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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

武功夜話 前野家文書 四巻 吉田蒼生雄 全訳 新人物往来社(2)良峯姓 前野宗長 周辺 追記あり

2020-10-29 | 佐々氏 バラバラ情報

宗長:高長長男、初名小二郎という、前野右馬入道宗長と成る 滝口を称号す始祖なり。
宗長は尾張守平忠盛卿に召し出され、京師に罷り越し北門警固の御役儀を仰せ出られるため、御帝より滝口の姓を勅許蒙る者なり、よって右馬入道宗長をもって武門と成る始の人なり。


長高:高長次男 羽黒氏元祖 長高初名二郎という、羽黒二郎長高と成る。
長高の子孫は長俊・吉高・佐高
長俊の系は吉綱・幸範
吉綱ー安義・高光(土佐三郎)
安義ー義光・長光(羽黒村居住)

吉高(箱羽三郎云)-住高ー高俊(この人後僧と成る)
吉高の息安氏ー佐善(長谷部氏の元祖なり)

長高ー佐高ー祐義(長高三男 岩部氏と成る)


女子:

右は羽黒三党なり、岩部氏箱羽氏長谷部氏長高元祖なり、尾張国羽黒村に居住仕る者なり、羽黒長高は前野右馬入道宗長と共に京師北門警固の武門の家繁昌。

===*===

宗安:宗長嫡子 佐兵衛尉、前野右馬入道宗安滝口を称号。
嘉禎元年1235年卒 七十二歳。

入道宗安の室は越後国頸城郡菅原天神の社家吉田氏の女なり。
宗安は尾張国守平忠盛公に召し出され忠盛の家人と成る、親宗長と共に京師北門警固の任に当たり、養和元年1181年信濃国の住人木曽冠者源義仲人数を催し越後国に乱入を企てるの時、相国平清盛公の御舎弟薩摩守忠度卿、越後国守城助職公加勢のために入道宗安を遣わされる、すなわち宗安人数を相集め越後国頸城郡吉田荘に下向、塁城に拠り取出を築きこれを守る、城助職公は越後越中勢を召し連れられ、信濃国横田河原に攻め入りなされ布陣、勢い盛んなり、さりながら戦い利非ず越後の国府まで敗退、同年六月越中国倶利伽羅の一戦に大敗、越後勢は四散廃軍と成る、御舎弟の長茂公に随い奉り共に山城国に隠れる、建仁1201年二月長茂公源氏追討のため、院宣を乞うも許されず、遂に東洞院御所に人数差し向けこれを囲む、この時入道宗安勇戦仕る、身方は無勢郎党多く討ち取られ大和国吉野郡吉野山なる処に隠れる、源氏の詮議は吉野山中に及び、やむなく同国生駒郡山中に潜み隠れるの時、院宣これあるに依り河内判官代に罷り出て旗下に参ずる者なり、この御陣は生駒山中に隠れ候いて依り十有余歳の後の事、入道宗安関ねんの宿志果さんと判官代に随い城南寺に駆け向う、河内判官代は尾張川に部署を定む、入道宗安は尾州住人中嶋左衛門尉と共に洲俣川を守る、宮方は敗退して北条義時の軍門に降る、中嶋左衛門尉は六波羅に願い出でなされ仍って旧領安堵の御沙汰あるに依り、入道宗安は左衛門尉の被官と成り、先祖代々の本貫の地前野邑九十五貫文下し置かれ候事、維時承久の歳三年春1221年 宗安公の事永正改め系図を写す。

===+===

明俊:前野左兵衛尉高長三代、右馬入道宗安舎弟土佐坊明俊信濃国伊奈郡笠原牧居住、前野氏元祖。
明俊ー定俊(土佐坊)・宗光・高近(左兵衛尉高近勢州河内住居前野氏)

宗光ー宗吉ー安定(前野二郎宗光美濃国 土岐郡笠原牧居住)・宗高(前野氏)


===*===


城長茂=長茂公とは、城四郎 のことで、城資長・坂額御前の兄弟である。
城氏(じょうし)は、平安時代から鎌倉時代初期に越後国に栄えた豪族。本姓は平氏。常陸平氏大掾氏の傍系で越後平氏ともいわれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E9%95%B7%E8%8C%82

