goo blog サービス終了のお知らせ 

九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

武功夜話 気になる登場人物memo (10)前野氏、家伝記写しの事

2020-10-18 | 佐々氏 バラバラ情報

武功夜話二巻 吉田蒼生雄全訳 新人物往来社 

p.186
前野氏、家伝記写しの事

一、家伝記ならびに五十桜記
右家伝書、五十桜記蝕のため(「と」はどうも虫食いの意味らしい)損耗甚しき故をもって、尾州前野郷由緒書と相改め、
遠祖高長以来、尾張国小弓庄相伝の知行地相記し置く者なり。

一、元祖三位高長の嫡子(前野高長の嫡子)
滝口右馬助宗長 本地前野郷
尾州丹羽郡小弓庄主譜第の所有地は、すなわち尾張国東上、西条併せ壱条より十三条の田畑、在家等は元祖三位高長重代の所領地なり。
右は古証文等と蝕のため相残り候ところの断簡の文書等を取り纏め候。

一、本家の立木田家はその惣領をもって、稲木庄と号するところ明白なり。
右稲木庄十四丞より三十六条、東西合せ二十七条なり。立木田大夫高義の嫡子、立木田高光に至るまで郡司を司る処、承久尾張川の一戦において、故あるをもって宮方に合力ともに相伝の所領地、稲木照、小弓庄を没せられ、六波羅府に嘆願候も未だ赦免を蒙らず候なり。右馬三郎時綱(前野時綱)の世在所前野郷に蟄居候なり。

一、滝口右馬入道宗安(前野宗安) 右馬寮
尾張国大介職中島左衛門尉の被官となり、先祖伝来相伝本貫の地、尾州小弓庄前野郷を安堵なされ候なり。

一、尾州丹羽郡前野郷御厨建立、入道宗安
前野御厨、二十九町一段大、伊勢外宮権神主禰宜、維時文永二歳。
所領地は、百五十八町一段大。

一、入道宗安嫡子、前野右馬三郎時綱、前野を号す。天満宮を勧請。

一、右馬三郎時綱の所領地
  一、尾州丹羽郡稲木庄の内、前野郷外十二ヶ村、十七条桑原まで。
  一、前野郷古川筋東より、西は下津、大介川を越え妙興寺、井村筋散在まで。
  一、中島郡の内、井郷■■(不明)、妙興寺散在、砥塚、西井之口郷、暗水里まで。
  一、中島郡の内、合わ四十四町。
    川内、板倉郷、荒野二十五町、これは与分。
    野笙(野府の事)、高野島、荒野十九町。
    右荒野は馬飼地なり 

一、板倉四郎右衛門行記
板倉四郎右衛門、大日を勧請すこの人なり。
この人は越後国頚城郡板倉郷の住人、滝口入道宗安ともに尾州前野郷へ罷り来たり候。
(越後の板倉郷と云えば、親鸞の妻であった在京の豪族三善為教の娘である「恵信尼」の里でもある。)…私的memo

一、吉田四郎右衛門宗吉、尾州中島郡河内、板倉郷、野笙郷を興し候なり。
右は五十桜記に記す。
宗吉は、兵庫助義氏(前野義氏)の嫡子四郎右衛門という、吉田を作る始めの人なり。

一、遠祖滝口右馬入道宗安は、右馬寮下司なり、尾張国大介中島左衛門尉の被官と相成り、河内の荒野において馬飼い仕り候なり、これは上郡駒という。

一、遠祖滝口右馬三郎時綱の代、五十桜記写。
弘長元正月、六波羅府より先祖重代の所領地、尾州丹羽郡稲木庄前野郷の本地分、田畑、在家等地頭職合せ領掌の由仰せられ執達候。
  一、右六波羅府墨付き書状、足利氏荒城応仁の擾乱の時、家舎、蓮華寺ともに兵火の狼藉のために焼失畢る(おえる)なり。
    しかるところ小弓庄は元祖以来の所領地の事、手綴候自明白に候。

一、先祖四郎三郎綱宗の代
斯波武衛様の守護職、織田伊勢守入道常松公、尾州入国の時御召し出しこれあり。相伝の地丹羽郡古川より、中島郡大川介まで、併せ妙興寺散在の田畑に至る。子々孫々違乱あるべからずの旨御下知状あり。
故に相伝の所領地、尾州丹羽郡において十二ヶ村、中島郡において、井郷、妙興寺散在、砥塚西八ヶ村。

===*===

承久の乱の際に一時没収されたが、その後戻ってきたようである。  
板倉氏という人物が気になった。三善氏ではないのだろうか?


