新古今和歌集の部屋

哀傷歌 遍昭 俊成三十六人歌合 大内義安筆柿色紙コレクション

右        僧正遍昭

         すゑの
をく          露
  れ

  さき
        もとの
   だつ      雫や

ためし
  なる     世の中
   らん       の

 




新古今和歌集巻第八 哀傷歌
 題知らず     僧正遍照
末の露もとの滴や世の中のおくれさきだつためしなるらむ

よみ:すえのつゆもとのしずくやよのなかのおくれさきだつためしなるらむ 隠 有定隆雅

意味:草の葉の末に付いている露も、葉の元に溜まっている、雫も何れ消えて無くなってしまのは、長生きする人も若死する人も、結局は遅い早いと言うだけで、皆死んでしまうと言うの世の中の理の例を示しているんだなあ。

備考:俊成三十六人歌合、和漢朗詠集。哀傷巻頭歌。



大内殿義安

不明。

周防戦国大名の大内氏に義安の名は無い。源新羅三郎系の大内氏にも義安の名は無い。義安では、吉良義安がいるが、大内氏を名乗った形跡は無い。

周防大内氏の弘家が大和矢田で生まれた事から矢田太郎を名乗り、その分家の矢田家に義安と言う名がある。矢田は、豊前国の守護代大内満弘も名乗っている。

大内弘家┯大内重弘━大内弘幸━大内弘世─大内満弘
    └大内盛賢─矢田弘舎─矢田弘豊─矢田弘光─矢田安盛─矢田義安

その他情報
大内氏の家臣、豊州杉氏に、杉儀安という者がいる。

清和源氏の佐竹氏一族に、義安と名乗った者が3名いる。


古筆琴山極札

 本家古筆家鑑定者不明。

令和2年10月12日 弐

コメント一覧

jikan314
@kunorikunori 4人もですか。
流石、現代の知事まで名を留めている一族ですね。
拙句
この花の名調べ迷ふ草の原
jikan314
@kunorikunori 佐竹にも、義安いるんですね。
流石。
本文に入れますね。
kunorikunori
Jikan様


「大内守護」とは禁裏を守護する番役という意味があるのですね。

源頼光も、尊卑分脈によると「大内守護」となっています。
この文書すごく古いのかも! 

他には佐竹氏にも義安発見。

お役に立てず、すみません!
jikan314
豊前杉氏の一族ですね。詳細は不明とwikipedia杉氏にありましたが、養子等や婚姻で関係が有ったかも知れませんね。守護代だとかなり親密でないと裏切られる戦国の世ですもの。
系図の名前も漢字同音で記載される者もいますし、何度も名前を変える者もいて、法名が有名な者も多いですね。
又気が付いた事がありましたら、教えて下さい。
拙句
花の名は図鑑をめくる秋の草
jikan314
@kunorikunori 散歩途中でも、私の事、気にかけて頂き嬉しいです。
Wikipediaに有る者だと、由来の詳細が分かり、これを書いた人を思い遣る事が出来ます。
推理小説のように、その時代、その人物を推理していく事は楽しいですよね。
拙句
晴れるのは楽しと思ふ秋の道
kunorikunori
守護代に「杉儀安」という方が居りました。
詳しくはわかりませんでしたが大内義弘の時代です。
でも、家臣が大内氏を名乗ったりはしませんよね。。。
降参します。でも、気に留めておきます!
kunorikunori
あらら。散歩しながら「見つけたぞ!」と思ってお送りしましたが、これは「義秀」でした。失礼しました。
もう一度探します。笑
kunorikunori
Jikan様

極札の意味わかりました。そこで、もう一度まっさらな目で見ると、、、、戒名の後ろ二文字をご覧ください!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E8%88%88
jikan314
@kunorikunori 百済王の末裔を称し、朝鮮貿易で巨額の富を得た大内氏ですので、文化を積極的に取り入れたのでしょう。
正弘が応仁の乱に参加したため、戦禍が広がったと言われるほど、有力大名でしたから。
jikan314
@kunorikunori いえいえ、この色紙、柿が塗ってあるのも、kunorikunori様から教わったので記載しております。
大内一族が、守護代として派遣され、その土地に根付いていますし、本家大内氏と一戦を交える事も有り、南朝、北朝、幕府内戦など、混乱期なので、とても苦手な時期です。
又ご協力頂ければ幸いです。
kunorikunori
あっ、大内政弘かもしれませんね。「文化にも造詣が深く」とwikipediaにありました!義興の父親です。
義安が矢田氏とすると一番早くで1400年生まれですので、もっともっと後に生まれているかもしれません。とすると、この政弘あたりになるような気も致します。…
kunorikunori
行こうではなく、以降です。スミマセン~~♪
kunorikunori
Jikan様

