九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

大友氏 と 富来氏(1)  近藤貞成・大友経家娘ー近藤能成ー大友能直ー大友親秀ー大友頼泰(母は佐原家連娘)

2024-05-24 | 九里バラバラ情報




wikipediaより
初代当主・大友能直の時代に大友家は豊後・筑後守護職と鎮西奉行職に輔任された。しかし、能直と第2代当主・親秀の時代には豊後に下向したという記録は残されていない。ただし、大分県豊後大野市大野町藤北に能直のものと伝えられる墓がある。九州に下ったのは能直の宰臣の古庄重吉(古庄重能)とされ、また、能直や親秀の庶子家もこの頃に豊後に入り土着している

大友氏が豊後守護に補任されたのは、少弐氏や島津氏の場合と同じく、かつては平家の基盤であり、平家の家人だった武家の多い九州に対する源頼朝の東国御家人による抑えの役割があった。


第3代当主・頼泰の代に豊後に下向する。文永の役を前にした異国警固のためとされるが、また大友氏の興隆は初代の能直の源頼朝との個人的な関係に基礎を置くため、源家滅亡後の北条氏の執権体制の東国では微妙な位置に置かれたことにもよる。頼康は元寇における戦いで武功を挙げて活躍し、大友氏興隆の基礎を築き上げた。以後、大友氏は分家とともに豊後に定着し、一族庶子を在地豪族の養子として所領を収奪し、勢力を拡大していく。

*****

このように、大友氏・少弐氏等の秀郷流の面々は九州という新たな土地へと赴き土着していくことになったようだ。
少弐氏は、秀郷流の武藤氏が始まりで、武藤資頼 が家祖となっている。
近藤氏と同族の武藤氏、もう一度この辺りを調べてみると、有間氏と蓮忍の関係が分かってくるかもしれない。
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土岐の長沢氏 と 里見の中沢氏 そして 波多野氏(山内首藤氏)

2020-01-19 | 雑記



http://kuwaichi.dip.jp/2_3_4.html
上記のアドレスの「鎌倉時代の武将たち」里見太郎義基と安井権守頼高  の記事を読んで、今まで調べて来た事とのつながりが感じられるため、書いている。

柏原の中沢系図に以下のようにあるそうで、その部分と上の義経の息・娘と絡んでくるのではないだろうかと思い、ココに出す。

正応年中依北条義時下知丹波桑田之府ニ移ル神尾山之城主とあり母九郎判官源義経女、右衛門尉光綱為猶子嫁レ義基

以下は大阪府豊能郡能勢の野木家に伝わる稲荷大明神の縁起文書  安井権守頼高

清和天皇之後胤多田満仲8代式部大輔兼摂津守源頼基ノ男、源姓安井権守源頼高 母ハ九郎判官源義経ノ女 承元元年2月12日誕生 右は安井家ノ先祖タリ 是ハ弥三右衛門殿持参書写


記事の文章をわたしの頭の整理のために書くと、

①里見(牛沢)重基は始め中沢を名乗っていた。
②重基の息の光助?(助光)が越中國長沢に住む土岐源氏の長沢光基の養子となる。(源光長―光経―光助の光助と思うが…別人ヵ?)
③光基の娘が里見(牛沢)義基の息 重宗に嫁いで生まれたのが基宗である。
基宗には男子が誕生しなかった。
越中長沢から養子に迎えたのが重義で彼は中沢を名乗らずに長沢を継承。長沢重義

「貞応3年の冬久下氏と同伴して丹波に来り多紀郡本目に住す」=1234年
とある。久下氏に随行してもらったという意味かもしれない。

「承久2年庚辰12月10日ニ鎌倉ヲ立テ同3年正月3日丹波國ニ着テ氷上郡栗作郷、多紀郡大山ニ一族安堵居城ス」
=1220年

上記の「安井権守頼高」は多田氏の系だそう。上記文書のなかに「多田満仲8代式部大輔兼摂津守源頼基ノ男とある。」


web情報に牛沢重基が載っていたのでコピーする。(日本通信百科事典)

https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E6%B0%8F_(%E6%BA%90%E6%B0%8F)

里見氏(さとみし)は、陽成源氏(河内源氏)流 新田氏(上野源氏)の庶宗家。上野里見氏とも呼ばれる。

上野国新田郡竹林郷(高林郷)[1]のほかに、北部にある同国碓氷郡里見郷[2]にも領地を持っていたために、竹林氏(高林氏)とも呼ばれた。

庶家に上野田中氏・中里見氏・上野大島氏[3]・鳥山氏・美濃里見氏(竹林氏/高林氏)・豊岡氏(豊前氏)[4]・上野太田氏・牛沢氏・上野山本氏・仁田山氏・常陸小原氏[5]・上野堀内氏などがあった。