武功夜話 前野家文書 四巻 吉田蒼生雄 全訳 新人物往来社(1)良峯姓 立木田高成周辺

2020-10-28 | 佐々氏 バラバラ情報

尾張国丹羽郡稲木庄前野村前野氏系図
永正二年 1505年
永正六年 1509年改め
寛永十一年1634年吉田孫四郎改め

尾張国丹羽郡稲木庄主
元祖 本姓良峯氏、寄木郷立木田本家
高成:高成は立木田太夫高成と称号。
尾張国丹羽郡稲木庄主となる祖宗開発伝来の治田なり。
尾張二の宮の大宮司家となる。
高成の室は坂東平氏上総権介平広常の女なり、故に後高成の女伊勢の平氏の平忠盛公の側室なり。

高春:高成長子 原氏祖
原太夫高春と称号。
尾張二の宮の大宮司と成る。
尾州春日井郡郡司と成る。その地に移り原氏の祖なり。


高義:高成次男 立木氏祖
立木田高成の次男なり、高成の跡を襲い立木田を称号尾張国丹羽郡郡家なり、稲木庄寄木村に住す立木の元祖なり。
高義ー高重・高光・高真
高光の子孫は高将・兼高ー住高ー遠高ー員高ー成高ー正高(立木氏祖)・吉高


高長:高成三男 前野氏元祖 高長尾張国丹羽郡稲木庄前野邑に住す小弓庄主なり。
佐兵衛尉と成る、高長定紋 揚葉蝶菊桐と相定む、高長は立木田太夫高成公三男なり、尾張国丹羽郡小弓庄を開発荘主と成る、尾張国丹羽郡前野邑の開発草分けの元祖、高長公は前野佐兵衛尉高長を称号する始めの人なり。


高弘:高成四男 下野氏 高弘尾張国丹羽郡稲木庄下野邑に住す。
尾州丹羽郡下野氏の祖なり、高弘下野邑上野郷を開発治田と為す、下野氏上野氏定紋、揚葉蝶桐紋と相定む、高弘公は元祖なり。


女子:高成子
女子一人あり、この女子伊勢国平氏の棟梁平忠盛公側室と成る、その子薩摩守忠度卿なり。

===*===

上野氏 高弘子三人あり
高守・高光・高助
下野弥六郎高助は尾州稲木庄下野邑を開発、下野氏の元祖なり京師北門を警固






武功夜話には出てこない話  良峯清風と良岑晨直(ときなお) さらに・・・ 尾張大海の娘

2020-10-25 | 佐々氏 バラバラ情報

良峯安世のご子息方
木蓮(よしみね の いたび)、長松(よしみね の ながまつ)、清風(よしみね の きよかぜ)、宗貞(遍昭)、高行、遠視、晨直、晨省、晨茂、行振

良岑 清風の母は丹治氏娘

良岑 衆樹(よしみね の もろき)の妻は丹波氏または丹治氏娘
息は良岑 義方(よしみね の よしかた)


遍昭の母親は不詳だそうだが、一説には光孝天皇の乳母ともいわれている。
900年代には円融天皇乳母――良峯美子という人物も現れていることから、良峯姓が乳母の系であったことの証ともなるかもしれない。
「少将乳母良峯美子」

乳母、尾張、と言えば思い出されるのが海部氏 素晴らしいページを見つけた。

http://www.honnet.jp/metro/kodaishi/k306/kodaishi306.pdf

「大海人皇子(後の天武天皇)の乳母は、尾張郡海部郷の首長尾張大海の娘で、大海人は幼少の頃ここで育てられた。
彼は壬申の乱で吉野を脱出し伊勢へと抜け出た際、尾張氏の一族の助けを受けた
乳兄弟の尾張大隅は傘下の鍛冶伊福部を派遣して、大海人の本拠美濃での刀槍の生産に協力し、皇子は美濃・尾張の兵を主力として、不破の関を越えて瀬田の唐橋を目指し、勝敗を決する戦いを挑んだのである。」とある。

そこで尾張国海部郷で、しかも良峯か丹羽に関係する場所を荘園DBで調べると、なんと出てきたのが「江南」前野氏の居住地でもあった。
http://www.konan-kankou.jp/kankouannnai/s13/

さらにここでは伊福部が尾張にもある事を知った。鍛冶、刀槍の生産!




