上の記述では、太田乗明は「五郎」ということなのだ。
しかし、三善五郎康家(左衛門尉)は、文永二年(1265年)三月に没しているので、乗明ではない。(乗明は1222-1283年)
1257年の記載
左衛門三善次郎盛村 (中原盛村が同時代に別な文書に見える)
三善康長 左衛門尉三善五郎康家
三善康長はコトバンクにあったのでご紹介したい。(善康長)
上野(こうずけ)(群馬県)勢多郡膳(ぜん)の領主。建長(1249-56)のころ将軍供奉人をつとめる。鎌倉幕府問注所執事の三善(みよし)康信の子孫で,善氏は戦国末までつづいた。通称は右衛門。
又、康継の系も太田を名乗っていたので、もしも乗明が五郎だとすればこの系の五郎かもしれない。康継の息は康遠と康綱がわかっている。
康遠は備後国太田荘地頭として1233年に記述がある。乗明はまだ11歳なので、これは別人。
康綱も同じく天福二年1233年に大田庄山中郷地頭三善康綱とあるので、これも別人であると思う。
康経→康常→常を「じょう」とよむ→乗「じょう」明「みょう」となる。
法名を決める際、どこかに自分の名前のヒントとなる漢字を入れているように思えるので、
「康あきら」という人物がいれば、その方が乗明かもしれない…が、いまのところ「康経」が乗明と思って調べている。