A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

12月21日(日)のつぶやき

2014年12月22日 01時44分16秒 | 既刊本

我々は他者と交わることによって現存在を確認する。自分の思い込みや考えでは現存在を確認することは出来ない。なぜなら自分が自分たらしめる所以は他者から自分を認識させることにあるからである。他者がいなければ言語の必要もないし、思想の交流もない。それほど自分の存在はあやふやである。

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友人との信頼関係を疑うことは欺瞞である。欺瞞の中で生きる人々には信頼と云う言葉は戯言に聞こえるだろう。しかしそういう人々は本当の友情を知らないのである。友人に頼りきりでもいけないし、独りよがりでもいけない。いざとなったら全てを擲って助けてくれる友人は貴重である。



12月20日(土)のつぶやき その2

2014年12月21日 01時45分58秒 | 既刊本

@PhilosophyOR カント、ショーペンハウアー、ゲーテ、ベルクソン、ヴァレリー等に詳しく書いてあります。しかしカントの訳文はどこの出版社もおかしいところがあるので、原典のドイツ語で読むことをお勧めします。


@PhilosophyOR ゲーテの「色彩論」のことですね。普通まっとうな小説家はちゃんと哲学書を読んで論文なども書いていますので、日本文学や海外文学も読んだ方が良いですよ


@PhilosophyOR 日本文学でお勧めするのが、宮沢賢治、芥川龍之介、横光利一、遠藤周作等です。カミュの作品は原典でない理解しづらい部分もありますが読んで損はありません。デュマの作品は傑作ぞろいですよ。「レ・ミゼラブル」の他に「三銃士」などもお勧めです


@PhilosophyOR 三島由紀夫は合わない合うがあります。森鴎外は私が好きな作家の五本の指に入りますね。他にはディドロやルソーなども読んでおいた方が良いでしょう。デュマは「モンテクリスト伯」などを出していて有名ですよ。後は生理学者のメチニコフも面白いです


【19時定期】【拡散希望】小説家になろうで「百円の彼女」連載中です。細かく投稿していきたい思います。読んで感想をもらえると嬉しいです。
syosetu.com/usernovelmanag…


よく私は人の質問や疑問にすぐさま回答出来るね、と云われるがその理由は考えることを止めないからである。これは処世術の一つかもしれないが毎晩寝る前に一時間以上様々なことを考えると咄嗟の疑問や質問に答えられるようになってゆくものである。人の進歩は一日にしてならないのである

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@PhilosophyOR 小学校四年生の時に読んだ「満州第七三一部隊」ですね。それともう一つは同時期に読んでいたアインシュタインの「一般及び特殊相対性理論」です。


@PhilosophyOR 私が中学二年生の時なんて喧嘩ばっかりしていました。それでも生徒会副会長でしたけどね。「満州第七三一部隊」は内容がとても衝撃的でした。普通は子供に読ませるものではありませんね。私の恩師が云っていたのは「あの部隊は鬼畜だ。人間以下の存在だ」と云っていました


人間は人に褒められると自己充足感がます。これは人格形成時に必須のことである。仮に人格が形成される時に自分のことを否定ばかりされていると歪んだ人格が生まれてくる。とこれは通説ではあるが例外はある。性犯罪者に成る者は生まれた時から決まっている。悲しいことに性犯罪者の更生は不可能に近い


@PhilosophyOR 理論は理解していたみたいですよ。小学校の時に塾に行っていた時に算数の担当の先生が親に「あの子は相対論を理解しているから安心してください」と云っていたみたいです。その時に特殊相対論について小論文も書いていますしね


@PhilosophyOR けれども、高校時代は犯罪に手を染めて全く勉強をしませんでしたよ。酒を飲んだり煙草を吸ったりして喧嘩に明け暮れていました。けれども高校一年生から始めた囲碁は毎日欠かしませんでしたね。今は一応アマチュア七段ですね。


@PhilosophyOR 小学生の時の虐めで精神を病んでしまったせいです。今、そいつらを追い詰める算段を外国の警察と軍の友達と検討中です。囲碁七段はアマチュアで最高位ですね。プロ初段以上の実力です。Facebookのことを訊いたのはチャットがしやすいかもしれないと思ったからです


@PhilosophyOR 皆は普通、復讐は良くないと云いますが、しないと前に進めない時もあります。心の清算です。実際そいつらはもう一部の国では入国拒否リストに載っていますしね。Facebookの件は無理をしなくても大丈夫ですよ。自分から言い出してあれですが。



