武家家伝によると、坪内氏は
『寛永諸家譜』に、富樫藤左衛門某、美濃国松倉城に住し、改めて坪内を称すとある。『寛政重修諸家譜』には、藤原利仁流の富樫介家直十一代の後裔藤左衛門頼定が、加賀国より尾張国に赴き、坪内又五郎某の婿となり家号を継いで坪内氏を称したとしている。系譜でみるかぎり、加賀の富樫氏が尾張の坪内氏になったことになっている。
「岐南町史」にも以下のような記載があるそうだ。https://tsubouchitakahiko.com/?p=5612
『〈坪内氏 加賀国の富樫氏に出る。富樫氏は藤原利仁(鎮守府将軍兼武蔵守)の後裔で加賀国石川郡富樫郷を収めて、富樫を姓とした。富樫氏一一代の頼定(藤左衛門)が加賀国より尾張国に来て、野武(中島郡坪内村・現尾西市野府)の城代坪内又五郎の家号を継ぎ、坪内と称したという。
頼定(藤左衛們)は天文年間(一五三二─一五五五)犬山城主織田信康(信長の叔父)に仕えて、尾張国葉栗郡松倉村(現羽島郡川島町松倉上ノ島)に城を構えた。それより三代を経て坪内利定(喜太郎・玄蕃)は、織田信長の被官(家臣)となり、たびたびの合戦に功をあげたが、木下藤吉郎(豊臣秀吉)と不和となり、本領をはなれて武儀郡金山(現益田郡金山町金山)に閑居した。』
武儀郡が気にかかる。乾氏のいた場所でもある。
(坪内利定の兄光景は…)
通称は将右衛門。元は尾張国松倉城の領主である坪内氏の当主・坪内勝定の嫡男で、別名を坪内長康とも言われている。その出自は『武功夜話』では勝定の娘婿としている。定説や『寛政重修諸家譜』には勝定の嫡男であり、実名は坪内光景である
しかし、武功夜話では、前野忠勝の娘婿に坪内惣兵衛為定が登場しているのだが…混乱である。
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このような情報もある。
http://kazusanosukesengokusyoten.web.fc2.com/busyou/toujyoujinbutu-tu.htm
坪内 勝定 つぼうちかつさだ
尾張・松倉城主、加賀の豪族・富樫氏の庶流・前野氏の子孫、前野長康の父である説と勝定の娘が長康の妻であるとの説がある
坪内 為定 つぼうちためさだ (坪内宗兵衛)
坪内勝定の子、坪内利定の兄、通称・宗兵衛、織田信清の配下にあったが織田信長の勢力が増すと、木下藤吉郎を通してその配下に入った
坪内 利定 つぼうちとしさだ (坪内喜太郎)
坪内勝定の子、坪内為定の弟、通称・喜太郎、兄と共に豊臣秀吉に属したが衝突して放浪、徳川家康に召されて仕えた、関ヶ原では鉄砲隊を率いて活躍した功により羽栗・各務両郡六千五百三十余石を領す、子孫は幕府旗本として存続した
坪内 又五郎 つぼうちまたごろう
尾張・松倉の土豪、前野宗康の弟で坪内家の養子となり坪内家を継ぐ、信長に敗れた織田信安が坪内家を頼り寓居した
この富樫氏流である坪内氏は武功夜話によると初めは牢人であり、富樫氏流れの人物として前野家に入ってきている。
そして、前野又五郎忠勝の婿と成る。
その忠勝には養子に入っている人が多くいた。
前野勝長・前野長康もいたのではないだろうか?というのも、勝長の息吉康は又五郎と名のり、長康は坪内光景を名乗り、長康の息の景定も坪内景定を名乗っている。
忠勝の周囲は、まるでその頃の前野家の中心のように皆集まって来ている。
そこで、藤原利仁の流れをくむ富樫氏流坪内氏とも積極的に縁組をしたのかもしれないと思う。
それが、秀吉のために働きながらも、最後は自害へと追い込まれることになった遠因ともなるのかもしれない。
上記に坪内利定は秀吉と不和とある。利定の兄(実かどうかはわからないのだが)が光景=長康なのだ。
私には、どの説が正しいかはわからないのだが、一応坪内氏に関する情報を集めてみた。
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昨夜からずっと暖房を入れているがさっぱり家が暖まらない。
😥
人間も年を取るけれど、家も年を取り断熱材もだんだん断熱にならなくなってくる…窓の隙間風もしかり。。。
PCの場所を二階から一階居間周辺へ変える時が来たようだ。