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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

『はしもとでん』という建物なのか?『はしもとどの』という人物なのか…

2023-03-26 | 雑記

他の文書をあたってみると・・・(岡崎市史)

『両卿』とあり、人物が当てはまりそうである。が、さらに調べてみることにする。

wikipediaからヒントをもらうと『宇多源氏 佐々木氏一門 橋本氏』が紀伊とのつながりもあり、近いようである。

しかし江戸幕府からの紀州の関りとなり、ちょっと時期的にずれる。

 

他の文書には、橋本外記、橋本四郎左衛門尉(和泉)、橋本兵五郎(天明)

もしかすると近江国の【粟津橋本御厨】と関係があるのかもしれない。

この橋本御厨は有名であるようで、コトバンクにも載っていた。

魚屋さんの祖みたいな人々‥‥面白い!

https://kotobank.jp/word/%E7%B2%9F%E6%B4%A5%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E4%BE%9B%E5%BE%A1%E4%BA%BA-1144702#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88

 

しかし、この橋本御厨の供御人と柳原氏が両卿と呼ばれることも不自然な気がする。

 

公卿の【橋本殿】がどこかにいるはずである。

 

 

 

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「三好と一味シ」の三好氏はどなたのことだろうか? 他、細川藤孝は佐々木大原氏系であるという説。

2023-03-15 | 雑記

時期的に見て【三好之長】か、または息の【三好長秀】ではないかと思われるが、どうだろうか。

足利義澄を擁立させたのが細川政元であり、その細川政元の家臣の中に、三好之長・長秀がいたことになる。

九里も三好氏の指示を仰いでいたかもしれないし、あるいは、また九里に近衛氏とのつながりもあることから(足利義輝の母は近衛氏)その紹介で桜本坊に住んでいたのかもしれない。

彼女は、三好三人衆に義輝とともに殺されている。

九里氏もそこで三好氏と別れたかもしれない。何といっても足利将軍を守る側であったと思う。

 

文亀二年(1502年)の『近衛政家の日記(後法興院記)』にも記載があった。(九里四郎次郎とある)

後法興院記と九里の接点

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%BE%8C%E6%B3%95%E8%88%88%E9%99%A2%E8%A8%98

 

この後、足利義昭の門番として九里が登場する。(一乗谷にて)

【足利義昭】の人物叢書 奥野高広著 吉川弘文館 にも九里氏が登場している。

この本は明日以降とする。

 

今日調べていて、以下と前野長康とが重なってくるのである。

細川藤孝の母は清原宣賢の娘であった。

清原宣賢(1475-1550)
①父:吉田兼倶 母:不明
②子供:良雄・等貴・妙佐・宣賢女
③清原宗賢の養子となる。
④戦国時代随一の学者。
⑤宣賢娘は12代将軍足利義晴の側室となり続いて三淵晴員の妻となり、間に産まれたのが、山城国勝竜寺城城主となった「細川藤孝(幽斎)」(1543-1610)である。その息子「忠興」の正妻が明智光秀の娘お玉(後の細川ガラシャ)である。

宣賢の書いた【業賢記】のなかにも九里氏が登場するが以前から不思議だったのだが、この接点があったからだ。

そして清原宣賢と九里氏他が連絡を取り合っていたようなのである。

 

さらに、細川藤孝の息が忠興という事は、

藤孝氏の孫娘が前野長康の妻となり、こどもとともに洛北の岡田氏の許に逃げたその人である。

 

佐々木哲学校の記事に藤孝の近年の研究に関しての記事があった。

https://satetsu.seesaa.net/article/201312article_3.html

 

 

藤孝の養家は和泉上守護家ではなく将軍近臣の細川氏(奉公衆近江源氏佐々木大原氏出身で8代将軍義政期に入名字で細川を称する)であったという見方が有力となっている(←wikipedia↓)。

宇多源氏佐々木大原氏系

8代将軍足利義政瑞渓周鳳に仕える喝食 の寿文房を寵愛し、淡路守護細川家の養子という形で細川政誠と名乗らせ御部屋衆に取り立てた

これは入り名字といって将軍が側近などに足利一門の苗字を与えて序列を引き上げるもので、寿文房六角氏京極氏と同族の宇多源氏佐々木大原氏の子だった。入り名字は将軍との個人的な関係に基づくもので一代で終わる場合もあったが、細川一族からの異論がありながらも、名字は子孫に受け継がれた。