武功夜話 気になる登場人物memo (9)細川藤孝 と 前野長康 当世茶の湯の咄の事 追記 安土新城の事

2020-10-09 | 佐々氏 バラバラ情報

p.383
当世茶の湯の咄の事
一、付けたりの事。清助殿当世茶の湯の咄
長岡兵部大夫殿(細川藤孝)、当世流の御仁に候。
茶の湯の道、三十一文字の道、和漢の書に堪能なり。
殊に当世の茶の湯、格別に堺町の住人宗易(千利休)と交わりあり。
この道を宗易より極む、宗易の高足に候なり。
前将殿、この故をもって茶の湯の道宗湯殿を師と為す者なり。
右御茶の湯の事、当世数寄者と申しこの道を嗜む者高家、摂家は元より、信長公を始め諸将に及び候と申し語り候。
孫四郎覚え。(吉田雄翟)


一、長浜新尉普請の事、並びに領内検地の事
蜂須賀彦右衛門尉(正勝)
前野将右衛門尉(長康)
 係、藤堂与右衛門(高虎)
   青木勘兵衛尉(一矩)
   真野右近将(助宗)
   加藤作内尉(光泰)


一、前野長康江州覚えの事、検地の事
もと浅井領三郡 浅井郡、伊香郡、坂田郡 

一、天正三年、前野長康江州所領地明細の事
浅井郡において上坂郷外六郷内、…
伊香郡において田居郷他二ヶ郷

===*===

この辺り(新人物往来社の武功夜話第一巻のp.387)
信長が大納言となって、安土新城を造った事など興味深い。しかも描写が生き生きとしている。

大石をいかにして引き興し、頂上の城近くまで引き上げるのか…など難しく、皆で頭を突き合わせて相談!
妙案を前野将右衛門が思いつき、惣奉行として丹羽五郎左衛門が取り仕切って行われた。(丹羽長秀のことと思う。)

一、御本丸石垣作事の事
筑前様、兼て御本丸の石垣に付き、穴太衆石職の弥兵次、惣左等頭衆を始め五十有余人の石工を召し寄せ御領内観音寺山、長命寺山より石を切り出し、水陸両道より安土へ運び入れ、御領内の人足連日六千人有余人諸将に後れ取り間敷競い合い候なり。
石奉行、前野将右衛門(長康)、蜂須賀彦右衛門両人の者、安土山石垣作事奉行申しつけられ候。観音寺山石切り場奉行、藤堂与右衛門(高虎)、尾頭甚右衛門(知宣)。湖上舟手奉行、浅野弥兵衛(長政)、桑山修理亮(重晴)。往還筋、加藤作内(光泰)、神戸田半左衛門(正治)、宮部善祥坊(継潤)、立木伝助(直治)、一柳勘左衛門(直次)、大方右の如くに候なり。

===*===

石道を開くため、夜を徹し樹木を切り倒し切り払い、鋤鍬を振って石道を開作し、樫木を敷き詰めこれに油を塗り、修羅を引き上げ十本の大綱数千の人足掛け声師とも曳き揚げると、スルスル難なく御山の頂に上らせることができたという。

此の油を塗る!という処に感心!





武功夜話 気になる登場人物memo (8)細川藤孝 と 前野長康 禁中作法を聞く事・当世茶の湯の話 

2020-10-09 | 佐々氏 バラバラ情報

「麒麟が来る」に登場もしている 藤孝殿=長岡兵部大夫 
大河ドラマと同時並行のような武功夜話!