武功夜話には出てこない話  良峯宗貞の容姿際立って美しく… 深草少将だったのだろうか???

2020-10-23 | 佐々氏 バラバラ情報

桓武天皇ー良峯安世ー良峰宗貞(遍昭)-素性法師(玄利

宗貞=僧正遍昭 (新古今和歌集の部屋さんページより)
https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/058afb516f12e3562ce6f80e3f2d4a78





元慶寺 「僧正遍照」とても詳しく載っております!(かげまるくん行状集記 さんのぺーじより)
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page024i.html

https://books.google.co.jp/books?id=qfp3ewGC0TMC&pg=PA124&dq=%E8%89%AF%E5%B3%B0%E5%AE%97%E8%B2%9E&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi8i4_93MrsAhWXBIgKHZhwBdEQ6AEwAXoECAEQAg#v=onepage&q=%E8%89%AF%E5%B3%B0%E5%AE%97%E8%B2%9E&f=false

https://rekishi-style.com/archives/952



大英国博物館所蔵(British Museum) ↓ 二つの画像




素性法師
https://www.britishmuseum.org/collection/search?agent=Sosei%20Hoshi%20%28%E7%B4%A0%E6%80%A7%E6%B3%95%E5%B8%AB%29


Okada Shuntosai (岡田春燈斉)の(銅版画?)もBritish Museumある。




===*===

円仁
円仁は壬生姓のようである。系図あり
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/24/kiyo0024-02.pdf

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%B8%AD%E3%83%BB%E6%9C%AB%E6%9C%9F%E4%BB%A5%E9%99%8D%E3%81%AE%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E9%83%A1%E3%80%80%E8%89%AF%E5%B3%AF%E5%AE%B6%E3%80%85%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E3%82%92%E9%80%9A%E3%81%97%E3%81%A6.html

「玄理の父 宗貞は、「嘉祥3(850)年出家 36歳 法名 遍照。元慶3(879)年 権僧正 65歳。
仁和元(885)年11月23日元慶寺座主カ 花山僧正と号す。
寛平2(890)年正月19日 入滅 74歳。
慈覚大師(円仁 第3代天台座主)の弟子 安然和尚と称し、天台座主長老師。」と系図上には記述あり。

しかし、「五大院安然尊者と密教 木内 央氏」によれば、遍照と安然和尚とは別人物であるようです。
安然は、慈覚大師(円仁)の門流であり、対立する円珍流に対して、遍照は、第3極の僧正であったという。詳しくは、下記 URLにて参照されたい。
               ( https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_755/_pdf )
更に、(今昔物語19 「頭少将良峯宗貞出家語」には、宗貞は、出家前に男子1人・女子1人を産ませたる。と。また、「本朝皇胤紹運録」には、宗貞には、2人の息子(素性・由性)がいたと記載されている。
*素性の幼名は、玄利はるとし と呼ばれていた。」という。
とすれば、良峯家系図の宗貞の次男 玄理は、素性の幼名と重なり、由性であるべき所が、そのように誤って記載されたのであろうか。


利と理は、同じく「り」と読めるので、私的には問題がないようにも思えるのだが…


また、昨日見つけた尾張に関する記載に「鳴海」とでていた。これは良峯が持っていた「成海荘」の事だったかもしれず、調べる必要があるかと思った。

武功夜話 気になる登場人物memo (15) 佐々成政に関する記事をピックアップ 第三巻より

2020-10-21 | 佐々氏 バラバラ情報

p.29
家伝記。前野喜左衛門義康日次記に記す前野小兵衛勝長の事、佐々蔵助成政進退の事

一、付けたりの事
家伝記によるところ、遠州浜松御城徳川殿との御就談の趣は、これは喜左衛門(前野義康)日次記併せ、越中よりの前野小兵衛尉(前野勝長)、佐々平左衛門の顛末は、親亀斎(小坂雄善)申し語り候事と多少相違ありそのままに誌し置く

一、喜左衛門日次記に言う、御舎弟前野小兵衛尉当夜申し語り候事。
御舎弟小兵衛殿、平左殿を相伴い越し候は、師走(一文字の方)三十日酉の四ッ頃、浜松において徳川殿直談の事あり。すなわち佐々蔵助殿の和議承服仕らず、家康公と北越の固め等閑(なおざり)にならず、押して筑前守退治の旨取り付け、陽春を待ち呼応蜂起の由に候。

