九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

宗像氏の祖は阿田賀田須命(吾田片隅命)そしてそれは、近江国の奥津嶋神社へ繋がっている。

2023-02-04 | 古代からのつながり

大阪市、応神天皇、和邇吉師、素盞烏尊神社の由来と鳥居
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西文氏(河内書)氏祖、千字文論語、学問博士-  *中岡愛彦** 永炅*藤田康雄 共著

http://www.cave-ens.com/pdf/cens8_013.pdf

 

https://genbu.net/saijin/atakatasumi.htm

 「新撰姓氏録」では「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」とあり

 

 

『神社覈録』(じんじゃかくろく)の下巻 コマ89に近江奥津島神社 コマ525に宗像神社あり。

 http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-2317.html

 

津加計志神社  辺津宮があった可能性

http://deirahon.com/sub/KAZ/KA12.html

 

 http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-2317.html

 

此のブログのページでとても大切と思った部分は、

『宗像大宮司の遠祖が吾田片隅命になり、宗像氏(胸形君)は大国主命の六世孫となる吾田片隅命の子孫とされています。「新撰姓氏録」には、宗像朝臣 大神朝臣同祖。吾田片隅命之後也。宗形君 大國主命六世孫吾田片隅之後也。とあり、一方「先代旧事本紀」の地祇本紀には素盞鳴尊の八世孫 阿田賀田須命 和迩君等の祖。とあり、吾田片隅命(=阿田賀田須命)は和珥氏と宗像氏の両方の祖となっていると理解されます。そう、宗像氏と和珥氏の根っ子は同じだったのです。』

 

『「近江蒲生郡志 巻6」に大嶋大神の記述はありませんが、ここまでの検討により大嶋大神にも和珥氏の関与が確実視される結果となっています。以上、日牟禮八幡宮は鎮座の始まりから宇佐八幡宮の勧請にかけての長い時代において、和珥氏が最も深く関与しているとの結論に至りました。』

 

*****

本当に驚いた。

宇佐八幡宮の方が古いと思っていたので…

宇佐八幡宮のHPに以下のようにあった。

733年(天平5年)に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀りしました。

更にwikipediaでは

宇佐八幡宮から石清水八幡宮鶴岡八幡宮が勧請され全国における八幡信仰の拠点になった。

 

一方の近江の大島・奥津嶋神社は、武内宿禰が初めに任されたくらいなので、かなり古い。

成務天皇(ワカタラシヒコ)即位の年(131年)志賀高穴穂宮に居していた。

この成務天皇と同じ時代に武内宿禰により創祀されたと伝えられる(式内)大嶋・奥津島神社がある。

日牟禮神社が創建されたのは、大島・奥津島神社の後の事となる。

成務天皇の後に仲哀天皇の代となり、皇后が神功である。

近江と肥前の末蘆国を結ぶもの…やはり神功皇后になってしまう。

しかも、神功皇后よりも以前に大嶋・奥津島神社があったことになる。

 

神功皇后に追随していった建振熊命(和邇氏)。

宗像氏と和邇氏が同祖、となると、そのつながりは強かったと思う。

 

さらに事は複雑になってしまうかもしれないが忘れてしまいそうなので書きとどめておこうと思う。

宇佐八幡宮の豊後大神氏(おおがし)とのつながり。

紀氏から分かれたともいう富来氏(冨城氏・富木氏と一族だろうか)も国東半島の海を守るように富来神社がある。

 

その富来氏と同族かどうかはわからないのだが、九里の祖でもある【富城蓮忍】。

さらにその祖である江州中原氏。

中原という名は、末蘆国でも久里双水古墳のすぐ近くに中原という地名があり、やはり古墳がある。

 

ちょっと飛躍するのだが、↓

姓氏家系大辞典に記載がある【功力三郎左衛門】と呼ばれていた九里もいたようで、私の推理では

櫟(いちい)と書いた名が(くぬぎ)と読まれてしまったことから、あらためて「功力」と書かれた誤解であろうと思っている。

櫟氏は、和邇の一族である思う。(一井・市井氏と同じである。)

 

時代は室町後期となってしまうが、奥津島神社ともつながりのある北津田荘の地頭であった九里浄椿

大島の住民にお金の貸し借りをしていた九里氏もいる。

因みに、どちらからどちらかはわからなかったが、返済は完了している。(笑)

 

さらに、日牟禮神社の目賀田氏と戦国時代に義理の兄弟となって活動している。

(九里采女)目賀田某氏娘の夫となっていたようである。その娘の兄弟との義兄弟の意味。

 

*****

 

あまりに雑で自分でもあきれるばかりだが、頭の中は現在このようになっている。

この【宗像・和邇氏】と【中原・九里氏】とがどこかで繋がるのだと思う。

その始まりは、神功皇后の時代であったと思っている。

 

和珥一族の中に「真侶古命ー額田国造祖」が見える。(古代氏族の研究① 宝賀寿男 著作)

大直呂宇命…『真侶古命』は、私の本の印刷間違いなのかもしれない。

 

国造の本拠は美濃国池田郡額田郷、または近江国坂田郡。現在の岐阜県池田町、または滋賀県米原市にあたる。

 

 

memo

 

おおしまおくつしまじんじゃ 大嶋奥津島  北津田の方。
滋賀県近江八幡市北津田町529

     

おきつしまじんじゃ  奥津島    沖島にある方。


滋賀県近江八幡市沖島町188

 

 

 

 

 

 


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