政誠は大内義興が上洛して足利義稙が将軍に復帰した時に出家して霊芳と名乗り、子とみられる細川高久が後を継いで足利義晴の時代に将軍の諮問に与る内談衆に任じられた。

その後は高久の子の細川晴広が継いだことが知られている。この晴広が細川藤孝(幽斎)の養父であったとする見解が近年出され、研究者の間では有力になっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%B0%8F#%E5%92%8C%E6%B3%89%E4%B8%8A%E5%AE%88%E8%AD%B7%E5%AE%B6%EF%BC%88%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%88%91%E9%83%A8%E5%AE%B6%EF%BC%89

 

九里氏とともに鹿苑日録に登場していたのも、大原氏でもあった。

これはびっくり情報であった。

 

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空海の風景(下) 司馬遼太郎(しんにょうはこちら→『辶』)

2023-02-19 | 雑記

下巻の主なテーマは、空海と最澄との静かな闘いである。

どちらも悪者でもなく、どちらもそうせざるを得ない必要があってのことなのだが、どちらも引けずに、こじれている。

最後の切り札として最澄は弟子の泰範を空海の許において叡山に戻ってくるのであるが、

其の叡山の学頭でもあった泰範が真言宗に魅せられ、結局は最澄の許に戻ってくることはなかった。

(学頭の時から、最澄に対する不満があったのかもしれないが)

 

空海と最澄との静かであったはずの戦いが、だんだんと露わなものとなり、やがて断交となる。

 

読んでいて気持ちの良いものではないが、このようなやり取りがあったかもしれない…と思うと、複雑である。

 

*****

私は小学校の時に近くの山で一年に一回『万灯会』があり、家族の思い出が詰まっている。

空海は、生涯の最後に万灯会を催したそうである。

それは長安での日々を偲んでのことではなかったか…と司馬氏は書かれている。

 

コトバンクによると、万灯会は「東大寺、高野山などのものが著名」とある。

日本では651年(白雉2)味経(あじふ)宮で2700余の灯を燃やしたという《日本書紀

孝徳天皇条の記載が初見で,744年(天平16)に東大寺の前身である金鐘寺で1万坏の燃灯供養を行った例が最も古い。

 

*****

 

空海とはどのような人物だったのか、彼の心が複雑すぎて、私には及びもつかない次元であった。

 

過去に観た空海展での目の前に見える形の方が凡人には程よく、空海の世界が面白いと思った次第。

 

 

 

 

 

 

 

 

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空海の風景 司馬遼太郎 (遼のしんにょうは、点二つ)

2023-02-18 | 雑記

「空海」

そのネーミングからして素敵と思う私はミーハーである。

 

以前トライしたが読むことが難しかった「空海の風景」が手許にある。

今回は一気読みすることができた。

 

この本の中に、イラン人・阿羅本に関しての記述があった。

 

また、昨日記事にもしていた「はし」=「波斯」と関係がある記述もあった。

ペルシャ人の持っていた宗教は『祆教』(けんきょう)と言っていたようだ。

 

空海の生きていた時代の【唐】は国際的で、様々な国からの僧も住んでいた。

 

 

空海の風景(上) 司馬遼太郎(中公文庫)より

p.337~

『波斯僧は、この宇宙の二大要素は善と悪である、宇宙は善と悪の相克する場でもある、とまず最初にいったにちがいない。

 善にして光明なるアフラ・マズラは、いっさいの善なるものを創造し、一方、悪にして暗黒なるアンラ・マイニュはいっさいの悪を創造し、たがいに戦い、たがいに相手を滅ぼそうとしている。それが、宇宙だ、と波斯僧は説くのである。この善神と悪神はそれぞれ軍隊をもって戦う。善神は天にあって天上の軍隊をひきい、悪神は地獄にあって地獄の軍隊をひきいる。天にある善神が、多くの天使や精霊をひきいているという構造は、祆教と同様、この長安に来ている景教(ネストリウス派のキリスト教)と酷似している。景教といえば、景教と同様、祆教にも人間に対する審判もある。現世界が存続するのは一万二千年で、その世界の終末のときに最後の審判がおこなわれるが、その審判によって死者も復活するという。』

