相変わらず自分の行動がよく把握できていない。自分を野放しにしている感じで、しかし感性を開いて自分を固定しない感じにしているのだが、記憶がきちんと残っていないのはいいことなのか悪いことなのか。批評的なものを書いているときは自分自身もきちんと把握されているのだが、創作的なものを書き出すといろいろなものが開かれた状態になって自分で自分を把握しきれないところが出てくる。ただここ数日そういうことをやっていてそれが楽しいということはわかってきた。しかしそういうものと社会生活をどう折り合いをつけるかが問題。
昨日の行動をレシートを整理して思い出す。消費行動によってのみ記録される生活というのもどうかと思うが。朝方散歩に出かけて、デジカメの電池が充電がなかなか出来なくなってきていたので新しいのを買った。一度帰ってそれを充電器にセットしてから銀座に出かける。「思い出し」をやっているので盛んに昔行ったことのある場所に行きたくなっているせいもあり、しばらく出歩き傾向が続くか。教文館で何か買おうと思っていろいろ思いついたものを探そうとするがなく、ちょっとアーチストの物言いを聞こうと思って石戸谷結子『マエストロに乾杯』(光文社知恵の森文庫、2004)を買う。ムーティ、小沢、シノーポリをはじめとするクラッシックの演奏家たちへのインタビュー。やっぱり芸術家って考えることが変だなと読んでいて安心する。いやそれだけのものを創り出しているから変でも許されているわけだが。しかしシノーポリのインタビューは面白い。
「モーツァルトは難しすぎる、自分にとって。モーツァルトを指揮するには非常に内面に凝縮されたものが必要です。それと特別の音色が必要です。モーツァルトは現在、悪く表現されすぎています。モーツァルトにはエレガントさだけでなく、その子供のような純真さと悪魔のような面の二つの対決がある。モーツァルトは物事を探していたのではなく、単にじっと見つめていただけなのです」
これは全くその通りだと思う。教文館のカフェで銀座通りを見下ろしながらこのくだりを読んで、シノーポリはすごい人だとおもった。しかし2001年に僅か54歳で亡くなってしまったのだという。天才はやはり危ういところに遊んでいるということなのだろうか。
最近『王様の仕立て屋』の影響で紳士服や紳士靴に関心があるのだが、日本では「銀座ヨシノヤ」がオーダーメードの老舗としては有名らしい。ネットで調べて出かけてみたら、なんと教文館の隣にあった。俺の目は節穴だ。地下一階の紳士靴売り場をのぞこうと思って自分の足元を見たら、とても気合の入った靴を見るような足元でない。失敗した。今度ちゃんとした格好をしてもう一度行くつもり。最近クライスラーの「愛の悲しみ」が気に入っていて、山野楽器で何か買おうと思ったらクライスラーの自作自演というCDを見つけて買う。クライスラーというのはどちらかというと演奏家として有名だったのだなと始めて意識する。川畠成道にとってもそういう曲だから弾きやすいのかなあとも思う。
松屋に行って紳士靴売り場でちゃんとした靴を少し見る。やはり3万円前後に壁がある。3万円以下のものはそういう目で見るともっさりしていて軽みが、つまりエレガントさがない。ちゃんとしたものは金がかかるなと思う。地下で食糧を買う。
1時半ころに帰宅して昼食。2時からワールドカップの代表選手発表を見る。最近そんなに熱心に見ていなかったから強い印象もそうなかったのだが、やはりあとでいろいろきいたり考えたりしてみると久保が入らず巻が入ったというのはかなりのポイントになりそうだ。巻という選手はわたしにもかなり印象が強いので、はいるといいなとは思っていたのだが、久保もVTRで見るとずいぶんへえと思うようなゴールを決めていて、怪我さえなければ、という感じなんだろうなと思う。
しかし、今回代表の発表をジーコが自分自身でやったのは非常に潔く、全責任を自分が負う、という気概を強くアピールするものだった。男らしく爽やかな方法だったと思う。