新田義重の庶長子の里見義俊を祖とする。上野国北西部の榛名山付近を拠点として、その一門の中には越後国まで勢力を拡大した。

鎌倉時代の1180年に義俊の長子の義成は外甥の山名義範(矢田義清の庶長子)とともに源家(源姓鎌倉氏)の鎌倉頼朝のもとに馳せ参じて、ともに御家人に列せられ、重用された。頼朝の死後も、その子の頼家・実朝兄弟に仕えて将軍に近侍して、異母弟の義兼流である新田氏惣領家を凌ぐ存在となった。

義成の末子の竹林(高林)義直は、北条得宗家に仕えて、1221年の『承久の乱』の乱で戦功を挙げて、美濃国の一部を与えられて、美濃里見氏(美濃源氏)の祖となった[6]。

南北朝時代になると、義俊の6世の孫にあたる義胤は、惣領家の新田義貞に従って、『鎌倉攻め』に義貞の左腕として活躍して、北条得宗家を滅ぼした功で、後醍醐天皇から伊賀守に、さらに越後国守護にも任命された。

1338年に義貞が越前国藤島の灯明寺畷で戦死を遂げると、義胤は同族の足利尊氏(高氏)に徹底的に抗戦するも、義胤の族弟である美濃里見氏の当主の竹林(高林)義宗(義直の6世の孫)は、尊氏の同母弟である足利直義(高国)に従ったが、『観応の擾乱』で直義が兄に敗北したために、義宗は所領を失い、子の為俊(為利)とともに没落した。

室町時代になると、義胤の孫の基義は、鎌倉公方の足利満兼(尊氏の曾孫)に召しだされて、常陸国に所領を得て、遠縁筋の常陸国守護の源姓佐竹氏(常陸源氏)の家老となった。基義の子の家基の代に、源姓佐竹氏の最後の当主の佐竹義盛配下の武将として、『結城の戦い』で、結城氏朝・持朝父子を頼って、ともに鎌倉公方の足利持氏(満兼の子)に従いたために、将軍の足利義教の命を受けた関東管領の上杉憲実に抗戦するも、ついに敗北して、自邸で子の家氏とともに火を放って自刃を遂げた。こうして、源姓里見氏はついに滅亡した[7]。


その一方、安房里見氏の祖である義実(大隅守・氏義))[8]・義通(義成/成義)父子は家基の遺児[9]とする説があるが、これは後世の仮冒といわれており、安房国の土豪である海保氏[10]が「里見氏」と自称した可能性があるといわれている[11][12]。
歴代当主編集

里見義俊 : 新田義兼・世良田義光・世良田義季(得川義秀)・合土義澄(額戸経義)・義佐(義任)・庄田義盛(義益)の兄。
里見義成 : 田中義清・中里見義雅(政氏)[13]の兄。
里見義基 : 大島義継・鳥山時成・豊岡義行[14]・竹林(高林)義直(美濃里見氏の祖)の兄。
里見義秀 : 氏義[15]の弟、牛沢重基[16]・太田義宗[17]の兄。
里見忠義(基秀) : 時秀・義綱・義氏の兄。
里見義胤 : 時継(秀氏)・義貞の兄。
里見義連 : 義宣の兄。
里見基義 : 山本胤幸・仁田山氏連[18]・家連(貞連)の兄。
里見家兼 : 基宗・小原満俊[19][5]・海保堯常[8]室の兄。
里見家基 : 満行・堀内満氏・家成[20]の兄。
里見家氏 : 断絶。

脚注編集

1 ↑ 現在の群馬県太田市高林寿町・北町・東町・西町・南町の周辺
2 ↑ 現在の群馬県高崎市上里見町・中里見町・下里見町
3 ↑ 庶家は大井田氏(庶家は越後大岡氏・越後羽田氏などの越後源氏)・上野篠原氏・上野糸井氏など。
4 ↑ 上野国碓氷郡八幡郷豊岡村(現在の群馬県高崎市上豊岡町)を拠点とした。
5 ↑ 5.0 5.1 常陸国茨城郡小原郷(現在の茨城県笠間市小原大字)を拠点とした。
6 ↑ 『尊卑分脈』
7 ↑ 義胤の孫の仁田山氏連(義連の第3子)の系統は、戦国時代に榛名里見家の祖となったと伝わる(『上野国志』仁田山旧塁条)。
8 ↑ 8.0 8.1 海保堯常の子の義実の前名は海保常実であり、源頼朝に誅殺された上総広常の後裔とされ、その生母が里見基義の娘で、家兼の外甥で、家基の外従弟で、家氏の外従父にあたるため、家基・家氏父子が戦死を遂げると、上野里見氏の後継者と自称した説もある。
9 ↑ 美濃里見氏の系統とする異説もある。
10 ↑ 古代の上海上国造(上菟上国造)、あるいは坂東八氏の上総氏の系統といといわれる。
11 ↑ 『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男/古代氏族研究会/1986年)による。
12 ↑ 他説には、1193年9月(建久4年8月)に義俊が、安房国守護となり、以降から里見氏は同国平郡(平群郡)を拠点としたことを肖(あやか)ったともいわれている(『姓氏』(著者:丹羽基二・監修:樋口清之/秋田書店/1970年)366頁が引用する『安房志』(1908年刊行)および、『房総里見氏』「房総里見氏論 - 研究史の整理を中心に - 」(滝川恒昭/戎光祥出版社/2014年)より)。
13 ↑ 家貞の父。
14 ↑ 行成の父。
15 ↑ 重氏・重義・盛氏の父、重周(重氏の子)の祖父、義高の曾祖父、重高の高祖父、重益の6世の祖。
16 ↑ 重宗の父、基宗・重幸の祖父。
17 ↑ 重家・重国の父。
18 ↑ 成義の父、時連の祖父、国義の曾祖父、宗連(家連)の高祖父、宗義・義宗の6世の祖。
19 ↑ 持家の父、氏兼の祖父、政兼の曾祖父。
20 ↑ 義重(義繁)の父、義政の祖父、義貞の曾祖父、義時の高祖父、政成の6世の祖。