なんか、引っかかるのです。
殿のすぐ後に名前…本当の名前は相手には書かないものでしょうし…
大内殿に宛てた○○義安からのプレゼントだったのでは…ないでしょうか?
宛先の大内氏は
1300年が弘家とすると義安は1400年以降あたりかなと思いますが、自信はありません。
大内義弘という人物がいて、
室町幕府周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊守護とありました。この人行こうと思われるので、持世・教弘(同じく守護大名)あたりでしょうか?

あはは、私とタッグを組むといい加減な記事になってしまいます、この辺りで止めておきますね。
jikan314
@kunorikunori ちょっと家系図を作って見ました。
後は、「殿」の称号です。殿は守護大名にならないと。
晴れ曇るかぜふく音に時雨かな
(本歌のパクリです)
jikan314
@kunorikunori 流石、kunorikunori様
昨夜、ご紹介頂いたサイトの意味を考えながら見ていました。
矢田家の祖、大内弘家が1300年没なので、南北朝頃かな?と思いました。
又、気が付いた事がございましたら、又お教え下さい。
拙句
時雨ても夕日がさして後すこし
kunorikunori
つづきがありました。
其の義安は大内氏ではありますが矢田氏を名乗っていたようですが、
吉良義安の妻は、矢田姫です。
kunorikunori
Jikan様
不思議な符合なのです。
昨日は戦国時代の山口氏を調べていて、その山口氏は元は大内氏だったのです。

書かれた時代がわからないので…いい加減ですが…
調べておりましたら、下記が現れました。

http://heianni.seesaa.net/article/463337595.html
矢田弘高(大内弘家の五男。幼名金寿丸。蔵人。矢田盛賢)─弘舎─弘豊─弘光─田中弘玄(弟安盛)─光政─忠光。

矢田安盛(矢田弘光の二男)─義安─光弘─光定。
jikan314
@kunorikunori kunorikunori様
お調べ頂き、とても嬉しいです。
吉良義安は、徳川家康に清和源氏の系図を譲り、その功績で高家として大大名並の官位を許された人物ですが、どうも違うらしいです。
義安は、義保や義康と漢字の誤記なのかも?と思う次第です。
義興は、大河ドラマで見ましたが、大大名なので、関係者であれば、良いなあと思っています。
拙句
遠くから色を探してはぢ紅葉
jikan314
@kunorikunori kunorikunori様
極札は、当時の鑑定証ですが、現在でもこの札の有無が、鑑定額に大きく影響します。しかし、極札にも真贋が有るらしく、必ず定規を当てて撮影しております。
大内殿義安と有り、有名な周防大内家かと思ったが、調べてもおらず他の大内家にもいないので、いっそkunorikunori様に調べる方法を教えてもらおうか?と思ったのですが、教えてもらっても、その後、例の疫癘が怖く都内の大図書館に行く勇気が無くあきらめました。
名前に義の字を使えるのは、清和源氏有力御家人か足利将軍より使う事が許された大名しかいないので、期待と本人評価額が急上昇?して入手した所でした。(笑)
これから西行物語絵巻に入りますので、又ご覧頂ければ幸いです。
拙句
初雪のたよりも来てる雁の文
(北海道には初雪が降ったとお聞きしております。下手に風邪を引くと病院が診察を拒否するのでは?と思うので心配しております。便りと頼りの掛詞。)
kunorikunori
調べましたら、時代は義安より前ですが、吉良家と大内家は関係があるらしく「翌永正9年(1512年)2月24日、新装成った吉良邸に大内義興らを招いて酒宴が催される」とありました。

https://ejje.weblio.jp/sentence/content/%E5%B9%B4%E5%90%89%E8%89%AF
kunorikunori
Jikan様

こんにちは。
大内殿へ (吉良)義安から送った書状…という意味かもしれませんよ?
わかりませんが、大内殿 右僧正とあるので、誰かが勘違いをして続けて書写してしまったとか・・・?いい加減な私の説ですが笑 そんな気がしました。
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