代表決定には今までいろいろ後味の悪いことがあった。フランスまで行ってからカズを外した岡田監督。悪い人ではないが、ちょっとあのやり方はカズの存在を見誤って男を下げた。自分で発表しなかったトルシエ。中村を外したのはいろいろ見解の分かれるところだが、それより神様のように下々のことには感知しないという姿勢がちょっと寒いものがあった。これまでの例に比べると、ジーコは非難も含めて全て自分で責任を取る、発表すること自体に強いプレッシャーを感じているのも会見の様子から感じられた。「マキ」と告げたときのどよめきは、ジーコ自身も予想したものだっただろう。しかしその理由を説明するジーコの態度も迷いがなく立派だったし、それを受けての巻の「日本のために頑張る」というコメント、久保の「そういう理由なら仕方が無い」というコメントも、ジーコ自身がNHKを始め各テレビ局で生中継されるような国民的プレッシャーを自分で引き受けたからこそのことで、男だなあとちょっと泣けてきた。
一次リーグも強豪ぞろいで道は決して平坦ではないが、後味のよい爽やかな試合を強く期待する。きっとこのチームならできると思う。反日を跳ね返したアジアカップの感動を、WBCの歓喜を、ワールドカップの場でもぜひ再現してもらいたいと思う。
夕方友人から電話がかかってきていろいろ話す。アフィリエイトプログラムに凝っていて、よくそういう話を聞かされるのだが、ミクシィは「手が回らない」からそこまではやっていないといっていた。わたしも周囲にやっている人がおらず、招待してくれる人もないのでどんなものだろうと思っているばかりなのだが、googleに引っかかってこないような貴重な情報が中にあるなら見てみたいものだとは思う。どんな感じなのだろう。
同時並行して読んでいる本がどんどん増えてきた。とにかくひとつ書き上げるという目標に向かってイメージが開いて行っている。
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昨日の行動をレシートを整理して思い出す。消費行動によってのみ記録される生活というのもどうかと思うが。朝方散歩に出かけて、デジカメの電池が充電がなかなか出来なくなってきていたので新しいのを買った。一度帰ってそれを充電器にセットしてから銀座に出かける。「思い出し」をやっているので盛んに昔行ったことのある場所に行きたくなっているせいもあり、しばらく出歩き傾向が続くか。教文館で何か買おうと思っていろいろ思いついたものを探そうとするがなく、ちょっとアーチストの物言いを聞こうと思って石戸谷結子『マエストロに乾杯』(光文社知恵の森文庫、2004)を買う。ムーティ、小沢、シノーポリをはじめとするクラッシックの演奏家たちへのインタビュー。やっぱり芸術家って考えることが変だなと読んでいて安心する。いやそれだけのものを創り出しているから変でも許されているわけだが。しかしシノーポリのインタビューは面白い。
「モーツァルトは難しすぎる、自分にとって。モーツァルトを指揮するには非常に内面に凝縮されたものが必要です。それと特別の音色が必要です。モーツァルトは現在、悪く表現されすぎています。モーツァルトにはエレガントさだけでなく、その子供のような純真さと悪魔のような面の二つの対決がある。モーツァルトは物事を探していたのではなく、単にじっと見つめていただけなのです」
これは全くその通りだと思う。教文館のカフェで銀座通りを見下ろしながらこのくだりを読んで、シノーポリはすごい人だとおもった。しかし2001年に僅か54歳で亡くなってしまったのだという。天才はやはり危ういところに遊んでいるということなのだろうか。
最近『王様の仕立て屋』の影響で紳士服や紳士靴に関心があるのだが、日本では「銀座ヨシノヤ」がオーダーメードの老舗としては有名らしい。ネットで調べて出かけてみたら、なんと教文館の隣にあった。俺の目は節穴だ。地下一階の紳士靴売り場をのぞこうと思って自分の足元を見たら、とても気合の入った靴を見るような足元でない。失敗した。今度ちゃんとした格好をしてもう一度行くつもり。最近クライスラーの「愛の悲しみ」が気に入っていて、山野楽器で何か買おうと思ったらクライスラーの自作自演というCDを見つけて買う。クライスラーというのはどちらかというと演奏家として有名だったのだなと始めて意識する。川畠成道にとってもそういう曲だから弾きやすいのかなあとも思う。
松屋に行って紳士靴売り場でちゃんとした靴を少し見る。やはり3万円前後に壁がある。3万円以下のものはそういう目で見るともっさりしていて軽みが、つまりエレガントさがない。ちゃんとしたものは金がかかるなと思う。地下で食糧を買う。