別な情報源より
https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E4%B8%80%E6%97%8F%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

3男:牛澤重基・・新田庄高林郷隣の牛沢郷住

       →子孫は越後中沢郷(長岡市中沢・新潟市中沢)

越中国婦負郡の長沢とのつながりをもう一度考えてみようと思う。

===*===
ここからは、私の全くの想像

源光長と息光経が歿した後、(光長の兄弟である光基)光基はその弟の光衡を息とし、また光経の遺児をひきとり育てることとなった。
光経の息であった光助はどのような経緯か「越中国婦負郡長沢」に居住し「長沢」を名乗ることとなった。
誰かの領地だった場所と思う。(婦負郡長沢…射水臣と関係のあった三善氏??)

光長の母は「左衛門尉清俊の娘」というが、たぶん山内首藤清俊のことで清俊の母は熊野別当の娘で「鶴熊」といった。
愛甲庄・畔蒜庄に名を残している山内経俊は藤原山内首藤清俊の曽祖父である。
山内尼が頼朝の乳母であったため、経俊は頼朝の乳兄弟となっていた。

その「鶴熊」と義経とは、会っていると思う。
熊野氏周辺と義経は繋がっていたのである。
義経は鳥居禅尼に刀も貰っている! 湛増に熊野水軍で加勢もしてもらっている。

土岐光長妻が熊野別当系孫?であったことから、義経との縁が繋がったとしても荒唐無稽ではない、と思う。

1243年の事↓


さらに、光基の娘が波多野秀宗 に嫁いでいる。
波多野秀宗は、官職は河内守。相模波多野氏(秦野氏)一門。


さて、越後の中沢とはどうなのだろうか。
「鎌倉時代の武将たち」にあった系図を基に考えると
http://kuwaichi.dip.jp/u_2_2.html


光綱に養子に入った義基の嫁となった「義経の娘」は、重基を産む。

越中国の長沢光基の娘が里見重基の息の重宗に嫁いで基宗が生まれ、基宗に息がいなかったために越中国の長沢から養子をとった。
越中国長沢の系、つまり土岐光助(助光)の後裔から、という事となる。

===*===

私の頭も混乱しているが、ともかく土岐氏・長沢氏 と 里見氏・中沢氏 が結ばれていたことがわかる。
このつながりが里見氏は万喜土岐氏にもつながっていくように思う。

そして、波多野氏(山内氏)と土岐氏、波多野氏(山内氏)と里見氏も其々に婚姻関係がある。

右衛門尉光綱の部分は、混乱するので省いたが、もしも「義経との邂逅」のように「野木光綱」であったなら、そこで佐々木氏とのつながりもできるという事になる。

中沢氏は久下氏と共に丹波国に来ている。
どこかに九里氏かその前身の中原氏と接点があるのでは、と思っている。


===*===

図書館のリファレントに以下のことが出ていた。memoとして置いておく。

源有綱の終焉の地について知りたいが、それに関して記述している資料はあるか。

奈良県の宇陀郡(現在の宇陀市)は、大和源氏の一根拠地であったこともあり、「源氏」にまつわる伝承が多い土地です。例えば、清和源氏の祖といわれる六孫王経基の墓と称される五輪塔が栖光寺(宇陀市大宇陀区岩清水)にあったり、元暦元年(1185)5月24日、源義経が大和国宇陀郡龍門牧に身を潜めていた(『吾妻鏡』)などがそうです。
ご質問の源義経の聟伊豆右衛門尉源有綱も宇陀郡において、文治2年(1186)6月、平時貞と戦って敗れたといいます(『吾妻鏡』)。ただ宇陀郡内のどの場所かを記述している文献は少なく、『奈良県宇陀郡史料』(宇陀郡役所編 大正6年)「総論」の年表(6頁)文治2年の項に「六月平時貞源有綱を下芳野に攻めて是を殺す」とあります。
この「下芳野」というのは旧宇賀志村(現在、宇陀市菟田野区)に属します。『菟田野町史』にはこのことが触れられていますが、場所は特定していません。したがって「下芳野」とはっきり書かれているのは『奈良県宇陀郡史料』だけです。
なお、上記以外の参考文献としては下記のものがあります。
① 『大宇陀町史』 新訂
② 『総合地方史大年表』

