昨夜、八田知家の母が中条家長の伯母となると書いたのだが、一晩明けて…
八田知家の母とした場合、年齢はどうなるのだろうか?と心配になった。
八田知家 1142年生まれ
その母ともなれば1118年前後となるだろうと思う。
一方、中条家長は 1165年生まれ。
父が例えば30歳離れていたとして1135年生まれ その妹である。
なんか、おかしい…。
ここは、深入りしない方が良いと思った。
私には解明は難しい。
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浅小井家長のほうだが、母親は加地信実は蒲生郡志にもそのようにあったことから、それを信じて先に進めたい。
浅小井家長の息は公宣 「治部・播磨守」その弟「乾五郎」とある。
九里に関係する「乾氏」の系なのではないだろうか。(長命寺縁起に水茎岡山城城主 乾甲斐守と名乗った人物の記載がある。)
公宣の息「氏輝」はもう一つの名前を「重宣」と言った。その氏輝の弟が「北條師方:北條師時成猶子娶大佛信時女」とある。
北條師時を調べると(コトバンク)
「1275-1311 鎌倉時代の武将。
建治(けんじ)元年生まれ。北条宗政(むねまさ)の子。母は北条政村(まさむら)の娘。長門(ながと)守護,小侍所,評定衆,引付頭人(ひきつけとうにん)をへて,正安(しょうあん)3年10代執権となる。応長元年9月22日出家,その日に評定の座で没したとつたえられる。西殿とよばれた。37歳。通称は武蔵四郎。法名は道覚。」
「生年:建治1(1275)
鎌倉後期の幕府執権。北条宗政の子。弘安7(1284)年7月小侍所に就任,永仁1(1293)年6月19歳で評定衆・三番引付頭となり,正安3(1301)年8月,出家した貞時のあとをうけて10代執権となった。師時は貞時の女婿である。この師時の執権就任は,貞時の子高時が成人するまでの間の中継相続的な性格のものだったとみることができる。同年9月相模守。嘉元2(1304)年10月従四位下。応長1(1311)年9月22日出家(法名道覚),同日死去。一書には23日評定の座で死去したと伝えられている。<参考文献>福田豊彦「北条師時」(安田元久編『鎌倉将軍執権列伝』)
(新田英治)
…とある。
その父、
「北条宗政
没年:弘安4.8.9(1281.9.23)
生年:建長5.1.28(1253.2.27)
鎌倉中期の武将。得宗北条時頼の子。母は北条重時の娘。時宗の同母の弟に当たる。幼名福寿丸。相模四郎と称し,西殿と呼ばれる。文永2(1265)年,従五位下右近将監。同年7月北条政村の娘と結婚。9年鎌倉幕府評定衆に列する。10年,引付頭人。建治3(1277)年武蔵守。このころ筑後守護となる。文永の役(1274)後,元の侵攻に対応するために鎌倉幕府は九州の守護を次々と新任したが,宗政は兄の時宗の分身として同国守護を務めたものと思われる。若くして病を得,死去。
(本郷和人)
…とある。
泰時の弟に政村がいるので、師時の母親が政村の娘という関係から浅小井師方を猶子として迎えたとすれば、やはり北條泰時の母は加地信実娘なのかもしれない。
さらに、浅小井師方の妹 金澤修理介時秀室とある。
詳しくはわからなかったが、北条時村の息が「時秀」である。
時村の妻は、父:二階堂行義である。
式部大夫 時秀と記載があった。この人だろうか? 金澤流ではなく、政村流となるのだが…。
氏輝には師方の他にもう一人弟がおり「宣親」といい「式部太輔 又信親 属足利尊氏公」とある。宣親の息にも式部 常晴が見える。
ここで蒲生郡志の頁をめくり、驚いてしまうのだが、氏輝の弟に範信がいて註に「號浅小井」とあるのだ。
あれっ、今までも浅小井だったのでは?と思い見直してみると、
長家は浅小井村に住し、浅小井の祖となっていたのだが、その後深尾谷に逼塞したため深尾氏を名乗り、その息に浅小井冠者はいたものの、どうも深尾氏を名乗っていたようである。母親が加治信実の娘である「家長」も深尾太郎」とある。
北條氏に入った師方の代も、深尾であった。
深尾氏と浅小井氏を姓氏家系大辞典で調べよう! (3)へ