前野長康 細川藤孝より禁中作法を聞く事

一、羽柴藤吉郎殿、去年霜月信長公に相随い申し御上洛候事。
信長公越北を隅々まで切り崩し越前の儀相定り、柴田修理殿に探題を仰せ付けられ候。
右の旨御奏上のために御昇殿、これに御家来衆まで官位を賜り候なり。
右羽柴殿も上洛に付き、雇従の者御舎弟樹下小一郎様(秀長)、杉原七郎左衛門殿、浅野弥兵衛殿、前野将右衛門尉殿、大方右御三人の御首(おかしら)衆に候なり。
供奉の人数百二十有余人に候。
当日禁中の三条大納言御名代とて御官位の儀式これあり候。
この儀我等、杉原、浅野等しく覚悟覚束なく候。
よんどころなく某思案候事、忝くも(かたじけなくも)此度禁中へ参内御官位の儀越度候いては面目なき候
将又(はたまた)田夫、野人と都鄙の嘲笑、これ藤殿一人に非ず信長公を辱めることに候事。
不忠の臣、左右思案の果て不調法を顧みず、山城の国の住人長岡の城主長岡兵部大夫藤孝殿
この人公方様に奉仕、万禁中の儀堪能の御仁に候なり。
去年より上洛度々、洛中二条の妙覚寺において御茶の湯の席にて御目に掛かり候以来、前将殿(前野将右衛門)と昵懇の間
勿論羽柴殿在京中の諸事の差配仕置きの件、兵部大夫殿をもって御相談なされ候なり。
早速に前将殿、兵部大夫殿を洛中の役宅に罷り越なされ、禁中においての諸事作法の儀詳しく相尋ね、越度なき様に相計り候。


===*===

前野将右衛門長康 と 細川藤孝が茶の湯の席で知り合い、仲が良くなり、禁中での作法を詳しく教えてもらっていたという事のようである。








佐久間氏 memo

2020-10-06 | 佐々氏 バラバラ情報

佐久間氏 コトバンクより
戦国時代から安土(あづち)桃山時代の武将。出羽介(でわのすけ)、右衛門尉(うえもんのじょう)。織田信長の老臣。

佐久間氏は安房(あわ)佐久間(千葉県安房郡鋸南(きょなん)町上・中・下の佐久間)から尾張(おわり)(愛知県)に移る。
のちその家は山崎城(名古屋市南区)と五器所(ごきそ)城(同昭和区)との2家に分かれた。信盛は山崎城主。1572年(元亀3)徳川家康の援軍として、遠江(とおとうみ)三方ヶ原(みかたがはら)(浜松市)で武田信玄(しんげん)と戦い惨敗。76年(天正4)以来、石山本願寺の攻囲に参戦したが、80年開城後、戦功のないことなどを問責され、高野山(こうやさん)に追放された。茶道にも造詣(ぞうけい)がある。[奥野高広]

===*===

安房の人であったとは、意外である。
信長の家臣のイメージが強く、尾張の人だとばかり思っていた。

千葉氏のHPの原氏にも佐久間氏が出てくる。佐久間九郎入道である。(原胤高の記事中)

http://chibasi.net/hara1.htm#tanetika1

佐久間氏と佐々氏もどこかしらつながりがあるそうである。
佐久間盛政「佐久間盛次の長男。母は柴田勝家の姉だが、異説もある。 弟に 柴田勝政(※勝安>柴田勝安)、保田安政、佐々勝之がいる。 」

そして、年代はまだ確かめていないが「佐々盛政(成宗)」がいる。



春日井郡 林村 小牧市 林地区

2020-10-01 | 佐々氏 バラバラ情報

またまたこちらの情報にお世話になります! たぶん、良峯姓のことを書かれていらっしゃった方と思われるのです。

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E5%B8%82%E6%9E%97%E3%80%80%E4%BD%99%E8%AA%9E%E5%8F%B3%E8%BF%91%E5%B0%86%E7%9B%A3%E3%81%AE%E7%A2%91%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.html

