃国にもあり(明智荘など)、池田氏も美濃国に居住する。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/s_iked_k.html


http://zan35441.on.coocan.jp/sub10-01.html

そして、竹御所の乳母か侍女であったのではないかと言われている女性は美濃局、もしくは美乃局というのだが、石清水八幡宮の光清の娘に【美濃局紀家子】がいて、「道清自幼少為美濃局猶子」と書かれているのだ。
(父が源為義、母が垣富尼(美濃国の出)の「美乃局」もいるのだが、まずは上の女性について考えてみよう)

この道清は、実は河野通清ではないだろうか?
保元3年1158年の石清水文書にその名(光清女)がみえる。鳥羽院女房となっている。

鳥羽院御子、御母検校光清女、美濃局 、と並んで記載がある。
もしかすると、二代続けて「美濃局」なのかもしれない。



河野通信の妻となり、通久を産んでいる女性はどちらか、だろうか? それとも全くの別人だろうか? 北条時政の娘ともいわれているのである。

養女という事も考えられるが、北条時政と牧の方との娘か、北条政子と同じ母親か、他にも妻はいたと思われる。
時政の妻に、美濃国出身の女性がいたはずである。

そしてその女性が生んだ女子が河野通信の妻となった。

===*===

そこで、私は「牧の方」かも知れないと思い、仮定しつつ進めてみようと思う。

牧の方の周辺の人として残っている名前は
牧の方の父「大舎人允宗親」…平頼盛に仕えている
牧の方の兄弟は「大岡時親」…五位尉になっている 以上が愚管抄から

北条殿室家 自京都下武者所宗親  牧の方の兄弟が宗親
外甥 越後介高成…文治2年 越前国 北條殿目代 以上が吾妻鑑から

建久二年には
頼朝から高成は恪勤※として御所に勤務せよとの仰せがあった。彼は時政の代官ではあるが時政室の外甥であり、文筆に秀でているため召し出したものである。

恪勤(かくごん・かくご)身分は,幕府機構の中では侍所に属して営中の雑役に従事した。
同じ御所に仕える侍の中でも,将軍に近侍して警衛にあたった上級武士は番衆と呼ばれ,
雑役にあたる下級の侍は恪勤と呼ばれて区別されていた。



==*==

この宗親や牧の方、なぜか深栖氏を調べていると気になるのである。
紀氏のページに以下のような情報があった。

「・1140 紀某女 呼名:八重垣 武蔵守紀朝臣為宗の娘 
    ・源有仁親王と通じ女子を産ませる
    ・播磨局はこの女子を養女として育てるが頓死する
    ・この婦人の甥 大舎人允 紀朝臣宗孝は関白忠実の家司
                 ※平安時代史辞典      」

「・1134-1-6 紀朝臣頼賢 従5位下 民部丞 肥後守 
      ・改姓:大中臣 ※紀氏系図 」


(権守) 紀為宗(1116年〈永久4年〉1月 - 「1119年〈元永2年〉5月30日」)従五位下、野ことではないだろうか?

さらに、情報は交錯するのであるが、

大中臣氏の中に宗親がこの時代にいて、祖母が三善章経娘、母は橘宗季娘である。
さらに兄親隆の妻は卜部兼友の娘である。
大舎人允も大中臣氏は務めている。

===*===
http://www.f.waseda.jp/ebisawa/ebisawa/zemi-ashidori-2016-01.html

2016年度 海老澤ゼミ「美濃国大井荘・茜部荘の研究」前期内容

預所木工権助惟宗朝臣が大井荘に発給した下文。これより以前の五月に大中臣奉則大井荘下司職に補任されており、本文書はその旨を荘官・住民等に対して施行したもの。承元元年(1207)に奉則が下司職に補任されて以来、寛喜三年(1231)に至るまで繰り広げられてきた大井荘下司職相論は、本文書をもってひとまずの決着をみる。

下司職を解任された大中臣則親は、六波羅探題北条時茂に訴え、時茂は別当定親へ則親の重訴状を送っている。また鎌倉幕府は時茂に対して道理に任せて成敗するように命じた。

伊勢神宮の大中臣氏は、平安時代の終わりごろになると神郡を拠点に全国に勢力を広めたが、大井荘の北には美濃国最大の御厨である中川御厨が存在し、大井荘の開発領主である大中臣氏も、御厨の展開の中から登場した存在といえるかもしれないという考察がなされた。

文永7年における実円を大井荘下司職に補任する一連の文書。文永5年に実円は下司職に補任されているが、同時に大中臣一族と山僧慶秀が私合戦を繰り広げて荘内は騒然とし、通常の荘務が行えない状況であった。当該文書はその騒動が沈静化したタイミングで再度実円の下司職補任を行ない、年貢収集を再開することを目的としている。

美濃国内と関係のある「大中臣氏」である。これと同じようなことが各地で行われていたであろう。

===*===

諸家系図纂の大中臣の系図の中に「宗親」を見つけた。
しかし、牧の方となるような女性は周辺には見つからなかった。
残念。でも、もしかすると牧宗親はこの人物であったかもしれないと思う。
事件を起こすと、詳しいことはかかれないと思うし、名前も削除されたりもするので。





親仲の息ではなく、親俊の息となっている。

===*===

また、深栖八郎蔵人まで行かず、何を書きたいか忘れてしまいそうである。



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1 コメント

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Unknown (りひと)
2019-06-03 15:11:06
北条政子の姉妹が以前から超気になってます。
そこが河野氏に関係するならとっても納得ですね。
その後の政子さんの行動もかなり気になりますし、その後の息子への執着やその他取り憑かれたような行動にもなんかありそうに思いますね。
私が頼朝好きだったんですけど、修善寺行ってなんか嫌いになったのも何かあるかな?音無神社で逢いびきしていたのはどんな姫でどんなルーツだったのか?それがずっと気になっています。少なくても北条さんは相当何か知っていたでしょうね。

そうそう、私の行く所って政子さんが関係する所が多いんですけど多分政子さんってその姫の関係の場所を上書きしている可能性もありますよ。
なので北条政子さんがお金出してたりする所って多分こちらにも関係あるはずだと思いますね。

偶然かもしれませんけど栗置いてきた所も確かそうだったと思うので。全国ちょっと北条政子さんで調べてみます。

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