◆出典・参考資料
『全譯吾妻鏡』 貴志正造訳注 新人物往来社 (210.42-23-1~5)
『奈良縣宇陀郡史料 全』 宇陀郡役所編 名著出版 (216.5-311)
『菟田野町史』 菟田野町史編集委員会編 菟田野町 (216.5-243)
『大宇陀町史』 新訂 大宇陀町史編集委員会編 大宇陀町 (216.5-506)
『総合地方史大年表』 岡山泰四, 金井圓編 人物往来社 (210.03-68)



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真野氏と三浦佐原氏、真野氏と深尾氏。

2019-12-09 | 浅小井深尾氏

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/mano1.htm


(1) 東大史料編纂所蔵の『幕府諸家系譜』第二九冊に平姓という真野氏の系図が見えており、鎮守府将軍平良兼の第十三代として真野豊後守をあげ、その二男が真野孫三郎重政であって近江人と記し、その子の新太郎重則は近江に生まれて鷹匠として大神君家康に召し出されたとして、その子の九兵衛重吉以下子孫の系譜を記載する。

ところが、『姓氏家系大辞典』では『寛政譜』などにより、この家は、三浦佐原義連三代真野五郎胤連の後であって、「金右衛門重政(尾張富塚の人、仕信長)-同重吉(元亀二卒)-同重家(寛政に孫三郎重政、仕家康)-惣右衛門重則(近江二百四十石)」と記載する。この辺にも、尾張と近江に大きな混乱が見られるが、解明が困難である。
なお、真野金右衛門重宗(重家同人か)の養子に女系親族の庄九郎重勝(正勝)もおり、もと野尻氏を称していたが、真野氏を名乗り秀吉・家康に仕えて鷹匠頭をつとめた。
 
 (2) 『姓氏家系大辞典』では、秀郷流藤原氏という民部丞正永が近江真野を領して家号とすると記し、『寛政譜』には正永の後裔の「太郎右衛門正俊(仕信長)-勘右衛門正次(近江百七十貫文)-勘兵衛正重」という「正」を通字とする真野氏をあげる。

これも近江真野に起こったというから、実態は古族真野臣の末流なのであろう。 そして、上記(1)の九兵衛重吉の子孫の女性がこの「正」流真野氏の男性(真野与惣兵衛正常)の妻となって通婚するから、(1)と(2)とは本来同族で真野臣末流なのではなかろうか。こうしてみると、幕臣となった真野氏の多くが近江出自であったことも考えられる。


===*===

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%AE%B6%E9%80%A3

ここからは変な想像かも知れないが、自分の記憶のためにと留めておきたい。

浅小井家連がもしかすると三浦佐原家連(肥前守)かもしれないとするのは危険だろうか。
年代は同時代と思われる。
藤原実明(下記の系図では洞院実明)の孫が盛連の娘を娶り「公名」が生まれている。

「西園寺公経と三浦惣領家は親密な関係を持っていたことが知られているが、庶流の佐原家もこの洞院流藤原氏と関係を持っていたことがうかがえる。」(千葉氏・三浦氏のページより)

https://chibasi.net/miurasoryo6.htm



この系図中にいる三浦佐原盛連の弟に家連がいて、ひょっとするとそこと浅小井深尾氏とつながっていれば…という想像である。



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浅小井家長は公文職であった。

2019-12-02 | 浅小井深尾氏

若林氏による論文より

中世後期近江国蒲生下郡・上郡・〈境界地域〉と佐々木六角氏
著者 若林 陵一
雑誌名 東北文化研究所紀要

…ところで、蒲生下郡における古くからの土着勢力としては、本佐々木氏(佐々貴氏)一族の存在が知られる(前稿)。
具体的にそれらは「佐々木系図」によると、佐々木行実(「号豊浦冠者」)以下、

豊浦・一井・浅小井・奥嶋・馬場・賀茂・池田・武佐・船木・木村(以下蒲生上郡)・野口・山田(神崎郡か)・伊庭(以下神崎郡)・猪子・佐野・山崎など、多く蒲生下郡内の地名と一致する。
これらは、それぞれ当地の近くに本拠を置いた勢力とみられ、例えば正中二年(一三二五)の奥嶋荘に関して、「当庄下司式部四郎義信(正応本「佐々木系図」に同義信が奥嶋姓。
以下引用史料中の括弧内は筆者註)、公文家長(同じく浅小井姓)」らの動向が確認される。

