爺さんが伝えたいこと

寡黙に生きて来た爺さんが、一つの言葉ででも若い人達の役に立つならば、幸いです。

「実行力」を磨く

2022-03-08 13:57:20 | 日記
弟子の子貢がある日、孔子に向かって、こんな質問をした。

「貧乏であっても、へつらう事なく、金持ちであっても、驕り高ぶる傲慢さがない…、こういう人物は如何なものでしょうか。理想的な生活態度と言えるでしょうか」

孔子は、次の様に答えた。

「それは、まあ結構な態度だと言えよう、でもな、それよりもっと素敵な生き方とは、貧乏であっても、その日その日を元気に明るく、皆んなと楽しみ、お金持ちになっても、和やかで優しく礼儀のキチンとした毎日を送る事だね。

お金の有る無しではなく、毎日の生活を礼を尽くして、元気に明るく楽しく生きられる様に工夫する事だ」

すると、子貢がこれを受けて言った。

「『詩経』にある‘’切磋琢磨‘’ですね」

「切」とは、象牙とか玉石岩を切り取る事。

次にそれを「磋」する。

磋とは、ヤスリで磨く事。

さらに「磨」とは、ノミでコツコツと美しい形を作る事。

最後に「磨」で砥石や金剛石でさらさらとピカピカに磨き上げる。

一口に、毎日毎日を常に明るく楽しく、礼儀正しく生きよと言われても、ああそうですかと言って、簡単に自分の生活のクセを、変える訳には行かないだろう。

この生き方は、真に簡単に一言で言いきれるが、実行は甚だ難しい。

一年、二年、三年と「切磋琢磨」、実践・実修して、少しずつ身に付けて行くのである。

「山上更に山有り」ーーこれは禅語である。

山の上には、更に高い山がある。

人生の修養に終点はない。



自分に必要か

2022-03-06 20:04:11 | 日記
電化製品も車も、あまりに安いと、そんなに欲しくなくなる。

家や土地は手が届きにくい値段になると、返って何とか手に入れ様と、執着し始める。

物の値段というものは、とても上手く付けてある。

今の自分の収入では、とても買えないがローンを利用すれば、まったく買えなくはない。

そうなると、あまり必要の無いものにも、強い執着心を抱く様になり、その物から心が離れなくなってしまう。

その執着心に心を惑わされ、人生の道筋を狂わされてしまう。

いつの間にか、とても出来ないのに、出来ると思わせてしまう魔法の杖を持たせられ、無理の上に無理を重ね、ものの奴隷になる。

孔子は子路というお弟子さんに「鳥たちの動きを見ていると、その時その場に応じた、執着のない行動をしているね」と言った。

子路はそこへ飛んできた、キジに餌を投げた。

キジは三回餌の匂いを嗅いだだけで、さっと飛び去った。

孔子は「せっかく目の前に投げられた餌でも、必要が無ければそれを食べないね」と。

春爛漫の桜の花。ああ、美しい。花の舞いもたまらない。雲に隠れたり現れたりする名月。ああ、いつまでも眺めていたい…。

私たちは、花にも月にも執着する。

執着心があるから、人生は成り立つ。

仏を思い経を読むのも、執着である。

執着すべき事に、執着の気持ちを起こさなくては、一体何の人生ぞ。

孔子が忠告するのは、自分に必要のないものには、執着してはならぬ、という事なのだ。

「三たび嗅ぎて作つ」ーーちょっと嗅いで、自分に不必要なものからは、さっと去る。

進むべきか去るべきか、執着すべきか捨てるべきか。

人生はそれが一番難しい。




「変化」を恐れない

2022-03-05 18:51:24 | 日記
現実というものは、あッという間に変わる。

今朝は雨だったのに、昼からはカンカン照りという様に…。

今年は景気が良かったのに、来年は不況になる…。

社会の流れがどんどん変わっているのに、自分の頭にこびり付いた善悪の固定観念を曲げる事ができない。

とにかくなりふり構わず強情に、自分の考えを張り通して、それで勝った積もりでいるのは、最低に下落した人間である事に、一向に気が付かない。

孔子は「過ちては、即ち改むるに憚る事なかれ」の名言を残している。

自己主張はいくらしてもいいが、自分の考えが今の時制に合わない事があったら、面子に拘ってどこまでも押し通す事はしないで、「いや、これは私の間違いです」と、率直に認める。

孔子は謙虚を美徳とし、頑迷を嫌った。

自分の力を頼み、頑として言い張る人に対しては、孔子は何一つ自分の意見を言わなかったという。

「先生ちょっと困った問題が起きたので、相談に乗って欲しいんですが…」と、私の処へある青年がやって来た。

「先生、私はこれこれと思うんですが」

「いや、その考えは違うと思うよ」

「えッ、先生がこの考えを否定されたら、僕は動けないんです。僕の一番大事に思っている事なんですから」

「大事に思っていても、この考えはダメ」

「ダメですって。でも、僕はこの考えでずーっと頑張って来たんですよッ」

ちょっと用事が有ったので、帰って貰った。



頭でっかちに

2022-03-02 21:52:19 | 日記
学問とは、何かただ難しい字を記憶したり、数学の公式で難問を解いたり、解読できない古文を読める様にしたり、和歌を楽しんだり、詩を作ったり、歴史の年表を暗記したり…。

これも学問の一部ではあろうが、学問の大道ではない。

「学べば即ち固ならず」

いろいろな事を記憶する事が、学問だと思っている人は、記憶力だけが宝だと思い、手を汚して実践実習する事をしない。

その為に空論だけはうまく並べるが、すっかり実行力を失って、コチコチに固まったつまらない人生を、送る事になる。

頭は良く廻るが、まともな挨拶一つできない。

本当の学問とは、まず身の行いを良くする事を本質とする。

孔子は「驥(き)は其の力を称せず、其の徳を称す」(憲問)と、言っている。

名馬はその力ではなく、徳を誉められる。

学歴はレッテルだ。

どんな立派なレッテルでも、中身が実践力のない人では困る。

学生たちは机にしがみついて、勉強するのが優秀な者とされる。

成人するや、仕事ばかりが大事で、休日でも出勤しないと、気分が悪くなる人もいる。

みんな奇妙な数学に、振り回されている。

今日では、成績の良い人か運動神経の良い人が、妙にもてはやされ、そうでない者はなかなか注目されない。

でも勉強もすれば遊びもする。

仕事もすれば、芸能や道の修行もできる総合的な人が、一旦危機に立たされると、思わぬ実力を発揮する。

坂本龍馬も少年時代は、落ちこぼれであった。

ケネディ元大統領もCランク、最低の成績だったらしい。