…(略)

===*===

九里は越中国新川郡にも、砺波(利波)にもいた。前野氏と同じくである。そこで闘った残党であったのではないだろうか。
前野小兵衛は新川郡で討死した。

===*===
p.43
越中国利波城主 前野小兵衛勝長伝の事 佐々蔵助成政の事

一、前野小兵衛尉は、真野江小兵衛宗康の三男なり。小さくして尾州比良の城主、佐々蔵助成政に奉仕、蔵助殿に相随い越中へ入国、蔵助殿越中の守護に任ぜられ時、」小兵衛尉は利波郡において一万五千石賜り利波城主と為る。小兵衛尉の妻女は佐々平左衛門の妹なり、平左衛門と共に佐々蔵助殿の股肱の長臣、蔵助殿に相随い転戦その功名は勝数えうべからずなり。前野加賀守と成る。長子又五郎という吉康の事、親に劣らず豪勇並びに北越の勇将なり。次第嘉兵衛という、甲申(天正十二年)師走佐々蔵助一行の者三十有余騎尾州へ罷り下り候の時、親小兵衛と共に雇従、在所前野村に罷り来る。…略…

===*===

此の小兵衛の系こそ、二度も九里に養子に入って下さった系なのである。
一度目は又五郎の吉康の息 十助 で、佐々蔵助成政に仕えている。

二度目は大和宇陀松山藩の時代に十助の弟直勝孫宗明(佐々宗淳の実兄)のさらに曾孫が九里修政である。
直勝を一代目とすると六代目となる。

この前野氏が九里に二度も養子に入ってきたという事。そして前野氏は永田氏とも養子縁組を行っている事…等考えるに、九里の先祖蓮忍・常忍が【良峯姓原氏】と関係があった事は、あながち間違いでもないと思うのだ。

前野小兵衛勝長の裔は佐々を名乗っているが、前野氏である。
勝長の妻が佐々蔵助成政の姉でもあることと、佐々氏に息がいなかった事で、佐々氏を名乗るようになったのだと思う。

===*===

佐々成政周辺は、この後どんどん戦渦に巻き込まれ、討死していく。合掌



武功夜話 気になる登場人物memo (14) 佐々蔵助成政に関することをピックアップ

2020-10-20 | 佐々氏 バラバラ情報

佐々成政、徳川家康公と談合子細の事

一、此度佐々蔵助殿越中より路次深雪路を越え、尾州に罷り来たる真意は、北畠信雄卿、羽柴と和睦を心好しとなさず、先に遠州の徳川家康公を誘い共に与力、筑前を挟み討ちに致し退治為るべく直談に及び候なり。その時恰も信雄卿御礼のために参上の路次三州岡崎に罷り在り候の時、松平主殿より越中の佐々蔵助浜松へ罷り下り、家康公に拝謁を願い出で候を承り、我等類縁の者同道候由申し聞かされ、このまま浜松へ罷り候哉仲々に六ッヶ敷儀もこれあるに付き一考あって然るべきと申し諭され・・・・(略)…案の如く信雄卿、佐々蔵助をお避けなされ、…佐々蔵助と面談もこれなく、ご帰国の次第。久三郎殿申し語り候なり。
しからば当家に罷り越し候佐々平左衛門、御伯父小兵衛尉殿一様に申す様、すなわち此度の和議の条々は筑前の手の内なり。主人蔵助清須へ参上の本意は、前の和議条々反故と致し、再度兵馬を催し羽柴筑前討たずんば、いよいよ増長して君臣の義は廃れ、上下その処を替え先に至り彼の筑前に馬を繋ぐの辱めを免れずなり。…(略)

・・・・・

去りながら浜松において、徳川家康公に蔵助相談申し上げ候ところ、この場合は時節なれば来春まで南方表の様体相窺い、今は信雄卿の子細もこれあり。それがしは信雄卿の御意に任せ居り候。…