・・・・・

p.339~

『この祆教の説く霊魂の生態―― 死後、三日間死体を離れないとか、風にはこばれて橋のそばにゆくなど――― といった内容に酷似した話が、いつのほどか日本に伝わったのか、日本にあって仏教俗信として存在している。祆教が、ある部分はキリスト教を教祖とする景教を思わせ、ある部分は日本の俗信を連想させるのは、どういうことなのか。日本に形を変えて伝来したとすれば、長安へ行った物好きの僧が、あるいは媒体者だったかもしれず、その媒体者を空海に擬するのは、思想というものを純粋に結晶体のようなものでありたいと志向しているかれに対して、むろん酷であることは言うまでもない。』

 

・・・・

p.344~

本の続きで、景教の話からになる。

『中国に入った伝道団の長老は、阿羅本(アラポン・・・アブラハム?)というイランの僧だった。貞観九年、太宗は、時の宰相房玄齢・魏徴らに命じ、阿羅本らを宮中に迎えてその説くところを聴き、経典の漢訳をゆるし、天下に布教することを許した。つぎの高宗も阿羅本をあがめて鎮護大法主とし、のちやや衰えたが、玄宗の保護によってふたたびさかんになった。玄宗は特に勅命して、それまで景教の教会が波斯寺とよばれて祆教と混同されがちなのをふせぐため、太秦寺と称せしめた。』

 

*****

 

以前、聖徳太子は635年に唐に景教が入る以前に亡くなっていた、と書いたが、もしも太子が生存していた年代が60年ズレていたとすれば、歿が622+60年となり、682年迄生存していたこととなり、景教として日本に渡ってきた時期にも重なると思う。

 

*****

祆教と景教、少し詳しくなったような気分となっている。

祆教は、拝火教とも、ゾロアスター教とも同じ宗教であろうと思う。

 

世界史の窓

「イランの民族宗教であるゾロアスター教が、中国の唐代に伝えられて、祆教または拝火教と言われた。

 けんきょう。祆は示へんに天。祅は「よう」で別字であるので注意しよう。イランのササン朝の国教であったゾロアスター教は、南北朝時代の北魏に西域から中国に入ってきたイラン系の商人によって伝えられた。唐では祆教、または拝火教といった。」

 

ややこやしいが、以下を読んで欲しい。外務省のHPより

https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_000039.html

「ヨーロッパ言語でいわれる「ペルシャ」という国名は、古代ギリシャの歴史家が、ペルシャ人が移住したイラン平原西南の「ファルス」地方にちなみPerse、Persanと呼んだことに由来するものであり、日本でもそれにならい「ペルシャ」、あるいはその漢字表記である「波斯」が用いられていました。しかし、パハラヴィー体制のもと、上記のような古代礼賛を起源とするナショナリズムが高まると、ペルシャ国民の間に「ペルシャ」という名称ではなく歴史的・地理的および民族的にもより広い意味を持つ「イラン」(「アーリア人」を語源とする)を自称すべきとの考えが広がりました。そこでペルシャは「イラン」への国号の変更を各国に通告しました。

 

ペルセポリスは、素敵な街であったはずだが、アケメネス朝における「ペルシャの都」という意味である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9

 

今も 多くの民族・言語・宗教混在の多文化国家と思う。

 

*****

 

私の叔父が、司馬遼太郎氏の「街道をゆく」の中に「九里氏」を見つけたと言っていた。

北海道道東に関する巻であったそうだが、私はまだ見ていない。(15巻か、オホーツク38巻?かもしれない)

 

もしもご存知の方がいらっしゃいましたら、是非教えていただきたく思っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

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欽明天皇の頑張り

2023-01-11 | 雑記

「任那復興」策と「任那の調」熊谷 公男 氏著

https://tohoku-gakuin.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=24059&item_no=1&page_id=34&block_id=86

こちらの論文中の表が、私には欽明天皇の頑張り、任那(大加羅)が滅びないようにと苦心している様子が見えて興味深い。この拠点を無くしては…と云う思いが強かったと思う。

 

この論文はまさに欽明天皇の時代から推古時代あたりまでが載っていて、大変学びになる!

