平成28年9月11日(日)、功山寺から北東へ10数キロ、下関市吉田へ行く。
「世に棲む日日」には、晋作の最期について、次のように書かれている。
「慶応3年(1867年)4月14日未明、晋作はずっと昏睡状態にあったが、不意に瞼をあげて、筆を要求した。枕頭にいた野村望東尼(もとに)が紙を晋作の顔のそばにもってゆき、筆を持たせた。晋作は、ちょっと考え、やがてみみずが這うような力のない文字で書きはじめた。『おもしろき こともなき世に おもしろく』とまで書いたが、力が尽き、筆を落としてしまった。望東尼は、晋作のこの尻切れとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばならない思い、『すみなすものは 心なりけり』と書き、晋作の顔の上にかざした。晋作は、『・・・面白いのう』と微笑し、ふたたび昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。ただ、その間、一度唇が動き、短かくつぶやいた。『吉田へ』」
遺言により、晋作(東行)が創設した奇兵隊の本営があった吉田に葬られた。側室だった「おうの」は、尼となり、谷梅処(ばいしょ)と名乗って、東行庵で、菩提を弔った。
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