ふるさとの山歩き、樹木、カメラ、家庭菜園の日記

山歩き・歴史の散歩・樹木観察・デジタル一眼レフ・家庭菜園などの活動記録です。

西国街道「大竹路(その2)」

2022年01月26日 | 歴史の散歩

 2022年1月25日(火)、大竹市内の西国街道を、ゆめタウンから安芸・周防の国境の小瀬川まで片道4km弱を往復した。

旧逓信省建屋跡
 舗装道路から竹林の山道に入ると直ぐのところにあった。昭和の初めに東京から敷かれた「長距離市外電話」ケーブルの中継基地。〒マークは逓信省の「テ」から出来たそうだ。
 
長州の役古戦場跡
 1kmあまりの峠道「苦の坂」で、1866年幕府軍と長州軍が銃撃戦を行い、長州軍が勝利した。竹林の次は、アベマキの落ち葉が積ったフカフカの道だった。
   
榺(ちきり)池神社
 苦の坂のたもとにある。厳島神社の祭神が、大切にもっていた「ちきり(はた織りの道具)」を池に投げ捨て、身を軽くして坂を越えたという伝説がある神社。「えらや苦しや この苦の坂は 金のちきりも要らぬもの」。当然深く低頭しないと神社に参拝出来なかった。
   
太閤振舞井戸
 太閤秀吉が名護屋城からの帰途、木野村で休息をとった際、この井戸の涌き水で茶を振る舞ったと伝えられている。今も涌き水が出ているようだ。
   
木野の町並み
 格子戸のしっとりした町だった。
 
木野川の渡し場跡(大竹市重要文化財)
 安芸・周防の国境を流れる小瀬川(木野川)の船渡し場。当時は、川幅約22m、水深0.7m。
 
 洪水から村を守るための堤防として、渡し場に「巻き石護岸」
 
 渡し場の約120m上流に「三角和久(わく)」があった。
 
ともに福島正則が築いたと言われ「福島堤防」と呼ばれている。千年以上昔の律令時代に造られた西国街道を歩いて、古い時代を思いやった1日だった。

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