ご興味のある方は、是非!!

 

 

 

 

 

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おくどさま 日本の拝火教と変遷していったか…

2023-01-09 | 雑記

岡山ではオドクウさん 美作では「ロックウさん」とも言われているそうである。

おくどさまは、京のことばで「竈」の意味。

 

さて、このもともとは原始の火の神様が、大和朝廷の時代のペルシャから入ってきたと思われる拝火教(ゾロアスター教)が入りやすい素地となっていたのかもしれない、と思う。

 

小林惠子氏の「西域から来た皇女」(祥伝社)によると、

東大寺の「お水取り」の松明を振り回すのはササン朝ペルシャ時代のゾロアスター教の名残とみている。

このササン朝ペルシャ時代のゾロアスター教は、水の女神も祀り、それはやがて弁財天などに通じるという。

 

さて、この西域から来た皇女は斉明天皇と遠縁のようである。

 

 

 

 

 

 

 

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おくどさま。台所に祀る火の神様。 荒神・三宝荒神

2023-01-09 | 雑記

そういえば、我が家に小さな鉄瓶があって「おくどさん」に置いておいて…と主人の母から言われていた。

「おくどさん」とは?

ふと調べてみると…土公神と同じ??(どこうしん)

おくどさん

カマドの神,クドの神とある。

 

思い出したときに‥‥と鉄瓶を棚から台所へ。

健康は台所から~~!

 

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アニミズムの神様

2023-01-09 | 雑記

アニミズムの神様を忘れていた。

ミミズも蛇も神様だ…と云う事は、大地を見て「神様」を思う事もある。

ーそこにもここにも神々は宿っているよーの方が、自然を大切にすることにつながる気がして、この捉え方は好きだった。

ネストリウス派周辺に染まっていたら、すっかりと忘却。危ない・危ない…

 

 

 

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ロレンソ了斎 平戸の琵琶法師 結城了悟 著作 長崎文献社

2023-01-08 | 雑記

この本の序文は

「旅人と 我が名呼ばれむ 初時雨」という芭蕉の句から始まる。

 

フランシスコ・ザビエル(1506年生)と山口のまちかどで出会い、彼の言葉に興味を持ち質問をした琵琶法師という事になっている。

ザビエルと通訳役であったフェルナンデスの言葉は日本語も拙くわかりにくかったのではないかと思うが、それでも聞いている者の心を打ったのだと思うと、その声色に嘘がないことをロレンソは感じ取ったのではないだろうか。

この琵琶法師が「ロレンソ了斎」となって、戦国の世の旅人となり「デウス様」を説き、人々をキリシタンへと導いていった。

高山右近、その父もその言葉を聞いてキリシタンになったように。

 

この本の著者はスペインの生まれで、日本に帰化した方である。

「素晴らしい研究と本の出版(2005年)、ありがとうございました!」

 

グレゴリオ聖歌を日本に於いて楽譜に残した二人として【ロレンソ了斎】と【諸田賢順】の名が挙がっているweb情報も個人的には興味深く読ませていただいた。

 

+++++

 

永原氏から始まって高山右近、古代のネストリウス派・・・

古くは神道もユダヤ教との共通点があげられているが、

世界中の人々にとって「神」を思う時に【天を仰ぐ】。

この行為の共通点こそが何かを物語っているような気がしてならない。

 

神…と聞いて、大地を見る人も世の中にはいるのかもしれないけれど、私が今のところ知らないだけかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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memo 金官国加耶周辺の参考となるアドレス

2022-12-29 | 雑記

以下は、memo 参考となるアドレスである。

 

空海ノート 補記 長澤弘隆 著

https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/nagasawa/new-13.html

 

 

藤井寺市 倭の五王の時代

https://www.city.fujiidera.lg.jp/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/koramukodaikaranomemessezi/wanogoozidai/1387511691287.html

 

 

田中俊明著 日本史リブレット70

http://ktymtskz.my.coocan.jp/S/kodai/kaya0.htm

 

これからは伽耶ではなく、加耶と書いた方が良いような気がする?(前の記事も訂正したが…)

地図には伽耶とあったが。。。伽耶の方が良いか?

 

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