===*===

私にとっては重要なヒントを含んだ内容と思う。

まず当荘下司式部四郎義信(奥嶋姓)
つまり奥嶋荘の下司を務めていたのが義信。

浅小井荘の公文を務めていたのが家長である。

以前の記事を絡めて書くと、

家長の母が加地信実の娘
家長の息が公宣(治部・播磨守) 弟は乾五郎
公宣の息が氏輝(重宣) 弟は北条師方(北条師時の猶子。母は大仏宣時娘)
            弟は範信(号 浅小井)
            弟は宣親、その息は常晴・宣政   

ついでに師時の母は北条政村の娘
師方の妹は金沢時秀(時秀の父は北条時村、母は二階堂行義)
加地信実の娘が北条泰時の実母とされる御所に仕える女房


さらに遡る。
初代は盛実。祖母は下野守紀盛宗の娘。
盛実は佐々木荘の下司であり、佐々木宮神主である。

大事な深尾氏の情報源である「深尾書簡」たつやさんのページより気になる部分を書き出す。

https://blogs.yahoo.co.jp/tatsuya11147/26826705.html

小源太(浅小井氏第二代・浅小井小源太清家、後改めて清長。その後、深尾監物太郎清長。以後、子孫は深尾氏を名乗る)の浅小井に蟄居

寿永三(1184)年の頃、佐々木源三秀義と同意して、親子とも伊賀国平田城を責め、戦には利を得候へども、大将秀義老死(七十二歳没)、その後父(浅小井氏初代・四郎長家)も病死(文治三(1187)年)。

その後、清長の次男・安顕ヤスアキ。別名・安頼。承久の乱(1221年)にて戦死

安顕の息・家連(深尾小文太)(入道了弁=家連

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/ca6b8d2d85209f5c5e2d16f517e77074



===*===

上記の家長が「公文職」であったこと、富木常忍の親族と思われる中原能兼が「公文職」であった可能性が高い事がリンクする。文書には公文家長と出てくる。

【日本中世の身分と社会】 丹生谷哲一著 塙書房
この本の中に
「富木蓮忍・常忍の本姓が中原であったことが知れるわけであるが、とすると、さきの伊賀国御家人中原能兼についても同族関係が想定されてくるので、千葉氏が伊賀国守護に補任されて「十一ヵ所御領」(守護領)を管領するにあたり、その「公文」として執事家富木常忍の同族の者がその沙汰に従った可能性は少なくなかろう。」

とある。

ここで、九里氏の前身である中原氏と浅小井深尾氏とは同族なのではないかと思っていたことが、より近くなったと思う。

また以前中条家長とのことも考察したが、また気になる点が。。。
宇都宮知家の猶子に中條家長。

「建久6年(1195年)には毛呂季光と私闘を起こしている。家長は知家の養子となったことで思い上がり、尊大な態度が増えたため…」とある。

宇都宮知家のことである。

浅小井深尾氏の家長が中条家長であれば、宇都宮氏とも繋がり、全てが上手くいきそうなのだが…

年代はどうなのだろうか?
以前の考察では別人という結果に終わっているのだが。。。。

宇都宮知家=八田知家(朝家)である。父は八田宗綱。
中原宗綱の本当の父は「中原宗家」だったのではないだろうか。





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推定年代が変わった事での可能性。

2018-12-23 | 九里【まとめ】

兄経久と弟常忍と考えると、より自然な気がする。…ということで、推定年代。

九里氏パターン2.
賢清 1155年 
経任 1180年 景経1185年 (この場合は経任の妻が常忍の母)
経久 1205年 経季1211年 常忍1216年
経重 1230年

上記に合わせてみると、あの 基仲帥(蓮浄)~藤原実明~蓮乗~蓮忍 が似合ってくる。

基仲帥は近江入道であり、業資王や業仲王の母の父親でもある、卜部基仲の事である。

卜部・・・この氏も祭祀を執り行う氏であり、中原・大中臣・清原…などと同じである。
そしてこの卜部基仲の娘が嫁いだ先が白川伯王家(花山源氏嫡流)だったのである。
仲資王(1157年 - 1222年)の妻となり、二人の男児を産んだ。

業資王(1184年 - 1224年)
資光王(? - 1266年)である。

この近江入道基仲がもしも蓮乗の祖父であるならば、賢清の妻か母が近江とかかわりのあった基仲の娘であったのかもしれない。

そして卜部の始まりは、神功皇后なのだ。
更に代々の対馬の卜部を統括していたのは橘氏だという。

何かこの辺りと経任が橘氏と改めたことと、関係がありそうに思う。
ちょうど業資王が生まれたあたりと同じころ経任も生まれていること。

源業忠
源康仲 資基王の三男 母大友親秀の娘 生没年:正嘉2(1258)年 - 嘉元4(1306)年6月16日
資緒王 資基王の子 母:大友親秀の娘 生没年:建長2(1250)年 - 嘉元3(1305)年10月4日
能直の息親秀の事。生誕 建久6年(1195年)
死没 宝治2年10月24日(1248年11月10日)