一番気になった箇所をコピーさせていただく。

上記の拙文をしたためた後で、「佐々成政関係資料集成」 浅野 清編著 平成2年刊行 新人物往来社 を目にいたしました。

             この編著者である浅野 清氏は、以下の資料等をつぶさに概観されたようです。
                   ・ 富山市史 諸家系譜纂 系図総覧所収 佐々系譜
                   ・ 北之聖廟縁起  ( 近江国余語庄七郷出自の盛政系図 )
                   ・ 姓氏家系大辞典 ( 菅原姓余語氏流 前項 尾張の佐々氏 )
                   ・ 信長公記
                   ・ 武功夜話

佐々成政の父としては、佐々木成宗か余語盛政の二人が、主に挙げられているという。二人は、名こそ違えど、同一人物であろうと考えられているようであります。

富山市史 諸家系譜纂 系図総覧所収 佐々系譜より

                                |ー 長盛 (三州 衣 城主)
                                |ー 盛種 (濃州 坂井兵庫養子 右近将監政尚)
                                |ー 成政 (菅原内蔵介 後 陸奥守)
                盛政ーーーーーーーーーーーーーー|ー 正之 (坂井久兵衛 三州 衣 城主)
                ( 余語右衛大夫菅原入道梅哲 )|ー 某   (坂井久三郎 三州 衣 城主)
                                |ー 女   (毛利河内守 室)

氏によれば、武功夜話の余語氏も井関に城を構えていた佐々木氏も同一人物とか。
この集団は、一人の指導者の下に纏(マト)まっていたが、尾張に入って来たのは、その一族及び婚籍関係を含めた同族だと考えてみえるようであります。
氏は、琵琶湖近くの余語から複数の有力者が来たのであろうと。
一人は、佐々木成宗、又は盛政と名乗った井関城・比良城関係者
又一人は、濃州 坂井家に養子した余語右近将監の一群で、坂井右近将監や尾張 林の余語氏。
他の一人は、後の三州の衣城主 余語正勝・久三郎等の一群

同上の佐々成政は、敗軍の将となった為、確かな記録は、少ないようで、あっても敵方の資料であり、敵方に有利になるように記録されていた故に、正確さがないという制約があるという。が、上記の氏の概観は、その最大公約数的な現時点での結論かと思えました。

===*===

江州中原氏であった九里氏。
江州中原氏には余語太夫がいた。
関係があるだろうか?




奥医師に余語古庵という人物がいたようである。(江戸時代)



武功夜話 気になる登場人物memo (5)佐々氏 と 九里氏

2020-09-30 | 佐々氏 バラバラ情報

前回の系図に【赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!】さんの頁にあった系図をプラスしてみると、
前野勝長(又五郎)と佐々平左衛門の娘の息が「吉康」
その吉康の息に「宗能・某・直勝」がいる。

つまり、武功夜話の系図の後に続くのが赤丸米の方の出されている系図なのである。
ありがとうございます! 
ここが、まず佐々氏と九里氏の接点の一つとなる。






忠勝の続きではなかったようである。

吉康ー宗能・某・直勝

其の某の息は九里六左衛門・六蔵となって九州へ赴く。
七右衛門が「生一男」に当たるのであろうか。

六左衛門の弟に吉左衛門もいたようだ。

此の後、養子として「九里八郎右衛門修政」となった人物は某の弟だった直勝の系からである。

===*===

ここで、佐々盛政(余語左衛門大夫盛政)に関する情報がいくつか見つかったので記載しておきたい。菅原入道梅哲とも云う。

https://6245.teacup.com/kojimakousi/bbs/159

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E5%B8%82%E6%9E%97%E3%80%80%E4%BD%99%E8%AA%9E%E5%8F%B3%E8%BF%91%E5%B0%86%E7%9B%A3%E3%81%AE%E7%A2%91%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.html

