永正元年(1504年)
近衛政家 後法興院記 下巻 10月16日 【俊泰差下江州 九里館】とある。
義澄が水茎岡山城に来るのは1508年であるため、それ以前にも近衛氏とはつながりがあったと思われる一行である。
この大江俊泰の養女となった女性が北小路俊子で、近衛政家に嫁ぎ、尚通を産んでいる。
この大江俊泰は北小路俊泰ともいう。(近衛家の家司である大江姓北小路家 )
何かしら用事を受けて九里館に来たような気がする。
政家は1505年迄しか生きていなかったので、足利義澄のその後(水茎岡山城の件)には関りはない。
政家の息である尚通の時代となって、足利義澄の件で深く九里と関わるようになるのである。
蔵人・上北面や近衛家諸大夫を務めた北小路家である。
俊子は北小路俊泰の養女で、実は越前国の武士加治能登入道の娘。という事である。
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前記事では、日野家のことを取り上げたが、日野家と近衛家との関係はどのような物であったのだろう。
中世文人貴族の家と職—名家日野家を中心として—(申 美那)によると、
【兼光は長男資実と長親を九条家に入れ、日野家の将来を九条家に託する選択をした。兼光がこのような選択をしたのは、日野家が代々領家職を知行する若山庄など皇嘉門院領が九条良通に譲られたことに起因するところが多い。】
【兼光は五男頼資を近衛家に入れたが、頼資から勘解由小路と号する新しい家が分かれる。 】
この「入れる」は、どうも家司として務めさせる‥‥の様な意味合いなのだろうか。
広橋兼仲の例を見ると、家司・執事となって鷹司家と近衛家の家のことに携わっている。
広橋 兼仲 (1244-1308)
広橋 兼仲(ひろはし かねなか)は鎌倉時代後期の公卿。 『民経記』の著者広橋経光の次男。 勘解由小路 兼仲(かでのこうじ かねなか)の名で知られている。 日記『勘仲記』の著者。 建長4年(1252年)に元服、正嘉2年(1257年)に叙爵し、紀伝道(文章道)を学ぶ。 正元元年(1259年)に民部少輔に任じられ、近衛家・鷹司家の家司となり、弘安元年(1278年)より鷹司兼平・近衛家基の執事を務めた。 弘安3年(1280年)に兄兼頼が没すると嫡子として扱われ、弘安7年(1284年)に蔵人に任ぜられ、同10年に右少弁、正応元年(1288年)に左少弁、翌年には右中弁、左中弁に、その翌年には右大弁、左大弁..となる。
つまり、日野家を通じて、九里氏は近衛家にも出入りをするようになったのであろうと思う。
以前記事にしたように、その他にも「後法興院記」に九里の記載が出てくるのである。