12月20日(土)のつぶやき その1

2014年12月21日 01時45分57秒 | 既刊本

@PhilosophyOR 生産物によって自分を認知できることはおかしい。結論から言えば我々は生まれて明瞭な意識を手に入れることによって自己を認識する。例えば鏡を見て自分の存在に気付く様に生産物以前に意識が重要視される。要するに「我思うゆえにわれは存在する。」と云うだけ


@PhilosophyOR 後は助言するとすれば、高名な学者と云ったからと云ってそれを真理だと思ってはいけない。学者だって人間なのだから間違えることもある。哲学をやり続ければ判るが、ハイデガーやヤスパースは凡人。アインシュタインも凡人。でもカントは凄いなども判ってきますよ


@PhilosophyOR カント以外ならばアリストテレス、プラトー、キルケゴール、ショーペンハウアー、ベルクソン、メルロ=ポンティ等です。哲学にしても自然科学においても自ら思索して自力で審理に辿り着いた人は凄いです。


@PhilosophyOR 続きとして書けば自然科学者で特に優れているのは、ハイゼンベルク、ニールスボーア、シュレーディンガー、ガロワ、クレぺリン、ジャネ、ヒポクラテス、オイゲン・ブロイラー等です。


@PhilosophyOR 凄さに優劣をつける最初の基準は、この学者は広く深く学問をしているだろうか、と云うことです。自分の分野は勿論他の学問も深く探求しなくてはなりません。要するに本当の学者を気取るならば万能学者でならなければならないと云うことです


@PhilosophyOR ショーペンハウアーが若き日のニーチェに相当の影響を与えたのは知っているが、晩年のニーチェは違う。哲学と詩人のどっちつかずで浅慮で読んでいて見識が狭いのが解かる。したがってニーチェを我々は高く評価していません。


@PhilosophyOR ベンサムとヴィトゲンシュタインはやめておいた方が良い。ヴィトゲンシュタインが最初に出した本の内容はショーペンハウアーの本の剽窃が殆どだし、ベンサムに至っては私の記憶にすら残っていない。エラスムスとかトマス・アクィナス、聖アウグスティヌスなんかも良い


@PhilosophyOR また哲学を知りたいのならば勿論文芸書も読まなくてはならない。なぜなら読まないとその作家の書いた内奥の精神世界が把握できないからである。また文芸を研究する時にも必要だからである。


@PhilosophyOR ベンサムよりデュルケームを読んだ方が良いかな。もっと詳しく政治や経済の問題を知りたいなら、リップマン「世論」をお勧めします。またヴィトゲンシュタインは過剰評価されすぎです。まあ、程度が低い人々が多いこの世の中でその人たちの能力に近いから支持されている


@PhilosophyOR 読んだ方が良いですね。私が呼んだのはかなり昔なので参考になりませんが、サルトルの本は哲学的推敲を要するので面白いですよ。他にはクレッチマーの「天才の心理学」は秀逸ですよ。話は逸れますが英の経済学者ミルは神童ともてはやされていたが、天才の本を読んだ時


@PhilosophyOR 絶望したそうです。なぜなら自分は天才ではないと悟ったからです。これはミルの自伝に書いてありました。


@PhilosophyOR 読むべき本はポールヴァレリー、キルケゴール等ですね。沢山ありすぎて書ききれません。ミルが驚いたのは冷静に天才の書いた書物を読んで圧倒されてしまったからでしょうね。因みに私は落ちこぼれでしたが、19歳の頃から猛勉強を始めましたよ。


@PhilosophyOR いや、程度の低い話ではありません。東大の大学院で哲学を専攻している学生と何回も話したことはありますが、20歳そこそこの私に全く反論できずに終わりましたよ。まあ、普通の会社員や公務員になりたいなら東大は有利でしょう。でも私は大半の東大生は馬鹿だと思います


@PhilosophyOR 悩めるだけ悩んだ方が良いでしょう。私の場合は高校卒業後、すぐに特殊訓練学校に行きましたが、後悔はしていません。自分が後悔しないような選択肢をした方が良いと思いますよ