https://star.ap.teacup.com/tensi/67.html

===*===

飽浦三郎左衛門尉信胤が登場するなんて、想像だにしなかった。。。
真実は小説より奇なりって、いう感じ。

そこと加地余語氏 佐々氏 佐久間氏 原氏 とつながっていくのだろうか。

以前佐々木哲氏のブログにもあった部分とも関連する。

「上記の源胤時(東郷左衛門)のことが佐々木哲学校のブログにあったのでご紹介したい。

まず備前守護となったのは信実の三男時秀(東郷氏)であり、信実がのちに次男実秀(大友二郎左兵衛尉)に相続させようとしたところ、幕府はその所領を没収してしまった。実秀は幕府に所領回復を愁訴している。そのあいだ大江広元の子孫長井泰重(因幡前司・備後守護)が備前守護を兼務した。備前守護職は実秀の孫長綱(小島太郎左衛門尉、筑前守)が東郷胤時(時秀の子左衛門尉)の女婿になることで、小島実綱・長綱父子に受け継がれて佐々木加地氏が回復した。こののち備前守護佐々木加地氏(小島氏)は太郎左衛門を通称とし、東郷胤時の子胤泰(十郎左衛門尉)は飽浦氏を名乗っている

佐々木盛綱
  ┃
 信實 安元二年生
  ┃
 時秀 正治元年正月生
  ┃
東郷胤時 嘉禎元年九月生
  |
飽浦胤泰 

この続きが以下に載っている。
飽浦高信 ー 飽浦信胤 となるようだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%BD%E6%B5%A6%E4%BF%A1%E8%83%A4


===*===
上記の情報には
「佐々木盛綱の子加地信実の八男氏綱が、上総国佐々庄に住み、佐々氏を称した。」ともある。

他にも、詳しい情報があり、私もこれからじっくりと読もうと思っている。

https://6245.teacup.com/kojimakousi/bbs/157

たぶん、我が系の九里と関係があるのだと思う。

もしも佐久間氏と佐々氏が同族というのならば、原胤高の記事に出ていた佐久間九郎左衛門入道も関係者かも知れない。
まだ知ったばかりで、これから調べていこうと思う。




武功夜話 気になる登場人物memo (4)佐々成政

2020-09-30 | 佐々氏 バラバラ情報

図書館から借りている「武功夜話」。二週間弱で返却するためにはこのテンポでは進んでいては終わらない!
前野氏・佐々氏・岡田氏周辺に限って気になる人物をmemoしていこうと思う。(佐々氏含む)

P.53から
加州牢人富樫宗兵衛尉覚えの事
富樫 宗兵衛 = 前野 宗兵衛 = 坪内 為定
為定 舎弟 = 玄蕃尉 坪内 勝定 = 室 生駒八郎右衛門家定の妹
前野五郎尉(又五郎) = 前野 忠勝 = 小次郎宗康 舎弟
孫九郎尉 小坂 雄吉 = 御舎弟 前野 勝長 
前野 勝長 = 小兵衛尉
佐々成政 娘聟 = 前野 兵衛尉 

天文十六年克己未年(1547年) 先祖前野小次郎尉宗康濃州因幡山隙入りの覚え
一、
青山与左衛門・新七郎
前野惣兵衛兄弟 = 坪内 為定・坪内 勝定
岩倉衆前野小次郎 = 宗康
佐々孫助
佐々蔵助 = 成政

松平党御退治の始末の事
一、
前野党
佐々蔵助成政
佐々隼人佐 = 佐々 政次
佐々孫助
佐々平左衛門
佐々与左衛門
前野小次郎尉宗康
前野孫九郎尉 = 小坂 雄吉
前野小兵衛尉 = 前野 勝長
前野長兵衛尉 = 前野 義高
前野又五郎尉 = 前野 忠勝


p.67
尾州岩倉御城の事
一、
先祖前野四郎兵衛尉 綱宗 = 右京
前野郷大神宮 前野右馬三郎時綱 社宮司
前野右馬入道 宗安
前野三郎時正 

===*===
少々戻る
p.57
御舎弟又五郎殿=前野忠勝
p.61
佐々党
p.73
江州余語住人 余語蔵人 = 成政

p.75
柏井衆 覚 南窓庵記写し
寛永 戌晦(十一年 1634年)