1時半ころに帰宅して昼食。2時からワールドカップの代表選手発表を見る。最近そんなに熱心に見ていなかったから強い印象もそうなかったのだが、やはりあとでいろいろきいたり考えたりしてみると久保が入らず巻が入ったというのはかなりのポイントになりそうだ。巻という選手はわたしにもかなり印象が強いので、はいるといいなとは思っていたのだが、久保もVTRで見るとずいぶんへえと思うようなゴールを決めていて、怪我さえなければ、という感じなんだろうなと思う。
しかし、今回代表の発表をジーコが自分自身でやったのは非常に潔く、全責任を自分が負う、という気概を強くアピールするものだった。男らしく爽やかな方法だったと思う。
代表決定には今までいろいろ後味の悪いことがあった。フランスまで行ってからカズを外した岡田監督。悪い人ではないが、ちょっとあのやり方はカズの存在を見誤って男を下げた。自分で発表しなかったトルシエ。中村を外したのはいろいろ見解の分かれるところだが、それより神様のように下々のことには感知しないという姿勢がちょっと寒いものがあった。これまでの例に比べると、ジーコは非難も含めて全て自分で責任を取る、発表すること自体に強いプレッシャーを感じているのも会見の様子から感じられた。「マキ」と告げたときのどよめきは、ジーコ自身も予想したものだっただろう。しかしその理由を説明するジーコの態度も迷いがなく立派だったし、それを受けての巻の「日本のために頑張る」というコメント、久保の「そういう理由なら仕方が無い」というコメントも、ジーコ自身がNHKを始め各テレビ局で生中継されるような国民的プレッシャーを自分で引き受けたからこそのことで、男だなあとちょっと泣けてきた。
一次リーグも強豪ぞろいで道は決して平坦ではないが、後味のよい爽やかな試合を強く期待する。きっとこのチームならできると思う。反日を跳ね返したアジアカップの感動を、WBCの歓喜を、ワールドカップの場でもぜひ再現してもらいたいと思う。
夕方友人から電話がかかってきていろいろ話す。アフィリエイトプログラムに凝っていて、よくそういう話を聞かされるのだが、ミクシィは「手が回らない」からそこまではやっていないといっていた。わたしも周囲にやっている人がおらず、招待してくれる人もないのでどんなものだろうと思っているばかりなのだが、googleに引っかかってこないような貴重な情報が中にあるなら見てみたいものだとは思う。どんな感じなのだろう。
同時並行して読んでいる本がどんどん増えてきた。とにかくひとつ書き上げるという目標に向かってイメージが開いて行っている。
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> 両立させる通路になる可能性のあるわずかなものの一つなんだ
> ろうなと思う。
僕の好きなカタルーニャ人のJordi Savall( ジョルディ・サバール、スペイン人ではないので“ホルディ”とは読まない)の率いる楽団の名前は、Le Concert des Nationsなのですが、そういう意識があるのではないでしょうか。ただ、私の好みから言えば、互いの融合を通じてナショナルものを超えるようなものを作り出す可能性があるという点を強調したいのです。shaktiというグループは、そういったフュージョン的音楽の試みだったのです。
ところでクンデラの小説論『カーテン』は、まさにナショナルなものと欧州的コスモポリタニズムについて言及している。
ヨーロッパのすべての国民は共通の同じ運命を生きているが、しかしそれぞれに固有な個別の経験をもとにして、その運命を別々に生きている。だからこそヨーロッパの芸術の歴史は一つのリレー競争のように見えるのであり、そこでは異なった様々な国民が互いに同じバトンを渡し合う。
ポリフォニー フランス=>イタリア>=オランダ=>ドイツ (バッハ)
小説 アイスランド==> 18Cイギリス=>フランス=>ロシア、スカンジナビア
なるほど。それは確かにひとつの方向性ではありますし、ある意味否応なく進行していくものでもありますね。
私自身としては、そういうものの進行の度合いが、私自身の感覚としては「速過ぎる」という感じがするので、なるべくナショナルなものが保存されてほしい、ということからその民族なりのある程度のピュアリティが尊重されるといいなという感触を持っているのだと思います。
クンデラは興味はあるのですが、まだ手が回らず、読めていません。ただ芸術だけでなく、経済活動や世界帝国化なども実に回り持ち的な感じがヨーロッパの場合はしますね。モデルでありながら特殊でもあるヨーロッパという存在は興味深いものではあると思います。