大友親秀(コトバンク)
鎌倉幕府に御家人として仕え、源氏将軍が絶えた後は摂家将軍藤原頼経に仕える。嘉禎4年(1238年)には頼経の上洛に随行した。大友氏の基盤を固めるため、弟の詫摩能秀と共に協力して国政を行い、嘉禎2年(1236年)には家督を子の頼泰に譲って隠居し、次代を磐石にするなどして大友氏の基礎を固めた。宝治2年(1248年)10月24日、54歳で死去。(中原姓の摂津親秀とは別人)

大友親秀の父能直
大友 能直(おおとも よしなお)は、鎌倉時代初期の武将・御家人。近藤氏の出で、大友氏の初代当主。父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の三女・利根局。養父に中原親能。

秀郷流波多野系図 
波多野経家と三浦義継の娘との間に生まれた女子が近藤能成を産む。
能直の母は中原親能の妻の妹である。


大友親秀の妻は佐原家連の娘

佐原家連
?-? 鎌倉時代の武将。
三浦義連の子。承久(じょうきゅう)の乱で朝廷方の紀伊(きい)南部(みなべ)荘(和歌山県)の熊野法印快実が打ち首にされたあと,同荘の地頭職(しき)をあたえられる。貞応(じょうおう)2年(1223)紀伊守護。通称は三郎左衛門尉。


平凡地名=小田原市東大友、西大友一帯=平安末「足上郡大友郷」=母波多野経家女を通じ能直に伝えられたものか、能直後家尼深妙より配分した延応2に地頭郷


中原氏・大友氏・波多野氏・三浦氏(和田氏含む)・佐原氏・ここには登場しないが大江氏・宇都宮氏等、
と幅広い関係が、すっぽりと九里氏とも関係するという事は、

中原親能の周辺。

「経」「景」のついた中原氏を見つけることが、その系を見つける手掛かりとなるかもしれないと思い、軽く調べてみた。


隣にいる中原(宮道)忠弘も気になっている人物であるが、ともかく「経明」という人物に出会った。
また、友景・景賢も見つけた。いずれも同世代である。1185年周辺に活躍期。

九里の場合、経貞から突然に賢清となっているので、養子に入ってきたか、または養子となってどこかへ入ったかだと思う。とすれば、「賢」か「清」のついた親か養父となった人物がいたのではないか?という事で、景賢はとても怪しい。元暦二年は1185年


友景・景賢ー賢清などとつながってくるのか?(・は兄弟、ーは親子)

経貞ー賢清ー経任・景経ー経久・経季…



田渕句美子氏によると、
中原友景(知景)は、後嵯峨院北面であり、西園寺家に仕えていて、公経に信任されていたこと ...
三月一干日の公経家影供和歌会に秀能と共に出認し、
また同年聞三月一一十九日の実民家連歌会にも参加している。

藤原秀能は和田氏でもある。


中原(宮道)忠弘は藤原定家の執事をしており、
また、この中原友景は西園寺家の家司であったようである。

経明は少外記の他は未だわからない。
景賢も権少外記の他いまだわからない。

忠弘は藤原親行男。法名賢寂。
定家母の兄親弘の孫で、定家の家の執事を勤めている。

はやりこのあたりの中原氏を徹底調査が必要らしい。



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大友親秀の娘は、津守経国に嫁ぎ国平の母である。(メモ)

2018-06-13 | 祝部氏

これも忘れそうなのでwebに出しておきます。web情報をあちらこちらからいただいております。

津守経国は大友親秀の娘を妻とし、国平の父である。

親秀の父は「大友能直」であり、氏族:近藤氏(古庄氏)大友氏祖(本姓:藤原氏、中原氏)とある。
親秀の父:近藤能成、
母:利根局(波多野氏)
養父:中原親能

兄弟 能直、重能、田村仲教、親実
妻 深妙
子 親秀(親季)、詫摩能秀、時直、元吉有直、親直、禅能、朝直、一萬田時景(景直)、鷲尾秀直、志賀能郷、豊前能基、田原泰広、
女(北条朝時室)

大友氏と竹中氏と土岐氏
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/takenaka1.htm

★大友氏系図

藤原秀郷-千常-文脩-脩行(近藤)-行景-景親-貞成(景頼武者所)-能成-大友能直●(母は波多野(大友)四郎経家娘、祖父の所領・相模大友郷継ぐ、称大友氏、一時、中原親能猶子になる。豊後、筑後守護職など、鎮西奉行職を代々世襲、●豊後の大友祖、大友初代)-親秀-*大友頼泰(蒙古襲来鎮西下向)--つづく。

★大友氏系図∴大友能直●(母・波多野四郎経家女)-親秀(母・畠山(高山)四郎重範入道女)-頼泰(母・三浦肥前守平家連女、蒙古襲来豊後下向、豊後守護職兼鎮西奉行)-親時(左近将監、蔵人)-・・・大友義鎮(21代、宗麟、左衛門督、豊前
豊後筑前筑後肥前肥後守護日向伊予半国守護職、九州探題職。)