小坂孫九郎尉相随い候者 = 小坂 雄吉 初名 吉田千代太郎
前野小兵衛 = 勝長 (この人佐々内と成る)
前野長兵衛 = 義高
吉田喜左衛門 
厩四郎右衛門
前野喜左衛門尉 = 義康
平井久右衛門
前野新蔵
足立源三郎
丹羽源六尉

p.79
尾州比良佐々蔵助(成政)併せ 平左衛門の事
佐々蔵人 この人尾州春日部の井関という処に居城なり。長享の江州人以来なり。
佐々党、本姓は江州余語の流れ、織田治郎左衛門敏定公の江州甲賀山の御陣所に駆け付け候衆なり。
蔵人の世に至り、度重なる軍功あり、同郡の平なる処に領地を賜り、初め小田井藤左衛門尉(織田寛維)の旗下なり。
岩倉伊勢守(織田信安)、上四郡の小守護と成るに及び、佐々蔵助、隼人(政次)、孫助、岩倉付と相成るも、落去の後は上総介様付(信長)、当千の武者輩に候。
舎兄隼人正(佐々政次)、舎弟孫助相次いで討死、蔵助は男子相なきにより、同郡岩崎郷、丹羽勘助の子、平左衛門を猶子となすなり。平左衛門の妹御は、当家前野小次郎尉宗康の三男、小兵衛尉(前野 勝長)の室なり。
したがって小兵衛尉は佐々一門衆なり。
蔵助の先祖は、余語左衛門大夫盛政。
小坂孫四郎尉吉政
と尾州に入国は同年に候なり。

===*===
武功夜話の後ろについていた系図










武功夜話 気になる登場人物memo (3)

2020-09-27 | 佐々氏 バラバラ情報

巻一 
尾州稲木庄宮後村安井屋敷の覚え 南窓庵記併亀斎扣 寛永寅写(十五年 1638年)
亀斎 = 小坂雄善

一、
安井屋敷 蜂須賀小六罷り住しは天文の頃初めなり
東方前野境
安井弥兵衛 土岐郡土岐氏の被官人 其の源は甲斐武田の流れ 逸見冠者の由緒の家柄
承久 尾張川の合戦以後土岐氏の被官と成る 
先祖 小次郎尉長義の室は安井女


宮後村八幡社落成につき阿州より三家臣代参の事
一、付けたりの事 達禅扣(吉田雄翟)
社人は三輪氏取り持ち候 
この家蜂須賀氏に由緒あり
蜂須賀蓬庵殿安井屋敷にてご誕生 蓬庵 = 家政 =八幡社大旦那
阿州 蜂須賀蓬庵家政公 落成のみぎり 御重臣衆名代として差し遣わされ候
野々村
佐々勘兵衛 阿州へ御伴罷り候ゆえに候なり(宮後村寺三輪若狭の家より寺入り)
稲田九郎兵衛
前野兵太夫
前野伝左衛門 三人衆

今枝重右衛門
稲田九郎兵衛 = 岡田稙元(大炊介)の御嫡子
岡田大炊介殿 御内儀は当家先祖 小次郎尉宗康の女(尾州稲木庄寄木の産)
生駒右近 = 善長 =生駒家長(雲球殿)の御嫡子
善長 = 生駒因州(利豊)御舎兄
足立甚右衛門
前野清助門 = 野田清助
吉田与助 = 正直
岩田九郎助
(親)喜左衛門 = 前野義康
(兄)清助 = 前野義詮

一、付けたりの事 p.50
前野将右衛門尉 長康 = 但馬守 =孫九郎尉(小坂雄吉)の舎弟
長康の息女於たえ殿 = 前野兵庫(小助) 忠康 の御内室 
→ 藤堂伊賀守 高虎 親子共に洛北の岡田某の家に隠し置きなされ、御庇護なされ候 高虎と長康はご昵懇の間柄

