他にも掘ってみると…
1199年に蹴鞠をしている大江兼遠を見つけた。
99歳で蹴鞠もないだろう…と思われるので、もう一度考え直す。
(義仲の出陣を見送った後に没したとすると、違う人物となる。)
この大江兼遠は、
1151年(仁平元年)に18歳で文書初見と仮定し、1199年に66歳で蹴鞠となるか。
1145年(久安元年)に善光寺の物語の中にも「少右史 大江兼遠」として登場している。
1127年生まれの中原師直も同じ場に共に登場している。
信濃の資料に出てくる「大江兼遠」
義賢は30歳前後で没したと云われている。(1155年没)
その後(1155年)義仲を預かり、出陣の1183年迄 存命していたと思われる中原兼遠。
その28年間。1155年の時に、兼遠が何歳だったのかがわかれば、解明しそうな気もするのだが。
大江姓と卜部姓を持っている「中原兼遠」とは別人なのだろうか。
謎、深まる。。。
1165年(長寛三年)の記載。山槐記 藤原(中山)忠親(1130~1195)の日記。
弁慶も巴御前も架空。果ては小野小町は架空と言うものまであった。根拠は、平家物語には虚構が有る物語。だから彼らも虚構と言う。一方で吾妻鑑は北条義時の歴史改竄との論調。
平家物語は、平家の鎮魂であると共に、実際に従軍した者、子孫から取材している。琵琶法師が、招かれた時に自分の親が参戦していたら、お金を積んで、話を盛り込ませていただけと思っております。
私もkunorikunori様も死んでから百年経ったら、存在は虚構ですね。
60歳過ぎて、蹴鞠は無理です。コンサドーレに私?が参加するような物。(笑)
オーレオレ開幕試合芝にほふ
文書の出どころを記載するのを忘れておりました。
気付かせていただき、ありがとうございます。
結構な一級資料なのではないでしょうか?
山槐記、 明月記、官吏補任、本朝正紀・・・
ただ、善行寺物語だけは、ちょっとわかりませんが。
中原兼遠と大江兼遠は別人かも知れません。が、もう少し粘ってみようと思います。笑
60歳代でも蹴鞠出来た方もいたかもしれませんよ~~!
飛鳥井氏にインタビューしてみたいですね。