私達は自分が存在しているのをどうやって確かめるのだろうか。確かに自我を以て自分の実在を確かめることはできるが、その自我自体が不可思議なものである。自我判簡単に他人の甘言によって揺り動かされるし、また夢と現実の区別がつかない時点で自分の存在のあやふやさを知るのである。


@PhilosophyOR 夢の中で「その認識」があるとは限らない。実際に夢と現実の区別が解からなくなるように「その認識」とは極めて曖昧である。認識だけが存在する場合はある。ショーペンハウアーの純粋主観にそのことは論じられている。人は芸術や音楽を鑑賞する時認識を放棄する。


@PhilosophyOR 要するに忘我の境地に陥り、主観と客観が融合することをショーペンハウアーは純粋主観と述べた。芸術を鑑賞している人物は自分が認識していると云う形態ですらないのである


@PhilosophyOR 詰まる所、純粋主観とは忘我の境地に立った認識のみのことを云うのである。


@PhilosophyOR 認識とは明白意識を伴わないと認識とは呼べない。大塚さんの言っている認識は認識ではなく、直観のことです。認識とは正当性の上に成り立っています。なぜなら自分の意識が鮮明であればあるほど認識の度合いが増すからです。それを突き詰めた先が直観です。


@PhilosophyOR 直観の定義は複雑を極めるので直観について書かれた本を何冊も読んで下さい


@PhilosophyOR 「直感」ではありません。「直観」です。全然意味が違います


@PhilosophyOR 直観とは肉体が前提です。私が述べた直観についてだけでも原稿用紙200枚以上あるのでここでは説明は無理です。



12月19日(金)のつぶやき

2014年12月20日 01時47分28秒 | 既刊本

@PhilosophyOR まあ、ソシュールもマルクスも間違っている部分がありますね。ソシュールの言っていることを咀嚼すれば、「心のうちで言語化して」と云うことでしょうし、マルクスの言っていることはナンセンスですね


親友に云われて印象に残っているのが「こいつは今まで生きてきて楽しいことなんて一度もなかったんだぞ!お前らにこいつの気持ちが解かるのかよ!」と云う一言であった。これは無頼漢な奴に親友が云った言葉である。確かにその通りであった十数年前までは


文章には感情がこもる。文章を書くときに熱情的であれば、熱情的な文章に。憂いがあれば憂いがこもった文章が出来上がる。しかしそれを看取するのは読み手であるため、文章に籠った感情に作者は往々にして気付かない。ちなみに私は熱情的な文章を書くらしい。


集団化された人々の個とは画一化された凡庸の集まりである。純粋に優れた個とは集団化された人々の上に立つ。しかしその時にあまりに自分が優れているのを凡庸な人々に見せてはならない。それを見せるのは側近にだけで十分である。そして優秀な個の集団が世界に君臨するのである。


イーグルトンは文学に対して「緊張が必要だ」と述べている。なるほど単調な文章では読者に緊張を与えず、物語の先に読者を誘導できない。緊張があると読者は胸を躍らせ、次は何が起こるのだろうと云う緊張感の下、ページをめくっていく。こうして考えると文学論とは中々面白いものである


よく学のない人は色々な物事に対して「色々な考えや見方がある」と云うが真理は一つであるのだから一つである。二律背反があり真理は二つであると云う人もいるかもしれないが、物事には絶対二律背反が存在すると云う命題から真理は一つであると導かれるのである。物を考えることに妥協は許されない。


精神科医の先生に「相貌学」は勉強しておいた方が良いですかと訊ねたら「直接精神医学には関わってこないけれども、学問の基礎だからやっておいて損はないよ。」と云われた。けれども相貌学の本が少なすぎるし、読んでも独りよがりな意見が多い様な気がする。



12月18日(木)のつぶやき

2014年12月19日 01時47分01秒 | 既刊本

文学とはなんであろうか。ショーペンハウアーの定義によれば文学の中には哲学も含まれる。とはいっても、なかなかしっくりくる文学の定義が思い浮かばない。でも思うのが哲学を除いた文学に共通するのは圧倒的な独創性であろう。誰の力も借りず、日常生活の些細な部分を題材に情味豊かに創作できるのは


文学ぐらいのものであろう。私が思うに文学とは究極的な心理学に他ならないと思う。知らず知らずのうちに自分の深層心理が文章に現れるからである。自分の書いた小説を読み直して、随分今の時分の考えとは違うなどと思うのは日常茶飯事である。書き続けることによって人は自分自身を振り返るのである