こんにちは!
今日の主日ミサの共同祈願は、かなり、厳しかったですね。
今日は、珍しくいつもの共同祈願者が、優しく「皆にやってほしい」と譲ってきた。
私は「たまにはいいでしょう」、と疑いもせずに文面を見て分かった。「全てを捨てて従ったものが、
神の国に入る」という箇所だった。
想像したとおりに、ミサ後、誰だか知らない人の結婚式の準備をしようとしていると
良く知らない人が、指差して指示してきて一人で作業させ、持たせたまま他人とおしゃべりしたり、知らない婦人が、そんなことはいいから、と
私に説教じみた態度。この教会でのそういうところは、何十年間も、今まで、いやというほど見てきたが、母が亡くなってすぐなのに、
長年自分達が、頼っていたものの母が、お寺で葬儀したのに反省もしない。大袈裟かなと思いつつもやっぱり大袈裟ではない私の他者評価だ。
もちろん疑えばよいということではない。
しかし、彼女は私の年齢を知っているのか?名前は?仕事は?
私は彼女を知らない。大昔、名前だけ紹介されたのだとしたら、なおさら気を使かってもらわないと、分かるものではない。
よほど良い気分で、良い事を言ったと思っているのだろう。
私は教会を、長らく休んでいたことが、私は、本当に良かったと思う。冷静に聞くことが出来るようになった。
そういう態度は、全て聞き流せる。これが、悲しい現実だ。本当に田舎なのだ。
教皇様がどう思っても、自分の生まれ故郷でもありながら、毎週以上にミサに出ても、誰のことも良くわからないのに、
どうして、一般以上のことが出来ようか?まして、修道会や司教団のことは、名前と権威しか知らない。
そんな中で、主任司祭だけが気を使っても、どんどん意思が、外れるだけに違いない。
私の記憶と人々の意識は全く違う。
叙階を受け容れる余地は、皆無だし、それ以上に、私の覚えてはいない怪しい関係?が、存在しているに違いないとさえ考えられる。
田舎の一番悪いところは、どんなに優秀であろうとも、それは無視され、人に指示したいものが体力的なことをも支持する。
やはり、優秀であるものが、自分達の近くにいてはおかしいと思うようだ。
逆に先生だとか、には、優しいのか?、と思うけれど、そうでもなさそうだ。
愚痴っても仕方ない、これはまた、USAからの投稿にも見られる問題だ。自分を棚に上げて、
他人にばかり犠牲を求める人の投稿は、良く気付いて、わかることが多い。
今日のミサの深い意味をしっかり、説いてくれる人も、ほとんどいないかもしれないが、
いつの時代も、何よりも自分自身が、馬鹿であることに気づかないうちは、どうにもならないと思う。
イエス様が、一番最後に私に人として現れたのはおよそ十数年前、近くの田んぼの中・・・信じられないけれど。
しかし、その意味は、最近私に通じた。その時イエス様が言った言葉はただ一つ「靴泥棒だと」だ。
イエス様にしかフォローできない集団を人間のわたしが愛せるはずも無い。それを押して、司祭になどなったら、それこそ自己過信だ。
この世界に神の平安がありますように。
Pietro Francisco Xavier Francisco Hiroyuki Sawaguti
****************************マタイによる福音書から続き******************************
エジプトへの避難
さて、博士たちが立ち去ると、夢の中で主の使いがヨセフに現れて言った、「起きよ。
幼子とその母を連れてエジプトへ逃げよ。そして、わたしが告げるまで、そこに留まれ。
ヘロデが幼子を探し出して、殺そうとしている」。ヨセフは起きて、夜のうちに幼子と
その母とを連れてエジプトへ逃れ、ヘロデが死ぬまでそこに留まった。これは主が
預言者を通して、「わたしはわが子をエジプトから呼び出した」と仰せになったことが
成就するためである。
*************************本日の転記はこれまで****************************