治田(ハツタ)氏と八田氏
平安時代「ハッタ」と呼んでいたそうである。
八田時家(八田知家の息)が「伊賀守」だそうだが、他の情報は見いだせなかった。
【私の想像上の系図】
大江山城介久俊 ー 大江山城介久兼(脇坂氏説)
大江久俊の養子?として中原俊兼(山城権介)・久経が入るカ?
…つまり久兼と義兄弟となるか?
中原久経 ー 中原経久(蓮忍・河守庄)
大江久俊(1146年山城介)
長男・中原俊兼
二男・中原久経
三男・山城介三久兼 「三」を三男とみる。
中原俊兼(1157年 山城権介) 官史補任より
天永2年は1111年
保元元年は1156年
建久5年は1194年
此の一覧の俊兼は、3人なのか、2人なのか。
1156-1194年の俊兼は一人なのかもしれない。
鎌倉殿と13人の合議制(本郷和人著)より ↓
頼朝が官僚筑後権守俊兼の(生没年不詳)を叱った際のこと。筑後権守俊兼はやはり京下りの官僚で、大江広元の部下か、同僚にあたる人物でした。仕事もできて力を持っていたのですが、非常にお洒落さんで、十二単のように着物を重ね着して色柄を楽しんだり …(1194年の俊兼)
この小袖の件は藤原俊兼とあったので別人かもしれない。
が、私のなかでは、どうも中原俊兼のような気がするのである。
中原久経の母は藤原氏なので、藤原久経ともいえるし。
吾妻鑑入門さんよりお借りします。
元暦二年(1185)六月大十六日丁卯。典膳大夫中原久経と近藤七国平は、関東の頼朝様の使いとして、院宣を持って、関西とその周辺を検査して歩き、生産者からの納税に関する訴えを処理しています。今までの間に、苦情を聞きません。頼朝様は内心感心しておりましたが、尾張国に玉井四郎助重と言う者がおります。元々乱暴者なので、周りの者達はその横暴に嘆いていると噂されています。最近になって特に朝廷から出ている命令に従わない罪があります。それなので、例の二人が取り調べるために、呼出状を出しましたが、全く云うことを聞かないばかりか、かえって罵る有様です。そこで典膳大夫中原久経が頼朝様に詳しいことを手紙で申し上げたので、筑後権守俊兼を処理担当として、今日助重に命令を出させました。「朝廷からの命令を聞かない奴は、日本に住むべきではない。関東をないがしろにするなら、鎌倉の御家人とは認めない。さっさと何処かへ行ってしまえ。」なんだとさ。
中原俊兼(1156年 山城権介-1194年)筑後権守も?
中原久経(1160年 義朝右筆・1185年 鎌倉殿御使)
大江久兼(1167年 山城介ー1194年)
久兼は一時期中原を称していたこともあったのかもしれない。
とすれば、後で復姓した可能性もある。
大江久兼は婚姻関係によるものか養子縁組によるものか、
中原久経の息経久に河守荘の所領を譲り、山林を観音寺へ寄進。
久経の妻が大江久兼の姉妹?娘? もしくは久俊の娘が久兼の妻?
いろいろな可能性があって纏まらない。
空想だが、
大江久俊と中原某が兄弟で、
どちらかが亡くなり、その息らを預かり育てた…という事もありそうである。
俊兼と久経が兄弟であるならば、嬉しいなぁ=と希望。
大江久俊の久と俊が入っている二人である。
中原から大江に養子として入ったのだろう。
久経が長男、俊兼が二男、久兼が三男。もあり得るかもしれない。
なぜなら、久・俊・久…
もうひとつ、久経と俊兼
元暦二年(1185)八月大十三日癸亥。典膳大夫中原久経と近藤七国平が京都から到着しました。後白河院の庁からの命令書を持っています。もうすでに九州へは行き終わったんだとさ。持ってきた例の命令書の写しは、直ぐに筑後権守俊兼に預けられました。