●波多野氏(相模国余綾郡(のちの大里郡)波多野(秦野)に起こるものは、藤原
秀郷末。秦野とも互用。異流が多い。姓名順位2878位。)

★大友氏

大友初代能直は、源頼朝の庶子ともいうが、また別に、藤原(相模国愛甲郡の古庄郷司の近藤(太郎、太)能成の長男で母(波多野<大友>四郎経家の娘)は中原親能の
妻と姉妹で、親能の妻が頼朝の子・三幡(夭折)の乳母であったことから、能直は
大友氏を名乗り、(中原)親能の養子となって、(源)頼朝に寵仁されたといわれる
。その後、(大友)能直は筑後、豊後、肥後の守護職に任ぜられた。

能直の庶子は能直が妻・深妙に預けた遺領の豊後大野庄を分割相続した。庶子は早く
からこの地に移住し、深妙は京都に在って後見している。嫡子親秀には本領の相模大友郷が与えられたが、三代・大友頼泰に至って初めて豊後に下向した。(蒙古襲来により)
守護大名としての大友氏の発展は、六代貞宗の頃からであり冷静に時勢の推移を洞察し、足利尊氏を武家政権の受け皿として、その軍勢催促に応じ鎮西探題・北条英時を壊滅させた。そして家督を継いだ貞宗七男の氏時は足利尊氏の子・義詮の信頼を受け、北条(鎮西)探題館で大友、少弐氏により憤死させられた菊池武時の子・武光(南朝方)との宿命的な戦いを展開し、九州において北朝勢力(武家方)の孤塁を死守したのである。(戦国大名出自事典から抜粋・・・。日本女子大・西村圭子著)

三浦義継は一人娘を西相模一帯に勢力を持っていた波多野党(義朝との関わりも深かった)の一族・大友経家(大住郡大友郷)に嫁がせ、波多野氏との結びつきを強めた。
●波多野(大友)四郎経家は三浦義継の一人娘を妻とし実子・実秀がいたが子がなかったので、外孫の能直に本領の相模大友郷を相伝させた。
中原親能はその甥の能直を養子にしたのである。母方の相模国で成人した親能は、頼朝のもとで政所別当を勤めた大江広元と兄弟で、幕府の創業期に大きな働きをした。能直の祖先・則明は源頼義の郎従で前九年の役で活躍した。


以下は佐々木哲氏のメルマガよりである。

紀伊有田郡竹中氏系譜研究3

~豊後竹中氏と土岐氏



美濃国には竹中氏の名字の地はない。そのため竹中氏の系譜伝承は錯綜している。竹中という地名は京都市伏見区竹中町、大分市竹中などがある。この中では大分市竹中が、大友氏族竹中氏の名字の地である。



大友―族の竹中氏は、豊後大友氏の祖大友能直の次男戸次重秀に始まり、大友能直―親秀―戸次重秀―竹中掃部頭頼尚―重実と続く。もともと戸次氏は豊後大神氏(臼杵氏)の一族であり、惟澄のとき男子がなく、大友能直に所領を譲渡した。そして能直の孫重秀が戸次氏を名乗り、大友氏族になった。戸次氏の名字の地は豊後国大分郡戸次庄であり、臼杵・戸次両庄は九条家領であり、豊後灘に注ぐ大野川中流域戸次、竹中、判田、松岡を中心に吉野・東稙田にまたがる大分市の東南部地域である。豊後國志によれば、三十七村あったという。豊後国図伝帳によれば、戸次氏の所領は戸次庄九十町をはじめ、大神庄藤原井手村、大神庄真奈井野木、乃井村、速見郡由布院、安岐郷守江浦三町、稙田荘福重名大野荘中村、国領柴山村など三百七十五町にもなり、主家大友氏に準じた。これは戸次氏が豊後大神氏を継承したからであろう。



『系図算要』には「以赤橋重時縁坐服近北条氏」とあり、重秀が北条重時の縁者であったことがわかる。続群書類従所収大友系図(巻百五十)には重秀の後室が中村禅尼玲阿とあるが、この中村禅尼が重時女であろう。そうであれば、重秀の嫡子時親が執権北条時宗を烏帽子親に元服して一字書出を給わり、北条氏に近かったことも理解できる。重秀は長男時親(太郎左衛門尉)、二男重頼(松岡左近将監)三男頼親(利根次郎)、四男頼尚(竹中四郎掃部頭)に分割した。竹中氏は重秀の四男頼尚の子孫である。