===*===

まだまだ続く、が、家康の思慮深さがチラリと感じられるような気がした。機を見るという事の難しさ・・・・私は佐々成政に近く「思ったが吉日」タイプ。危ない。


武功夜話 気になる登場人物memo (13) 佐々成政に関する記事をピックアップ 第三巻より

2020-10-20 | 佐々氏 バラバラ情報

九里氏との接点が出てきそうな気配。
…と言っても、武功夜話はなかなか進まない。ノンフィクション映画のように、いろいろな人にその時の状況をインタビューし、丁寧に書いている感じの文書。

さて、今日は武功夜話の始りの著者でもあった「雄善」が書いた南窓庵記の写しからご紹介していこう。

その前に予備知識として↓ どうぞ!
https://www.city.konan.lg.jp/kurashi/kankou/1004828/1004071/1004080.html

武功夜話 三巻 前野家文書 吉田蒼生雄 全訳 新人物往来社
p.25
天正十二年 十二月三十日 佐々蔵助成政清須城へ参上の事
一、天正甲申師走三十日、越中の佐々蔵助清須へ罷り参ずる。時に当年の歳卒煩衰の内すでに暮れなんとす、歳晩勿勿として期日を残すのみ、ここに遠来の客を迎うるなり。当家に止宿候者・・・・・(中略)

一、佐々蔵助殿主従一行の者は三十有余人、蔵助殿は郡村の生駒八右衛門所に立ち寄り、清須へ罷り越し、信雄卿に御拝謁候由。伯父(前野勝長)御殿併せ平左衛門殿、八右衛門より当家へ罷り越し候は三十日辰の刻五ッ半頃合いに候なり。
右事情南窓庵記に記すところあり、孫四郎写し置く者なり。

一、佐々蔵助主従の者三十有余人、郡村の生駒八右衛門方へ罷り候は天正甲申晦日の事、直談の趣曲折あり、すなわち蔵助殿心猛く語気強く、一言にして肺腑を貫くなり。八右殿しばし辟易、やむなく清須へ御供罷り越し候なり。それがし案ずるに、遥々家居を出て越・信の剣山雪峰千里を相越え誰がために来る哉、しからば弱主の禍を相除くため、寒天に暖を囲む遑(いとま)非ず、北風骨を貫き粗衣の粉雪を払って故地を彷徨す。やんぬる哉和議すでに成る、孤主を助けて再起を計ると□も機を失う是非なき事に候。上郡東西在郷諸村の万戸、門毎に松を植え竹梅を飾り新春を迎うるの風情たれば、佐々蔵助一片の忠節相容れる所の隙無きなり。盛衰極り無き時勢を慨嘆太息して越山へ還る。時に歳改まって天正乙酉(十三年)正月三日の事。伯父御殿(前野勝長)、平左殿(佐々平左衛門)屋敷に相留る事四日。南窓庵写し。

===*===

雄善の描写は素晴らしい! 生き生きしていて、面白い!
佐々成政の様子、生駒八衛右門の困っている様子、シーンが目の前に浮かんでくるようではないか!
しかも成政の心の内まで読み取って…

このように心の内部にまで迫っている書、であることが嬉しい。

起こった出来事と、内に隠されていた気持ち、は、通常の文書だけでは見えてこない部分も多々あると思う。
どのような気持ちで書いた文書であったのかまでは、なかなかわからない。

武功夜話では、雄善の見たところ、感じたところとなってしまうが、そこが通じてくる。






武功夜話 気になる登場人物memo (12)前野但馬守長康 

2020-10-19 | 佐々氏 バラバラ情報

息である前野出雲守景康の結婚の儀の後、十月には長康は朝鮮出兵に駆り出され三千人の家来たちを纏め名護屋城へ赴き朝鮮へ渡り戦っている。
その戦いの後、但馬国出石へ帰国する。

こんなにも働き者で、かつ真っ直ぐに生きてきた長康であったが切腹に追い込まれてしまう。
武功夜話にとって中心人物かともいえる長康のこの最後。
輝かしい活躍とともにこの最後を世に留めておきたいと思って書かれている部分もあると思う。

wikipedia前野景定

「羽柴秀吉(豊臣秀吉)の重臣・前野長康の子として生まれる。父と共に豊臣秀次付の家老となって秀次を支えた。しかし文禄4年(1595年)、秀次事件で秀次を弁護したことにより、豊臣秀吉から秀次与党として謀反連座の疑いで父と共に捕らえられ、中村一氏に預けられた。そして、父と共にそこで秀吉の命令により切腹した。

