岡田元繁が中原一族との情報を得たため、これが富木常忍につながってくると仮定し、遡ることとした。
富木常忍は千葉頼胤ー宗胤 を支えてきた文官である。(執事のような仕事)
千葉頼胤(1239-1275) 千葉宗胤(1265-1294)
さらにぐっと遡り、千葉介のことから学ぶことにし、webの助けを下記に求めることとした。
http://chibasi.net/souke14.htm
中原氏に関係がありそうなのは、天智天皇でもあるのだが、そこは飛ばし、平忠頼(平経明)の妻に注目して見る。
大野茂吉娘(伝承)…この大野氏が清原氏・大中臣氏と関係のある「大野氏」である可能性があると思う。wikipediaには上野国の豪族と出ている。
千葉介の常将は「経政」や「常昌」とも書く。
その妻は中原氏であったとの伝承を持っている。
調べてみると、
常将の父親である千葉介忠常は在京していた時期もあり、頼信の家人、さらに摂関家の藤原教通(1068-1085年)の家人となっていたようであるという。
同時代の藤原教通の家司に藤原登任がおり、こちらは常陸平氏とのつながりの可能性がありそうである。
さて、千葉介常将の妻となった可能性のある「中原氏」にはどのような人物がいるだろうか。
その頃の中原氏で、後々のことも考えると怪しい人物は「中原貞親の娘」である。
なぜなら、貞親の実の父親は『尾張秋時』でもあり、後の源氏の熱田神宮の関係につながってくるからである。天女が妻になったとの伝承は、実は巫女の事だったのではないだろうか。
中原貞時は下総守でもあった。ますますアヤシイ!
そのような縁から千葉氏につながっていった中原氏があってもおかしくはない。
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以下はmemo
東胤頼の娘、土岐光定の妻となる。
佐々木泰清の娘、東胤行の妻となる。
胤頼は胤行の祖父
光定の娘は胤行の祖母
そして東氏は千葉氏であり、重胤の妻は下河辺氏で藤原秀郷流である。
千葉氏の中の風見氏・小見氏も東氏一族である。
土岐光行
(?~1249)従五位下・出羽守・検非違使・土岐判官
妻は、千葉氏である東胤頼の娘。母は白川局
その後の土岐氏の発展に大きく寄与している。
光行は「承久の変(1221)」に後鳥羽上皇の京方として一軍を率いて参戦し大敗するが、断罪を免がれたのは千葉氏の有力さを表している。
その後、浅野判官と号して現在の土岐市浅野に逼塞し、永松寺(土岐市浅野)付近に
整備された宝筐印塔が光行の墓と伝えられている。
土岐光定
(?~1281)従五位下・隠岐守・伊予守
鎌倉幕府執権北条貞時の娘を妻とする。
その後戦功あり伊予国浮穴郡地方(松山市・重信町・久万町)の地頭となり、
悪党隠岐十郎を搦めとった功績で隠岐守に任じられた。
法名は定光、号は興源寺。
土岐頼清の母は佐々木頼綱の女
土岐頼貞(土岐光定の四男。文永八年生。延元四年暦応二年二月二十二日歿。享年六十九歳。定林寺殿雲石存公。墓所瑞浪市光善寺跡。土岐伯耆守、伯耆入道。妻は平宗頼の女)
─福光頼直(福光、枝広の祖。
弟高頼、弟乾道兼、弟頼衡、弟墨俣周崔、弟頼清[母は佐々木頼綱の女]、弟頼遠、弟麻生頼仲、弟福光頼里、弟頼基、弟頼兼[三条堀川篝屋守護人]、弟頼明、弟○[妻木祖])。
土岐頼清(土岐頼貞の六男、母は佐々木頼綱の女)
─頼康(文保二年生。元中四年嘉慶元年十二月二十五日歿。法号善忠。建徳寺節叟善忠。墓所は揖斐川町の瑞巌寺。従四位下刑部少輔、蔵人、左近将監、大膳大夫。室町幕府侍所頭人、美濃尾張伊勢守護。主君は足利尊氏、義詮、義満。弟揖斐頼雄、弟土居直氏[土居直利養子]、弟康貞[子に久々利利春、宇田康任、行之、羽崎光直])
─康行(揖斐頼雄の長男。応永十一年十月六日歿。応永十三年九月十四日歿とも。義行〔初名〕→康行、善喜〔法号〕。大膳大夫。室町幕府侍所頭人、美濃伊勢守護)
─世保康政(弟国康、弟満康[子に持康〔船木光俊養子〕]、女子[土岐詮直室])
─持頼(船木持康の子)
─政頼。
以上web情報である。
麻績の字なら認識していたんですけど、この字の地名もかなり興味深いですよ。こちらにも絡んでくるように思います。結局ここなのかあともびっくりしました。
千葉県誌 巻下に「木內胤朝の次子胤時 此に住し小見氏と稱す」とありました。
木内氏という名も気にかかります。
コメントありがとうございます。
土岐頼清と佐々木頼綱の娘から始まる、久々利行春が祖となっている久々利氏ですが、
今まで、あまり調べたことがなく、、、
藤原秀郷流の「藤原秀康、秀能」の母親が源光基の娘なので、その辺りとは関係がありそうだと思っています。
近江国の佐々木支流乾氏ですが、東浅井郡の「伊吹」に住んでいたそうです。庄司とあり、乾遠江守の弟だそうです。
後で、記事に地図載せます!