鎌倉幕府により九州に鎮西探題がおかれたときの関東御教書案によれば、時親の子貞直は永仁七年(一二九九)正月二十七日相模守北条貞時より鎮西評定衆に任じられている。このとき評定衆に加えられたのは越後九郎、豊前前司、渋谷河内権守重郷、伊勢民部大夫、戸次左衛門尉であった。また鎮西引付記によれば永仁七年四月十四日条に、三番引付頭人は大友左近蔵人(貞親)で、戸次太郎左衛門尉(貞直)の名もある。北条随時のときには一番引付は戸次貞直、主家の大友貞宗(近江守)は三番引付であったので、幕府の戸次貞直に対する信頼が厚いとわかる。北条英時のときには、一番引付戸次左近蔵人入道とあり、これは重頼と推定されている。さらに、嘉暦二年(一三二七)の鎮西評定衆には、大友貞宗とともに、戸次豊前(貞直)、戸次左近蔵人入道(重頼)とあり、それぞれ貞直、重頼と見られる。この時期戸次氏は主家大友氏と並ぶ活躍をしたことが覗える。戸次重頼(重秀次男、松岡左近将監)は松岡に、長興禅寺を創建し要翁玄綱が開山した。竹中氏はこの戸次氏の一族であり、北条氏との関係も深かった。



ところで土岐氏も美濃の有力御家人で、北条氏と姻戚関係を結び、土岐隠岐守光定は北条氏を妻としていた。尊卑分脈や続群書類従所収土岐系図で、光定の庶子は隠岐太郎・三郎と称し、嫡子は隠岐孫太郎・孫二郎・孫三郎と称した。系図では頼貞母(光定妻)を北条貞時女とし、頼貞妻を北条宗頼女とする。しかし頼貞母(光定妻)は北条貞時女では年代が合わない。時定女の誤りだろう。系図ではよくある錯誤である。光定が時定の女婿であれば、両者の諱字が共通することも理解できる。



「明智氏一族宮城家相伝系図書」では光定妻(頼貞母)を北条経時女とする。たしかに経時であれば年代も合うが、比較的信用できる尊卑分脈などで貞時女とするならば、時定女の錯誤と考える方が自然であろう。時定が経時・時頼の同母弟であることから、「明智氏一族宮城家相伝系図書」は時定女を経時女と誤まったのであろう。



時定は得宗北条経時・時頼兄弟の同母弟で、肥後国阿蘇社領を管理して阿蘇氏を名乗り、元寇では肥前守護・鎮西探題に補任されている。孫太郎定親の名乗りは外祖父北条時定に由来すると考えられる。また頼貞妻の父北条宗頼(相模修理亮)は、得宗北条時宗の異母弟であり、豊後守護大友頼泰女を妻とし、元寇に際して周防・長門守護を兼帯して長門探題に補任されている。頼貞の名乗りは摂津源氏の通字「頼」ではなく、北条宗頼に由来すると考えられる。



このように土岐氏は北条氏と重縁を結んでおり、とくに頼貞の舅北条宗頼は、豊後守護大友頼泰の女婿であり、大友氏の一族である豊後竹中氏が女佐の臣として美濃に居住したことは十分に考えられる。それが美濃竹中氏であろう。そこに半兵衛重治の父岩手遠江守重元が養子に入って竹中氏を称したと考えられる。

~~~*~~~

津守氏は、大友氏 近藤氏 中原氏 波多野氏 三浦氏とつながる事となる。

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三浦佐原氏と紀伊守護

2016-08-19 | 佐原氏バラバラ情報
【紀伊国守護】

鎌倉幕府
代 氏名             在職期間        出身家

1 豊島有経 としま ありつね 治承8年 - 不詳1184年 - 不詳 豊島家

2 佐原義連 さはら よしつら 不詳 - 建仁3年 不詳 - 1203年 三浦家

3 後鳥羽上皇御          建永2年 - 承久3年 1207年 - 1221年

4 三浦義村 みうら よしむら 承久3年 - 不詳  1221年 - 不詳 三浦家

5 佐原家連 さはら いえつら 貞応2年 - 嘉禎3年1223年 - 1237年 佐原家

6 北条久時 ほうじょう ひさとき 弘安3年 - 不詳 1280年 - 不詳 赤橋流北条家

7 北条時兼 ほうじょう ときかね 正応4年 - 不詳 1291年 - 不詳 普恩寺流北条家

8 北条氏  不詳 - 元弘3年    不詳 - 1333年        北条家

紀伊国と関係が深かった三浦佐原氏であった。

しかも、義連! 盛連は、会津だが、盛連の六男時連(矢部禅尼の三男目)が新宮を名乗る理由は、ココだったのではないだろうか。
つまり、六男が紀伊国守護であった時代もあったのではないだろうか。家連の後にくるのでは?

家連に関して(コトバンク)さはら-いえつら
?-? 鎌倉時代の武将。
三浦義連の子。承久(じょうきゅう)の乱で朝廷方の紀伊(きい)南部(みなべ)荘(和歌山県)の熊野法印快実が打ち首にされたあと,同荘の地頭職(しき)をあたえられる。貞応(じょうおう)2年(1223)紀伊守護。通称は三郎左衛門尉

いつの間にか、また新宮氏関係に戻ってきている。きっとここに何かがあるのだと思う。

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