なお景定の妻・御長(おちょう)にも捕縛命令が出された。彼女は細川忠興の長女であったため、慌てた細川家では、重臣の松井康之などが奔走し、景定から離縁出家させて、ようやく捕縛を免れたという。」



前野但馬守長康御仕舞の事
一、五宗記なる書付は、甲午歳霜月の頃合いをもって畢(おわる)、前但様御腹召され候の子細は清助殿より申し承るのみ。
乙未歳(文禄四年)関白秀次公謀反ある科により、紀州高野山において御自害候いてより三十有余日後の事、伏見の自邸において相果てられ候なり。
すなわちこれは御嫡男子出雲守景定様、関白殿下へ忠節の顕のため、誓紙に連判候事露顕候に手より、中村式部少輔の伏見屋敷において死を賜るなり。御後見役但馬守様は、後見役怠り無く度々の御讒言も取り成しされ候事明白なれば、格別の御咎めも相無くも、躮出雲守様の不首尾は太閤殿下へ申訳も立たず、御領地はすべて返上、伏見邸において切腹相果てられ候なり。まことに傷ましき事に候なり。

家来衆は処々へ離散、前野家は改易と相成るなり。時に伏見邸に罷り在り候者は,それがし(前野義詮)と石崎庄兵衛、上坂勘解由、厩四郎兵衛、森伊勢守(雄成)、前野三太夫(宗高)、前野兵庫介(忠康)等数名計り罷り残り、斯くなる上は何処までも御伴仕らんと各々覚悟定め候ところ、前但様これを許さず、一同に言い含め候事、すなわち余はすでに老年この地において相果てるとも未練心更に相無し、一子出雲守すでに了る、徒らに長らえ候とも天下のそしりを免れず、言い置く事も更に相無しと申され、十九日酉四ッ刻潔く御仕舞なされ候。…

武功夜話110のページより 
http://www.homenews.jp/bukouyowa/bukouyowa_no110.html
【秀次公に同心謀反、「連座によって即日死を賜う」の諚であった。中村式部家臣使者、石川左兵衛殿より、長康の家臣で甥の前野清助にも連絡が入った。清助ら家臣は「神妙に控えあるよう」との命令で、一同御主人(長康)の一身を案じていた。かねてより覚悟はしていたものの父子共に切腹の御上意とは無念の仕打ち。太閤殿下若き頃よりその下で粉骨の忠節を尽くしてきたことを思い返せば、無念の思い際限なし。一同、御主人の面影を惜しみ明け方を待ちわび、中村式部殿の屋敷に到着した。中村式部殿も突然の出来事に哀れみをもって内輪衆に通告し、取り計っていた。前野清助、石崎丈左衛門、上坂勘解由、森伊勢、前野兵太夫、前野伝左衛門の六人が集まったところ、門前のかがり火、松明は赤々と燃え盛り、藤堂殿の御家中の警固はおよそ五、六十人いた。厳重な構えで近寄りがたかった。六人は藤堂家の御家来衆頭と覚しき人に長康の家臣であることを告げたが、まかりならずとの御達しだった。やむを得ず神妙に控えていたところ、御用人石川左兵衛が出てきて「前野殿父子は御腹召され候」と告げ、「貴殿ら直ちにこの場を立ち去られよ。万一、太閤殿下にこのことが伝われば、我ら主人(中村式部少輔)に迷惑がかかり来るやも」と分別を促し、「長康殿と我ら主人とはじっこんの間柄なれどこのたびの御災難、今は太閤殿下に口答え致す者もないという不甲斐なさ」少しでも慰めになればと「貴殿らの御尊名を長康殿に披露すると、至極御満足の様子だった」と付け加えた。

===*===

この長康の妻は坪内氏の娘であったのだろうか?
坪内氏からの養子という説、坪内氏の婿という説、等ある。

そして、清助が気になる。
清助は常円という僧となり、前野将右衛門長康の菩提所「観音寺」を建立し、生涯守ることとなる。
清助こそ「前野義詮」という事である。

http://www.konan-kankou.jp/kankouannnai/s11/