長じて前野助左衛門 助左衛門の女は前の兵太夫の妻 四国讃州 生駒雅楽守(親正)へ元但馬守内ともども御召抱え一党中多数讃州に罷り居る

===*===



長康の弟にも「勝長」忠勝の息にも「勝長」がいる。そのために混乱しやすくなってしまっていると思う。
ここで出てくる「忠康」とは舞兵庫・舞野兵庫助ともよばれている。系図には現れていない。

長康は「坪内光景(実名)」ともいわれているそうで、妻が前野 長義の娘
長康の武功夜話上の父は前野 宗康となっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E9%87%8E%E5%BF%A0%E5%BA%B7

藤堂が前野一家を隠し庇護するために訪れた「岡田某」とは、いったい誰のことだったのかを知りたい。
洛北と書かれていた。
これはもしや、岡田堅桃斎のことではないだろうか? (見桃斎とも書く。)
藤堂は近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町在士)の江州中原氏の出である。




===*===

稲田植元 父:稲田貞祐(大炊助)、母:前野彦四郎 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%94%B0%E6%A4%8D%E5%85%83

稲田貞祐
父・貞祐は、清洲の織田信長と内通しているという讒言により信安の命によって天文22年(1553年)3月27日に切腹させられた。植元は9歳の頃に父の朋友であった蜂須賀正勝に預けられた。なお、貞祐には四男三女があり、長男・景元は父の後を追って同年3月29日に11歳で自殺。次男・景継は永禄元年(1558年)3月29日に伊勢国で戦死。四男・吉勝はのちに植元の養子となっている。

===*===

何処にも「岡田稙元(大炊介)」の名は出てこない。

武功夜話 気になる登場人物memo (2)

2020-09-26 | 佐々氏 バラバラ情報

小折村生駒氏の事
一、
縁者 生駒蔵人家広
生駒 家宗(生国 大和 藤原氏末流) 河内生駒の産
前野右馬入道宗安・右馬三郎兵衛時綱 尾州柳橋郷(生駒氏住)に相頼み隠世 (承久・六波羅の詮議厳しく…)
生駒因州公 親八郎右衛門尉家長の三男
織田内府公 = 信長 
福島左衛門大夫 = 正則
名府源敬様 = 徳川義直
隼人殿 = 生駒利豊
性高院様 = 松平忠吉


信長公の室、生駒久昌庵の事
一、付けたりの事 達禅記(吉田雄翟かつかね)

生駒因州(利豊) 我が家(前野・吉田)とは昵懇の家
祖父孫九郎 = 小坂雄吉
生駒家長 = 雲球殿
奇妙様・於茶筅様・於徳様 = 信忠・信雄・徳姫
大伯父将右衛門尉 = 前野 長康

一、
兵法指南者 遊佐河内守(越中の牢人)
富樫 惣兵衛 = 為定 (加州の牢人)
蜂須賀小六 = 正勝(尾州の牢人)= 縁者
小六の舎弟分 前野小右衛門 = 前野 長康
森小一郎 = 正成 勢州河内中江
甚之丞 = 濃州 土田 甚助 = 生駒 親正
肥田孫左衛門
木藤吉 = 羽柴秀吉

一、
蜂須賀小六 = 彦右衛門 正勝

一、
某(それがし)の家
羽柴秀吉 旗下 秀吉公創業の無二の功臣
前野小右衛門長康 = 但馬国地頭 但馬守
前野 景定 = 出雲守 (関白秀次公 連座 改易)
伯父孫八郎 = 小坂 雄長 =助六郎  百姓となる


前野村森氏の事
一、
尾州丹羽郡稲木庄前野一門中 森氏あり 元は勢州中江の産
森式部 = 正久 中江に居住 北畠の家人
森小一郎 = 正久
前野五郎九郎 = 正義
小一郎、前野女を娶り 森勘解由(正利)・森甚之丞(正成)


春日部郡柏井、小坂氏の事
一、
尾州春日部柏井の地、織田信秀の頃より織田家御台地 祖父孫九郎 代官役 (吉田城)
後年、織田信雄の傳役
前野孫九郎 小坂を称す