九里の和歌山系図の助光が日野俊基の家司?であった後藤助光(太平記)と同時代のようなので、気になっている。1200年後半から1300年前半位生まれの人物であろうと思う。
この系図は和歌山から出てきたものだそうで、途中からしか入手できていない。 ↓
お心当たりの方がいらっしゃいましたら、是非お教えいただきたく思っております。
途中からは近江国御家人井口中原系図と同じキーワードが出てくるため、繋がっていると思われるのだが、名前の通字は違っている。
前半部分が明らかになることで、小堀氏も九里につながる中原氏も藤原秀郷流ということが、証明されるかもしれない。
さて、小堀助光と後藤助光は同一人物かどうか…
また、後藤助光なる人物は実在であったのだろうか?
日野俊基とは、調べてみると俊基の7代前の日野実光から資憲・資長と分かれている資憲の流れであった。
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日野家と九里氏(小堀氏)のつながりで、考えられる点をいくつか挙げてみようと思う。
貴光女(吉光女)の母が源朝長と同母で、義朝の妻であった。つまり貴光女の母は中原久経の母でもある。久経は親鸞の叔父になる。(西山深草氏の説)
繋がりは、日野家の親鸞から始まっているのではないだろうか?
近江国の中原の経久の叔父にあたる中原景経が1244年広橋経光(勘解由小路 経光 )に判官にと推挙されている。結果はわからない。
その時、景経は近江国伊香郡の富永庄の召次勾当であった。
日野家は【珠洲】に若山庄を持っていた。
(現在地震で大変なことになっている。心よりお見舞い申し上げます。)
若山荘とはどのような荘園だったのだろうか。
《 能登国珠洲郡にあった能登最大の荘園で、現在の珠洲市西部から能登町の旧内浦町地区全体まで広がっていました。
若山荘は、平安時代末期の康治2(1143)年、能登守・源俊兼の子・季兼(すえかね)が領家職を確保しながら土地の保護を求め、皇太后宮藤原聖子(皇嘉門院〈こうかもんいん〉)を本家と仰いで寄進し、成立したとされています。
承久3(1221)年の「能登国田数目録」には、公田数500町(1町は約1ヘクタール)との記録があり、国内の荘園・国領の中でも最大規模を誇っていたと考えられています。
本家職は皇嘉門院から九条家、領家職は日野家へと伝えられ、地元の武士である打波家や本庄家、松波家が荘園の経営を担いました。当時、園内で盛んに焼かれた珠洲焼は、富山湾を経由して日本海沿岸の東北地方まで広く流通していました。》(コトバンクより)
この松波氏と共に被官と成っていたのが、九里氏(九能利とかかれている)だったのである。
この松波氏は藤原秀郷流波多野氏の末裔とも言われている。
上記から省略 ↓
【若山荘は、日野兼光からその子・日野資実(すけざね)へと伝領され、能登最大の荘園である若山荘は、日野家領となっていく。日野資宣 の名もある。
松波氏・久能利(くのり)氏・山方(やまがた)氏の諸氏についても、本庄氏と同様、荘園領主の日野氏と結んでいた。 】
日野氏と中原氏・藤原秀郷流氏・大江氏とはつながりがあるようで、その後も九里との縁も続くのである。
足利義澄の正室が日野阿子で、日野冨子の姪であった。
俊基とはまた別の系ではあるが、足利義澄が最後に九里氏を頼って水茎岡山城にやってきた背景に、日野氏とのつながりもあったのではないだろうか?
全く知らない一族の許に逃げ込むとは考えられず、困った状況とはいえ、なんらかの繋がりがあったから…と思うのである。